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Dreamer(ドリーマー)――夢以上のもの
Dreamer(ドリーマー)――夢以上のもの
ZM_16
現実世界スポーツ
2025年06月22日
公開日
5.4万字
連載中
夢を追うのは、ただの幻想か──それとも、本当の強さか。 西村エミは、幼い頃からサッカーに恋をしていた。 だが、家庭の事情でボールを蹴ることさえ許されなかった。 それでも、サッカーは彼を離さなかった。 ある日、再び夢を追う決意をした少年は、仲間と出会い、ライバルと競い合い、 時に裏切られ、時に支えられながら、 「夢」という言葉の意味を、現実の中で問い続けていく。 理不尽な現実、歪んだシステム、そして自分自身の弱さ── 乗り越えた先に、少年は何を見るのか? これは、“夢を見るだけの少年”が、“夢に立ち向かう選手”へと成長していく物語。

第1章:偉大な夢想家

夢とは何だろう。

手を伸ばしても届かないもの?

それとも、心の奥に灯る小さな炎のことだろうか。


誰かに笑われ、

誰かに否定されても、

それでも諦められないものがある。


幼い頃、テレビの向こうに見た光景。

心を打つ歓声、画面に映るヒーローたち。

ただの遊びだと思っていたその世界が、

ある少年の運命を変えていく。


これは、夢を見ることしかできなかった少年が、

夢に立ち向かう覚悟を持つまでの物語。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


薄暗い部屋に、テレビの音が響いていた。


――マルコスがボールを受けた!――

実況の声が画面から勢いよく飛び出す。

――右サイドへ展開、ブラジルの名サイドバック、ロベルチーニョ!一対一!パスのフェイント…いや、違う!抜いた!股抜きだ!爆発的なスプリント!センタリングか…しない!鋭い切り返し!なんというプレーだ!体を整えて…シュート!


一瞬の静寂。


――ゴォォォォォルッ!!ロベルチーニョのスーパーゴール!完璧なシュートがゴール左上隅に突き刺さった!この男、なんという才能だ!


