灰色の空が広がっていた。
無数の鉄骨が複雑に組まれた都市。
上空には、巨大な船のような構造物が浮かび、黒煙を吐き出している。
藤崎悠真は、金属の路地に膝をつき、ただ呆然とその景色を見上げていた。
(夢じゃない……)
匂いがある。
煤と油と焼けた鉄の匂いが、鼻の奥をじわじわと刺してくる。
皮膚に感じる湿った空気。
耳に響く、蒸気の唸りと機械の駆動音。
そして――右手に、見覚えのある感触。
真鍮製の懐中時計。
昨日、名古屋のフリーマーケットで買ったはずの、壊れた時計だった。
でも今、その時計は微かに震えていた。
何かが中で回っているような音がする。
(どうして……ここはどこなんだ?)
立ち上がろうとした瞬間だった。
「止まれ!」
怒号。
足音。
そして、金属の装甲をまとった兵士たちが、路地の奥から現れた。
その手には銃のような武器。
肩口からは蒸気が噴き出し、目の奥で赤いレンズが光っている。
彼らの視線が、悠真の手の中にある懐中時計に集まった。
「その時計を渡せ!」
「貴様、何者だ!」
何も答えられない。
身体が動かない。
ただ、逃げなければという本能だけが警鐘を鳴らしていた。
「こっちだ!」
路地の陰から、少女の声が飛んできた。
現れたのは、短髪の少女。
ゴーグル、鋼の義手、そして蒸気をまとったような奇妙なスーツ。
彼女は蒸気駆動のバイク――ギアホッパーの上に立ち、悠真に手を伸ばした。
「捕まって!」
その声に導かれるように、悠真は手を伸ばした。
次の瞬間、強く引かれてバイクの後部に乗せられる。
直後、背後で爆音。
蒸気銃が炸裂し、鉄板の壁に火花が飛び散った。
「名乗ってる場合じゃないね! 飛ばすよ!」
ギアホッパーが唸りを上げ、クロノポリスの狭い路地を疾走する。
風が顔を叩く。
恐怖と速度で、視界がぶれる。
だが、少女の背中は小さいのに頼もしかった。
「なんで俺を助けたんだ……!?」
「だって、その時計、普通じゃないでしょ?
それに――見捨てるほど冷たくもないさ!」
悠真は、胸元の懐中時計を押さえた。
確かに、これはただの時計じゃない。
でも、だからこそ知りたい。なぜ動き出したのか。
なぜ、自分がこんな場所に飛ばされたのか。
蒸気バイクが立体的な都市構造を縫っていく。
橋、階段、トンネル、そして再び橋。
(俺は……どうしてここに?)
意識が朦朧とする中、記憶が巻き戻る――。
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昨日。
名古屋。
講義帰りの午後。
フリーマーケットの広場。
古びた工具やカメラの並ぶ中、ひときわ異質な存在感を放っていたのが、例の懐中時計だった。
「これはね、動かないけど――面白い作りしてるだろう?」
そう語ったのは、日除け帽を被った老人だった。
真鍮の外装。
レリーフの歯車模様。
裏面に刻まれた“Chrono Rex Machina”の文字。
ただの骨董品には見えなかった。
(構造が分かれば、修理できるかもしれない)
理系の探究心がくすぐられた。
値段も安かった。
それが、すべての始まりだった。
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そして今、現実が“歪んで”いる。
いや、**この世界こそが“現実”なのかもしれない。**
「前方、蒸気管が塞いでる!」
「左のバルブ! あれを回して!」
悠真の声に、少女は即座に反応。
義手でバルブをひねると、高圧蒸気が噴き出し、ギアホッパーが跳ねた。
跳ね上がった車体が、宙を舞うように障害物を飛び越える。
(……すごい……)
現実感が、逆に薄れていく。
でも確かに、目の前の光景は「生きている」。
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数分後。
二人は、クロノポリスの廃工場跡地へと滑り込んだ。
「ふぅ……無事だったね。怪我ない?」
少女がゴーグルを外す。
その瞳は澄んでいて、まっすぐだった。
「……ありがとう。本当に助かった」
「どういたしまして。あたしはアイリス、冒険家さ」
アイリス。
その名前が、音として耳に残った。
「で、あんたは? どう考えても“よそ者”だよね」
悠真は、自分の名前と経緯を語った。
アイリスは驚くこともなく、静かに聞いていた。
そして――
「その時計、見せてくれる?」
渡すと、アイリスは義手の指で優しくなぞった。
「これはただの時計じゃない。間違いなく“鍵”だよ」
「鍵……?」
「世界を繋ぐ鍵。……たぶん、ね」
少女の言葉の奥に、確かな確信があった。
悠真は、懐中時計を手に取り直した。
歯車が、一つ、カチリと動いたような気がした。
(俺の世界は、もう――戻らないかもしれない)
空を見上げると、黒煙を吐く巨大な船が悠然と浮かんでいた。
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「さ、行こうか。休んでる暇はなさそうだ」
アイリスの声が響く。
その声に従って、悠真は小さくうなずいた。
歩き出したその先で、物語の“歯車”が、確かに回り始めていた。