夜が明け、廃工場の天井に差し込む光が、錆びた梁をゆっくりと照らし出していく。鉄と油と煤に染まった空気はひんやりとしているが、どこか深い場所から立ち上る蒸気のぬくもりが、異世界に来たという悠真の実感を彼の皮膚へじわりと沁み込ませていた。
目覚めた悠真は、金属の床の硬さに体をこわばらせつつ、横で丸まって眠るアイリスの規則正しい寝息に気づいた。彼女の義手が夜露に濡れ、淡く光を反射しているのを見て、彼はふと安心する。追われる身でありながらも、ここにいる間だけは、確かな安息があった。ここ数日で、アイリスやバルド、シオンといった異世界の住人たちが築き上げる「日常」が、悠真の疲弊した心に微かな温もりを与えていた。
朝食は、アイリスがどこからか調達してきた硬い黒パンと、酸味の強い蒸留スープだった。鉄臭い味ではあるが、あたたかい。口に含むたび、疲れた身体に力が戻っていくのを感じた。
すでに工房は動き出していた。バルドは洞窟の片隅に設けた簡易的な作業場で、巨大な機械の調整に没頭している。金属を叩く鈍い音と、唸るような蒸気の音が、彼らの朝の訪れを告げていた。シオンは、火鉢の光を頼りに、小さな精密ドライバーを巧みに操り、義手の制御回路にルーペを覗き込んでいる。彼らは互いに多くを語らないが、空間には確かに“暮らし”と“共存”があった。
「で、あんた。今日どうする?」
スープをすすり終え、アイリスが真っ直ぐな瞳で悠真に問いかけた。その言葉は、まるで彼の胸の奥にある、最も曖昧な部分を突き刺すようだった。元の世界に戻る方法も、この世界の常識も、何も分からない。アイリスの言葉の通り、自分はまさに「よそ者」だった。このまま、彼らに匿われ続けるだけでいいのか?
悠真は、手の中で肌身離さず握りしめていた懐中時計に視線を落とした。それは、未だ謎に包まれたままだ。
「どうするって……正直、どうすればいいか全く分からない。元の世界に戻りたい気持ちもある……でも、この懐中時計のことや、君たちのこと、この世界のことも知りたい」
悠真は、心に浮かんだ正直な気持ちを、そのままアイリスに伝えた。半ば諦めかけていた故郷への帰還と、新たな世界への尽きない好奇心。その二つの思いが、彼の胸でせめぎ合っている。
悠真がそう言うと、アイリスはニッと笑った。
「そりゃいいな! じゃあ、まずはあんたのその時計のことだ。誰か、これの謎を解ける奴を探すのが先決だろう」
アイリスはそう言うと、残りのスープを一気に飲み干し、立ち上がった。その姿には、一切の迷いがない。彼女の行動力は、悠真の心を常に前へと向かせようとする。
「ついてきな! とっておきの場所があるんだ」
彼女の瞳は、まるでこれから始まる冒険への期待に満ちているようだった。悠真の内にくすぶる不安は、アイリスの明るさによって、少しだけ打ち消されるようだった。彼は迷いなく、彼女の言葉に従うことを選んだ。
アイリスに連れられ、悠真は再びクロノポリスの街へと足を踏み入れた。
鉄骨の迷路を抜け、ふたりは中層区画へと歩を進める。頭上では、巨大な歯車列車が轟音を立てて軌道を走り抜け、その振動が全身に響く。瓦礫の隙間から覗く露天市場では、からくり人形の修理職人が精密な作業に没頭し、蒸気で曇ったガラス窓の中では、義肢の調整を行う熟練の技が垣間見えた。肉を焼く香ばしい匂いと、金属を叩く音が混じり合い、活気あふれる喧騒が耳に届く。
「ここは技術と汗と、あとちょっとの夢でできてる街なんだよ」
アイリスが誇らしげに言った。彼女の言葉からは、この街に暮らす人々の息吹が感じられた。悠真は、その光景に、どこか希望のようなものを感じていた。
やがて、二人は上層へと向かう巨大な昇降機の前へとたどり着いた。錆びた鉄骨の巨大な柱が天へと伸び、それに沿って動く昇降機は、軋むような音を立てながらゆっくりと上昇していく。そのたびに、足元から響く振動が、悠真の身体を震わせた。
クロノポリスの上層街は、下層の薄暗さや中層の雑多な活気とは打って変わって、まるで別世界だった。空気は澄み渡り、整備された石畳の道がどこまでも続く。規則正しく植えられた街路樹は、まるで芸術品のように手入れされ、錬金術式の街路灯が明るく空間を照らしている。そこには、煌びやかな装飾が施された建物が並び、巨大な時計塔や煙突が、まるで天を突くようにそびえ立っていた。煙突から立ち上る煙も、下層の煤けた煙とは異なり、どこか上品に見える。
「……このへん、ギルドマスターたちの区画に近い場所だ。治安も厳しい。変なことはするなよ」
アイリスが低い声で忠告した。その言葉の重さは、普段の彼女からは想像もできないほどだった。この上層こそが、クロノポリスの真の権力が集中する場所であると、悠真は直感的に理解した。その権力には、ギルドマスターたちの「秩序」を守るための、冷酷な側面があることも。