エミはテレビの前に正座し、まばたきもせず画面を見つめていた。目が輝き、その一瞬に心を奪われていた。


「すごい…」

小さくつぶやく。視線は一切逸らさない。


「エミ?」

廊下から父親ユウエイの声が聞こえた。

「まだ寝てないのか?」


エミはわずかに顔を向けた。


「パパ、来て…これ見て!」


ユウエイは興味深げに近づいてきた。Tシャツの袖をまくりながら。


「どうした?」


「サッカーって…こんなに面白いなんて思わなかった」

エミの目はまだ画面に釘付けだ。


「本当に好きなのか?好きな選手はいるのか?」


エミは答えず、ただ指を画面へ向けた。ちょうどそのとき、ロベルチーニョが仲間に抱きしめられながら笑顔でゴールを祝っていた。


「ロベルチーニョか?」

と父が尋ねる。


「すごい選手でしょ?」


ユウエイは黙って見つめた。

「ディフェンダーか…普通はフォワードに憧れる年頃だけどな…」


そう思ったその時、エミが父を見上げた。目に宿る決意が、言葉よりも強く伝わってくる。


「パパ…ぼく、サッカーをやりたい」


その一言に、ユウエイは息を呑んだ。


「エミ…わかってると思うけど、お金はかかるんだ。今の家計では…」


「お願い、パパ」

エミは感情を抑えながらも真剣な声で遮った。

「もう何もいらない。ただ…挑戦させて。やってみたいんだ」


沈黙が落ちる。ユウエイはしばらく息子を見つめた。まるで初めて見るかのように。

その目には、消えない光があった。


「わかった」

微笑みながら言った。

「明日、サッカーをしに行こう」


エミの顔が一瞬で輝いた。


「ありがとう、パパ!大好き!」


「私もだよ。さあ、もう寝なさい。明日に備えてね」


「うん!おやすみなさい!」


「おやすみ」


テレビの電源がカチリと切れ、部屋は再び静寂に包まれた。

外では街が眠っている。

だがその中で、一つの夢が、静かに目を覚まそうとしていた。


夜は一瞬で過ぎ去り、朝の陽光が窓から差し込む頃――

エミは勢いよく父の部屋へと飛び込んだ。


「パパ! パパ! もう遅いよ!」


ユウエイは目を見開き、まだかすれた声で応じた。


「何時だ?」


「午後の二時!」


「そんなに寝たのか…?」

顔をこすりながらつぶやいた。

「すまない、朝ごはんも作ってないし…学校にも連れて行けなかったな」


「大丈夫だよ」

エミは穏やかに笑った。

「友達が自分のごはんを少し分けてくれたから」


ユウエイは少し黙ってから、力強くうなずいた。


「数分くれ。準備してすぐに連れて行くよ。サッカーアカデミーに」


* * *


一時間後――


父と子は黒い鉄の門の前に立っていた。

その向こうには、手入れの行き届いた芝生のグラウンド、太陽に輝く観客席、そしてモダンな建物がそびえていた。


エミは口をぽかんと開けて眺めていた。


「すごい…」


「気に入ったか?」

ユウエイが微笑みながら訊いた。


「うん…とっても…」


「ここで待ってろ。オーナーと話してくる」


エミはうなずいたまま、その場を動けずにいた。

すべてがまるで夢のようで、目が離せなかった。


父が少し離れたそのとき、不意に耳を突くような声が割り込んだ。


「へえ、へえ…誰かと思えば」


エミが振り向くと、数メートル先にトレーニングウェアを着た少年が腕を組んで立っていた。

その顔には嘲るような笑みが浮かんでいる。


「貧乏人じゃねえか。迷子か? ここは“本物の男”のためのサッカーアカデミーだぜ」


「ぼくも男だよ」

エミは動じずに返す。


「違うな」

少年はにやりと笑いながら近づいた。

「おまえみたいな貧乏人は、女の子にしか見えねぇよ」


「うるさい! ぼくは男だ!」

エミは拳を握りしめて叫んだ。


少年はそのままエミのシャツの襟を掴み、軽く突き飛ばした。


「俺を嘘つきって言ってんのか?」


「放してよ!」


* * *


【シーン:アカデミー内のオフィス】


別棟にある広くて洗練されたオフィス。

大きな窓からはメインフィールドが一望できる。

ユウエイはその中で、濃い木製のデスクの前に立っていた。


「失礼します」


「どうぞ」

奥の席から、気品ある声が返ってきた。


その男はデスクから立ち上がり、手を差し出した。


「こんにちは、私は黒木レオ。渋谷フットボールアカデミーのオーナーです」


「初めまして、黒木さん。西村ユウエイと申します」

丁寧に一礼して手を握った。


「お聞きしました。ご本人のご希望で面会を、と」


「はい…」

ユウエイは一度視線を落としたあと、しっかりと目を上げて言った。

「お願いがありまして」


「お願い…ですか?」


「アカデミーの費用についてです」


レオは目を細めた。


「それがどうかされましたか?」


「今、私たちの家計はあまり余裕がありません。でも…息子はサッカーを心から夢見ています。年末までに入学費を払えるようにしたいと思っているのですが…何とか、彼にチャンスを与えていただけないでしょうか。私自身が持てなかった夢を、彼には持たせたいんです」


