──カチリ。
静寂の中で、小さな歯車が噛み合う音がした。
その音が鳴った瞬間、世界の“表面”が微かに軋む。
視界はまだ開かない。
音も、匂いも、感覚も曖昧だ。
だが確かに――何かが「動いた」。
(……どこだ、ここは……)
頭の奥で誰かが呟く。けれどそれは他人ではなく、自分自身のようだった。
まるで深い夢の底から、意識だけが浮上していくような奇妙な感覚。
浮かぶ。沈む。回る。
そして、瞼がゆっくりと開いた。
光が差し込む。
その光は、見慣れた太陽のものではなかった。
灰色の空。
網のように絡み合った金属の橋梁が空を覆い、
遥か頭上には、巨大な船が浮かんでいた。
吐き出される黒煙。
遠くで軋む蒸気音。
焦げた油の匂いが鼻を刺す。
(……ここは……)
身体を起こすと、地面は鉄板でできていた。
まばらに錆び、所々が熱を帯びている。
周囲には鉄骨と配管がむき出しの建物が並び、都市全体が“機械”で構築されているかのようだった。
異常だった。
見知らぬ風景。異質な空気。すべてが現実離れしている。
けれど、
それでも「夢じゃない」と思った。
右手には、見覚えのあるものがあった。
煤けた真鍮の懐中時計。
蓋の表には、精巧な歯車のレリーフ。
“Chrono Rex Machina”
裏面に刻まれたその言葉は、見覚えがある。
それは確かに、昨日――名古屋のフリーマーケットで見つけたものだった。
(あれを手に取って、部屋に戻って……)
思い出そうとした瞬間。
「止まれ!」
鋭い声とともに、金属の足音が響いた。
鉄板の路地の奥から現れたのは、蒸気で駆動する装甲を身にまとった数人の兵士だった。
その銃口が、悠真に向けられる。
「その時計を渡せ! 貴様、何者だ!」
悠真は咄嗟に身を引く。
動けない。思考が追いつかない。だが――
次の瞬間、風が吹き抜けた。
「そっちじゃない! 早く、こっちへ!」
鋭く、しかしどこか凛とした声。
現れたのは、ひとりの少女だった。
短く切りそろえられた黒髪。
ゴーグルに義手。
蒸気のうねりをまとうような、奇抜なスーツ。
彼女は手を差し伸べた。
「捕まって! 今すぐ!」
その瞬間、悠真の身体が勝手に動いていた。
少女の手をつかみ、バイクに飛び乗る。
その背にしがみつくと同時に、後方で蒸気銃が炸裂した。
「名乗るのは後! あんた、運がいいね!」
少女が叫ぶ。
バイクが唸り、クロノポリスの路地を駆け抜ける。
遠ざかるギアガードの怒声。
風の中、悠真の耳元で懐中時計が小さく鳴った。
──カチリ。
それはまるで、世界の歯車が噛み合った音のようだった。