工房内に満ちる蒸気は、まるで生き物の呼吸のように壁を這い、天井に渦を巻いていた。
鉄と油の混ざり合った匂いが肺を満たすたび、悠真の胸は苦しく締めつけられる。それでも、彼は震える手で懐中時計を置き、硬い机の上にそっと視線を落とした。
エレノアは静かに、しかし確実にその時計を解析装置へと固定する。
彼女の瞳には、理性の光と、その奥に潜む底知れない狂気が入り混じっていた。
「……これは、まるで神話だわ……理論を凌駕する存在、論理を超えた結晶……!」
その声は震え、胸の奥から漏れるように熱を帯びていた。
普段の冷静さを完全に忘れたエレノアは、むしろ人間的に見えた。
バルドは無言のまま、巨大なレンチを握りしめていた。
額に浮かんだ汗が頬を伝い、工房の床に落ちる。
「……まるで心臓だ。生きてる……いや、“動いてる”って言うべきか……」
シオンは義手をぎゅっと握り込み、その音が静かな空間に響いた。
「……君は“観測者”だ。外からこの世界を覗き、選択を強いられる存在……」
悠真の喉が乾き、言葉がうまく出ない。
けれど、その恐怖の奥に、理系としての根源的な「知りたい」という熱が燃えていた。
(僕は、ずっと何かを解き明かしたかった。父と科学館に行ったあの日、小さな歯車を前に夢中で動きを追いかけた。あの時から、世界の仕組みを理解したかった。でも、怖かった……答えを知ることで全てが崩れてしまうんじゃないかって……)
今、その幼い頃の疑問と恐怖が胸を刺し、同時に背中を押していた。
「悠真、戻るなら今だ。選ばなくてもいいんだよ」
アイリスの声は鋭く、それでも優しさを含んでいた。
悠真の頭に浮かぶのは、研究室の夜、顕微鏡を覗き続けて見えた細胞の世界、陽菜が差し入れてくれた温かい缶コーヒー、少し眠そうな笑顔。
あの「大丈夫」という一言が、ずっと彼を支えていた。
(……僕は、本当は知ることが怖かったんだ。全てを解き明かせば、戻れなくなる気がしてた。けど……)
青白い光が、時計の中心から溢れ出す。
悠真の意識はその光に吸い込まれ、理屈を超えた暗黒の深淵へと落ちていく。
そこは巨大な心臓のように脈打つ構造体が漂う空間。
無数の歯車が絡み合い、青い光を帯びて回転し、金属音がまるでオルゴールのように響く。
空間は生きていて、呼吸しているようだった。
──「観測者よ、問う」
声は空間全体を震わせるように響いた。
──「従うのか、自ら選ぶのか。君の選択が、未来を、世界を、すべてを決定づける」
悠真は無言のまま、心に押し寄せる記憶の奔流を感じていた。
科学館で父と握った手、幼いころの笑顔。
研究室で一人泣きながらノートに書き続けた式、陽菜の無防備な寝顔と静かな呼吸。
(僕は……誰かの答えを待っていたのか……? いや、違う。僕自身で選ぶしかないんだ……!)
恐怖と希望が渦巻く中、悠真の中に生まれたのは、確かな「意志」だった。
現代、名古屋。
陽菜は乱雑に資料を散らかした部屋で膝を抱えていた。
机の上には、折り曲がった悠真の写真と、ノートに書き殴った数式が積まれている。
「……何度言われても、諦めるわけにはいかない……」
手の中のスマホ画面には、悠真が送ってきた時計の写真。
その青白い光が、まるで今にもこちらに話しかけてくるように見えた。
──カチリ。
小さな音が部屋の静寂を裂いた。
心臓の奥が冷たい針で刺されたように震え、涙が一滴、頬を滑り落ちる。
「悠真……待ってて……必ず、見つける……!」
陽菜の声はか細いが、意志は鋭く光っていた。
異世界、工房。
悠真の瞳がゆっくりと開き、視界に天井の歯車が戻ってくる。
だが、その内側にある感覚は確実に変わっていた。
エレノアが静かに口を開く。
「……見えたのね。選択の深淵を」
彼女の声は冷たいが、その奥には恐ろしいほどの熱が潜んでいた。
理屈と狂気の狭間に揺れる、純粋な探究者としての顔。
「……選べと、言われた。未来を……自分で……」
「そうよ。それが“観測者”の義務であり、特権でもある」
バルドはレンチを握ったまま、苦い顔で一歩前に出る。
「悠真、もうグダグダ言うな! てめぇの道は、てめぇが決めろ!」
その声には、理屈を超えた真っ直ぐさがあった。
彼が言葉にした瞬間、工房内の空気が少しだけ軽くなる。
シオンが義手を調整しながら静かに呟いた。
「選択は、最も贅沢で、最も残酷な自由……それを持つのは、君だけだ」
悠真は彼らを見渡す。
目が合うたびに、それぞれの信念と恐怖、そして小さな期待が伝わってくる。
工房の外から、鋭い金属音と共にギアガードの重い足音が迫る。
外気が冷たくなり、緊張がさらに張り詰める。
アイリスが悠真の肩に手を置く。
「どうする?」
悠真は小さく震えながらも、胸の奥で何かが確かに鳴るのを感じた。
(僕は、もう誰かに答えを求めない。選ぶんだ、自分の意志で……!)
深く息を吸い込み、目を閉じる。
意識の奥に浮かぶ陽菜の涙、研究室の光、幼少期の笑顔。
目を開けた悠真の瞳には、恐怖ではなく確かな「決意」の光が宿っていた。
「……ここで戦う。そして、この時計の真実を、自分で解き明かす!」
バルドが吠えるように笑い、レンチを振り上げる。
「そうこなくっちゃよ!」
シオンが義手の爪先を合わせ、小さく頷く。
「……最善の選択だ」
アイリスが拳を固め、笑顔を見せる。
「なら、もう迷うな!」
エレノアは静かに後ろへ下がり、口元に微笑を浮かべる。
「観測者よ……未来はもう、お前のものだ」
工房の扉が震え、爆音と共に煙が流れ込む。
悠真は時計を強く握り、再び歯車の噛み合う感覚が走る。
──カチリ。
その音は異世界と現代を貫き、陽菜の胸奥に確かに届いた。
陽菜は泣き崩れそうな顔で、小さく呟く。
「悠真……!」
その声は、まだ見えない未来へと届く、最初の一歩だった。