部屋に静けさが満ちる。

レオはしばらく沈黙のまま、ユウエイをじっと見つめた。


「西村さん…それは簡単なことではありません。この費用には選手たちの維持費も含まれていますから」


「承知しております」

ユウエイは真摯にうなずいた。

「それでも…心からお願いします。息子の笑顔が見たいだけなんです」


レオは小さく息をつき、顎に手をやった。

そして、ゆっくりとうなずいた。


「わかりました、西村さん。今回だけ、特別に認めましょう。父から、あなたのことをよく聞いていましたから」


ユウエイの目が輝いた。


「ありがとうございます、黒木さん。絶対に後悔はさせません」


叫び声は、最初は遠くの雑音のように聞こえた。

外から漏れ聞こえる、耳障りなざわめき――


レオは眉をひそめた。


「何の騒ぎだ…?」

立ち上がりながらつぶやく。


ユウエイもすぐに席を立ち、二人は急いで廊下を渡った。


ドアを開けて中庭へ出た瞬間、その喧騒は一気に爆音へと変わる。


「ケンカだ! ケンカだ!」

数人の少年たちがフェンスの横に輪を作り、興奮して叫んでいた。


その中心で、エミはさっきの少年と地面でもみ合っていた。

殴り合い、押し合い、土埃が舞い上がる。

荒い息遣いが、鋭い刃のように空気を切っていた。


「エミッ!」

ユウエイは少年たちをかき分けながら叫んだ。


彼とレオはすぐに介入し、二人の少年を引き離した。

ユウエイは息子の肩を押さえ、レオはもう一人の少年の腕を掴んだ。


「一体、何をやってるんだ!」

ユウエイの声には怒りがにじんでいた。


「彼が先に…」

エミは土まみれの頬と燃えるような目で言った。


レオは横に視線を移す。


「ソラ、本当なのか?」


少年は目を逸らした。


「嘘です。あいつがいきなり殴ってきたんだ」

冷たい声でそう答える。


レオは周囲の少年たちを見回した。


「誰か、見ていた者はいないか?」


場に沈黙が走る。

誰もレオの目を見ようとしなかった。


一瞬の間のあと、レオは冷ややかに背筋を伸ばした。


「申し訳ありません、西村さん。ですが、これで話はなしです。もし息子さんをここで訓練させたいのであれば、他の生徒と同じように費用をお支払いいただきます」


「パパ、信じて! 本当なんだ!」

エミが父の腕にすがりつく。


だがレオは彼を振り払い、無言で建物へ戻っていった。

空気は重く、息をするのも苦しいほどだった。


風が冷たく吹き抜ける中、父と子は無言のまま歩道を歩いていた。

エミは唇を噛みしめ、ユウエイはポケットに手を入れたまま、何も言わなかった。


そして突然、爆発するように声が上がった。


「何を考えていたんだ…? オーナーの息子とケンカなんて…」


「信じてよ、パパ! あいつが先にやったんだ。ぼくは何もしてない!」


ユウエイは足を止めて息子を見た。


「もう信じるのに疲れたよ、エミ。今回ばかりは…全部、台無しにしたんだ」


エミはうつむいたまま、何も言わなかった。

足元で小石が転がった。


「すみません…」

背後から、年の近い少年の声がした。


ユウエイは苛立った様子で振り返る。


「今はやめてくれ、坊や」


「その…息子さんの靴、アカデミーに置き忘れてました」


少年は泥だらけの靴を差し出した。

その顔には迷いと戸惑いがにじんでいた。


「それと…言いたいことがあって」

声を落としながら続けた。

「あなたの息子さんが正しかったんです。彼は、何もしていませんでした」


ユウエイは眉をひそめた。


「どういうことだ?」


「最初から見てました。先に手を出したのはソラ君です。でも…怖くて言えませんでした。黒木さんが父親なので…問題を起こしたくなくて…」