悠真はその言葉の重さを感じながら、ついに目的の建物へと辿り着いた。
それは、巨大な蒸気塔の根元に建つ、ひときわ荘厳な館だった。重厚な金属の扉には、錬金術の紋様が複雑に刻まれている。扉の表面には、無数の小さな歯車のレリーフが埋め込まれ、その一つ一つが、まるで生きているかのように微かに鼓動しているように見えた。
「ここが、あの女の工房さ。腕は確かだが、変わり者だからな。あんたの時計のこと、もしかしたら何か知ってるかもしれない」
アイリスが軽く扉を叩くと、扉の奥から無機質な、しかし確かな声が聞こえた。
「……何の用だ、アイリス。また機械を壊してきたのか?」
扉がゆっくりと内側から開かれる。
扉の奥から現れたのは、白衣のような作業着を着た女性だった。その顔立ちは整っているが、目の下には深いクマがあり、髪は乱れている。片方の手にフラスコを持ち、顔にはわずかに煤が付着していた。彼女こそが、天才錬金術師、エレノア・ヴェスタだった。
彼女の瞳は、悠真とアイリスの姿を捉えるやいなや、警戒するように細められた。しかし、その視線はすぐに、悠真が持つ懐中時計に固定された。その瞳には、強い好奇心の光が宿っていた。
「こいつが例の、“落っこちてきた異世界人”ってわけか」
エレノアが、フラスコを置くと、悠真に歩み寄った。彼女の動きは淀みなく、まるで計算され尽くした機械のようだった。
「その時計……見せてくれない?」
悠真は戸惑いながらも、ポケットから懐中時計を取り出した。
その瞬間、工房の空気が変わった。
悠真の手から離れた懐中時計は、淡く蒼い光を放ち始めた。その光に呼応するように、部屋の照明が点滅し、壁に飾られた大時計の針が勝手に動き出す。工房全体に置かれた蒸気機器が一斉に震え出し、錬金装置の水銀が激しく泡立った。それは、悠真の持つ懐中時計が、この工房全体のアストラル波と共鳴している証拠だった。その蒼い光は、まるで悠真の心臓の鼓動とシンクロしているかのようだった。
「これは……共鳴反応……! しかもこの出力、私の装置より高い!?」
エレノアは、興奮を隠せない様子で叫んだ。彼女の顔は、新たな発見への歓喜に満ち溢れている。その様子は、悠真がかつて知っていた、学問に没頭する天才科学者たちの姿と重なった。純粋な探究心が、彼女の冷徹な仮面を打ち破っていく。
エレノアの言葉をよそに、バルドが低く呟く。
「こいつ、起動してやがる。止まったはずの“時”が動いてる……」
悠真はその反応に、思わず聞き返す。
「どういうことなんですか? この時計が……何なんですか?」
すると、静かに口を開いたのはシオンだった。彼の声は落ち着いており、混乱する悠真に冷静な情報を提供しようとしているようだった。
「この時計は、時間という“座標”そのものに触れる媒体。そして、悠真さん、貴方はその“座標”を動かす“観測者”……あるいは、そこに“干渉”する者かもしれない」
あまりに現実離れした言葉の羅列。しかし、悠真は不思議と拒絶する気にはなれなかった。彼の理系的な頭脳は、その言葉の背後にある、深遠な「理(ことわり)」を感じ取っていた。懐中時計が持つ力、そして彼がこの世界に転移した理由。全てが、今、目の前で語られていることと繋がっているような気がした。
悠真の中で何かが静かに変わりつつあった。それは、恐怖や戸惑いだけではない。未知への探求心、そして、この世界の真実を解き明かしたいという、強い欲求だった。
「……僕は、この時計の仕組みを知りたい。そして、元の世界に“戻る方法”を見つけたい」
悠真の言葉に、アイリスがにやりと笑う。彼女は悠真の成長を、まるで自分のことのように喜んでいるようだった。
「いいね。探究者の目だ。ようやくこの世界の住人らしい顔になった」
その時だった。
工房の外から、重たい衝撃音が響いた。爆ぜるような音とともに、扉の蝶番が軋む。それは、先ほどの穏やかな共鳴とは異なる、明らかに破壊的な音だった。
「……ギアガード?」
エレノアが顔をしかめ、緊急スイッチに手を伸ばす。彼女の表情から、瞬時に研究者の顔が消え、厳しい覚悟が浮かび上がった。
「バルド、シオン。対応準備。悠真くんは下がって!」
「おうよ。こいつを壊されたら元も子もねぇ」
バルドが巨大なレンチを構え、シオンは無言で作業台の奥から、小型の機械を取り出した。歯車が悲鳴を上げるような軋みが響く中、悠真は懐中時計を握りしめた。
その指先に、確かに感じた。
──再び、歯車が噛み合う感覚。
この世界と、自分自身が、確かに“繋がっている”という証。
運命の歯車が、音を立てて回り始めていた。