その瞬間、世界が静止したかのように感じられた。

ユウエイは靴を見下ろし、そして少年の顔を見た。


「ありがとう」

深いため息とともに、静かに言った。

「正直に話してくれて、ありがとう」


少年はうなずいて去っていった。


ユウエイは再び息子のほうを向く。

エミは黙ったままだ。


「すまなかった」

父は低く呟いた。

「俺も…うまくやれてないんだ、全部が」


エミは何も言わなかった。


* * *


夜が訪れ、二人は食卓を囲んでいた。

皿の音と、天井のファンの微かな風音だけが響いていた。


「なあ、エミ…」

ユウエイが沈黙を破った。

「今日の学校はどうだった?」


「普通…」

目を合わせずにエミは答える。


「まだ怒ってるのか、昨日のことで…?」


返事はない。

フォークが皿をこする音だけが響いた。


ユウエイはため息をつき、箸をそっと置いた。


「ごめんな、エミ。俺だって、簡単にできてるわけじゃないんだ。あの日から…」


「言わなくていいよ」

エミは淡々と口を挟んだ。

「これからは、ぼくが助ける。もう…パパの負担になりたくない」


「エミ、お前は負担なんかじゃ――」


だがエミはすでに席を立ち、後ろを振り返ることなく静かに歩き出した。


「エミ…」

ユウエイはその背中を見送った。


部屋には静寂が戻る。

暖かさがまだ残る皿の、微かな音だけが、食卓に残っていた。


四年という時が、まばたきの間に過ぎ去った。


春の空が屋根の上に広がり、校庭には桜が咲き誇る。

十六歳になったエミは、ポケットに手を突っ込みながら、どこか退屈そうな顔で階段を下りていく。


「ったく…またあの永遠みたいな授業の日かよ」

ぼそりとつぶやいた。


「いってらっしゃい、エミ」

キッチンからユウエイの声がした。

彼はシンクに向かいながら、振り返りもしなかった。


「ありがと、パパ」

エミも後ろを振り向かずに返した。


登校路には、いつものにぎやかさがあった。

談笑する生徒たち、自転車の音、目覚めたばかりのセミの鳴き声。

校門の前では、腕を組んで待つ少女が一人。


「やっと来たわね、エミ」

皮肉混じりの口調で言う。


「ウミか…こんな朝早くに会うとは思わなかったよ」


「昨日、ここで待ち合わせってメッセージ送ったじゃない」


「…あ、そうだったっけ。忘れてた」


ウミは大げさにため息をついた。


「ほんと、いつになったらそのうっかり治るの?」


「それが俺の魅力ってことで」

エミは半分笑いながら言った。


二人は並んで校舎へと歩き出す。何度も繰り返してきた日常のように。


「今年、どの部活に入るかもう決めた?」


「いや…たぶんどこにも入らないと思う」


「えぇ!? 本気? それって青春の無駄遣いじゃん!」


「なんか君、おばさんみたいなこと言ってない?」


「だって本当にそう思うんだもん! 中学の時もそうだったじゃない。部活なし、友達なし、行事も不参加」


「でもウミは友達だろ? 俺、別に部活なくても君と仲良くなれたし」


「バカ。私は隣に住んでただけでしょ? 学校で知り合ったわけじゃないよ」


「…言われてみれば、そうだな」

エミは肩をすくめる。


「でも本当に部活、入らないの?」


「うん」


「じゃあサッカー部は? テレビで試合やってる時、いつも画面に釘付けじゃん」


「ただの習慣だよ。興味なんてない」


「へぇ〜…」

ウミは明らかに信じていない顔で、眉を片方上げて返した。


校門をくぐった先は、まるでお祭りのような賑わいだった。

色とりどりのテント、チラシを配る生徒たち、勧誘の声と笑い声が飛び交っている。


「えっ、なにこれ?」

思わず足を止めるエミ。


「運命が部活に入れって言ってるんじゃない?」

ウミが楽しそうに答えた。


「ウミはどこに入るつもり?」


「たぶん…オーケストラ部かな」

彼女はチラシをぱらぱらとめくりながら言った。


「“たぶん”じゃなくて、絶対入った方がいいよ。楽器、めっちゃ上手だし」


ウミは片方の口角を上げて笑った。


「じゃあ…エミも何かに入るなら、私も入る」


「そういう駆け引きは効かないよ」


ちょうどその時、一人の少年が走ってきて足を滑らせ、エミの横腹にぶつかった。


「ご、ごめん!」

少年は慌てて立ち上がった。


「大丈夫」

エミは袖を払いながら返す。


少年はじっと彼の顔を見つめ…そして驚いた表情になった。


「…君って、あの時の!」


「え? 俺がどうしたって?」


「覚えてないの? 何年か前、サッカーアカデミーで会ったじゃん」


「ごめん、人違いじゃないかな」


少年は少し気まずそうに後ずさった。


「…そっか。ごめん。勘違いだったみたい」


そう言って、あっさりと立ち去った。

エミは無言のまま、再びウミと歩き始める。


「サッカーアカデミーって…?」

ウミが首をかしげた。

「サッカーなんてやったことないって言ってたじゃん」


「実際…やってないからね」

エミは歩みを止めずに言った。


「じゃあ、あの子のことは知ってるんだ」


エミはうなずいたが、しばらく何も言わなかった。

そして、ぽつりとつぶやく。


「うん。でも…思い出したくない記憶なんだ」


ウミは少し歩調を緩めて、彼の横顔をそっと覗き込んだ。


「いつでも話していいんだよ。私は、ちゃんと聞くから」


エミは一瞬だけ視線を向けて、静かに笑った。


「…覚えとく」


教室に入ったとき、まだ半分ほどしか席が埋まっていなかった。


「やっと静かになった…」

エミはため息をついた。

「玄関前の騒ぎ、さすがに疲れたよ」


「エミ、それが新学期だよ。普通は友達作るチャンスって思うんじゃないの?」


「その通りだと思う」

教室の奥から声がした。


二人は驚いて振り向く。

窓際の席に座っていたのは、黒髪で少し乱れた髪の少年。

黒いジャケットの胸には漢字の刺繍。

どこか飄々とした佇まいで、深く静かな目をしていた。


「いつからそこにいたの…?」

エミは素直に驚きを口にした。


「一番乗りだったよ」


なんで気づかなかったんだ…?

エミは思った。

まるで存在感を消していたかのように、自然にそこにいた。


「名前、教えてくれる?」

ウミが興味深そうに尋ねる。


「月島イェン」


「この人と友達になってくれない?」

ウミが冗談っぽくエミを指差して笑う。

「新しい人と話すの、苦手みたいだから」


「ちょっと、ウミ…!」

エミは少しムッとした表情で返す。


「いつまでも私に頼ってちゃダメでしょ? 少しは殻を破りなさい」


「はいはい…」


「じゃ、私はオーケストラ部の申し込みに行ってくるね。男子同士、仲良くやって」

ウミはひらひらと手を振って教室を出ていった。


しばらく沈黙が続いた。


「で、君は?」

エミが少し気まずそうに話しかける。

「部活、入るつもりあるの?」


「サッカー部」

イェンは迷いもなく答えた。


エミはその横顔をちらりと見た。

……本気かよ? あんな落ち着いた雰囲気のやつが?

周囲の目なんて気にしてなさそうなのに。


「マジで? 何のポジション?」


「センターフォワード」


フォワード…? あの細身の体で?

ピアニストにしか見えないんだけど…


そのとき、突然誰かに肩を抱き寄せられた。


「最高じゃん! ちょうどフォワードが必要だったんだ!」


……誰だよこいつ。


長身で、キラキラした笑顔と圧倒的な存在感を持つ少年が、まるで昔からの親友かのように二人に腕を回していた。


「いきなりごめん! 俺、五十嵐レオ。サッカー部のキャプテン!」


イェンは目を瞬かせた。


「キャプテン? ってことは三年生?」


「そーそー! こう見えてもね!」


「レオ!」

廊下から教師の声が飛ぶ。

「部活勧誘は終わったって言っただろ! 早く戻れ!」


「はーいはーい、先生〜。じゃ、またな!」

そう言って、彼は元気よく走り去っていった。


放課後のチャイムが鳴り、エミは鞄を手にしながらウミに声をかけた。


「何か食べに行かない?」


「ごめん、今日は無理。オーケストラ部、今日から活動始まるの」


「そっか」


「今度は絶対付き合うから」


「うん」


「ウミ! もう行くよー!」

廊下から別の声が飛ぶ。


「行く行く、ハルー! また明日ね、エミ!」


イェンが無言で近づいてくる。


「どうやら、暇になっちゃったな」


「……そうみたいだね」


「部活の体験、来てみる?」


「他にすることもないし」


* * *


【シーン:サッカーグラウンド】


フィールドには活気が満ちていた。

ボールが跳ね、声が飛び交い、太陽は傾き始めて空を琥珀色に染めていた。


レオが手を振った。


「来たなー!」


「そのつもりだったからね」

イェンが静かに返す。


すると、どこかで見た顔が現れた。


「やっぱり…君だったのか」

数日前、エミを間違えた少年だ。


エミは顔をしかめた。トラブルは避けたかった。


「ごめん。ただの付き添いだから。体験するつもりはないよ」


「そうか…残念だな」

レオはそれ以上何も言わなかった。


イェンは黙ってジャケットを脱ぎ、荷物を地面に置いてフィールドの中心へ向かっていった。

一方、エミはラインの外に立ったまま、じっとそれを見つめていた。


――もう二度と、サッカーはやらないって決めたんだ。

そう思いながら、心の奥に沈んでいた過去の影が、また浮かび上がってくるのを感じていた。


トラブルを起こすだけだった。

サッカーは、痛みと後悔しか残さなかった。

でも…もういい。

勉強して、働いて、父さんを支える。

借金も、重荷も…全部、終わらせる。

ただ、静かに生きればいい。


ポケットの中で、スマホが震えた。


「……誰だよ、こんなときに」


気怠そうに画面を見ると、そこには父からの短いメッセージが表示されていた。


「自分勝手に、生きろ。」


その文字を、何度も読み返した。

笑うべきか、泣くべきか…エミにはわからなかった。


サイドラインに沿って、誰のものでもないボールが転がっていた。


ふとした弾みで、それは静かにエミの足元へと転がってきた。


静寂――。


フィールドの中央から、レオが声を上げた。


「エミ! パス頼む!」


エミは視線を落とした。

足元のボール、目の前に広がるフィールド、そしてジャケットの布越しに感じる春の陽射し。


その瞬間だった。

ずっと押し殺してきた鼓動が、再び胸を打った。

心の奥で眠っていた声が、微かにささやく。


エミは微笑んだ。


「ありがとう、パパ…」


そうつぶやいて――

彼はつま先をボールの下に差し込み、前方へと跳ね上げた。


そして、走り出した。


迷わず、ためらわず。

何年も閉じ込めてきたエネルギーが、今、解き放たれたように。


「止めろーーっ!」

レオが情熱のこもった声で叫ぶ。


すぐに二人のディフェンダーが飛び出し、進路をふさぐ。


「ここは通させないぞ」

ジロウが重心を低く構えて、立ちふさがる。


だが、エミは一切動じなかった。


彼は軽やかにかかとでボールを浮かせ――

そのまま二人の頭上を抜き去った。


完璧な弧を描いたボールは、レオの足元に吸い込まれるように落ちた。


「なっ…!?」

ジロウが驚きの声を上げる。


レオは一瞬の迷いもなく、三本指でカーブをかけたパスを放つ。

それは誓いのように美しく曲がりながら、ペナルティエリアの角へと向かった。


そこには――


イェンがいた。

静かに、まっすぐ立っていた。

顔には緊張も焦りもなく、ただ静けさだけが宿っていた。


「通すなーっ!」

ユウジロウが絶叫しながら駆け寄る。


ボールは、今まさにライン際。


エミにはもう余裕がなかった。

咄嗟に、ラボーナの体勢で足を振るう。

パスは通った。…だが、少し短い。


「届かない…っ」

エミの瞳が見開かれる。


イェンはためらわなかった。

無音のまま回転し、両足で空を蹴り上げる。


その身体は、まるで計算された軌道を描くコンパスのように回転し――

ボールが地に落ちる寸前、鋭く乾いた一撃を放った。


それは、まるでメスで切り裂かれたかのような一線。


ボールは一直線に左上のポストへと吸い込まれ、

衝突音がグラウンド全体に響いた。


「よっしゃああああ!!!」

レオが声を張り上げ、歓喜に包まれる。


誰もが言葉を失っていた。

その場の空気が凍りつくほどの静けさ。

だが、ネットに揺れるボールの音だけが、現実を証明していた。


肩で息をするレオが、エミを横目で見た。


……嘘じゃなかった。

この反応、この視野、この魂。

間違いない。彼は――


「完璧なサイドバックだ」


* * *


【シーン:校舎2階 音楽室】


校舎の二階、半開きの窓から外を見下ろす少女の姿があった。


ウミは黙って、グラウンドを見つめていた。


夕陽が差し込み、彼女の髪をあたたかく照らしていた。

彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。


「ウミ、終わったの?」

奥の席からハルの声がする。


「うん」

ウミは視線を外さずに返事をした。


「なんだか嬉しそう。何かあった?」


「別に…特別なことなんてないよ」


ポケットの中で、スマホが小さく震えた。

開かれたチャット画面。

今、誰かに送信されたばかりの写真。


それは――

グラウンドの端で、サッカーを見つめるエミの姿だった。


宛先:西村ユウエイ


ウミはもう一度、窓の外に目を向けた。


そして、その微笑みはさらに優しくなる。


――やっと、君は戻ってきた。

ずっと望んでいた場所へ。

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