夢とは何だろう。
手を伸ばしても届かないもの?
それとも、心の奥に灯る小さな炎のことだろうか。
誰かに笑われ、
誰かに否定されても、
それでも諦められないものがある。
幼い頃、テレビの向こうに見た光景。
心を打つ歓声、画面に映るヒーローたち。
ただの遊びだと思っていたその世界が、
ある少年の運命を変えていく。
これは、夢を見ることしかできなかった少年が、
夢に立ち向かう覚悟を持つまでの物語。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
薄暗い部屋に、テレビの音が響いていた。
――マルコスがボールを受けた!――
実況の声が画面から勢いよく飛び出す。
――右サイドへ展開、ブラジルの名サイドバック、ロベルチーニョ!一対一!パスのフェイント…いや、違う!抜いた!股抜きだ!爆発的なスプリント!センタリングか…しない!鋭い切り返し!なんというプレーだ!体を整えて…シュート!
一瞬の静寂。
――ゴォォォォォルッ!!ロベルチーニョのスーパーゴール!完璧なシュートがゴール左上隅に突き刺さった!この男、なんという才能だ!
エミはテレビの前に正座し、まばたきもせず画面を見つめていた。目が輝き、その一瞬に心を奪われていた。
「すごい…」
小さくつぶやく。視線は一切逸らさない。
「エミ?」
廊下から父親ユウエイの声が聞こえた。
「まだ寝てないのか?」
エミはわずかに顔を向けた。
「パパ、来て…これ見て!」
ユウエイは興味深げに近づいてきた。Tシャツの袖をまくりながら。
「どうした?」
「サッカーって…こんなに面白いなんて思わなかった」
エミの目はまだ画面に釘付けだ。
「本当に好きなのか?好きな選手はいるのか?」
エミは答えず、ただ指を画面へ向けた。ちょうどそのとき、ロベルチーニョが仲間に抱きしめられながら笑顔でゴールを祝っていた。
「ロベルチーニョか?」
と父が尋ねる。
「すごい選手でしょ?」
ユウエイは黙って見つめた。
「ディフェンダーか…普通はフォワードに憧れる年頃だけどな…」
そう思ったその時、エミが父を見上げた。目に宿る決意が、言葉よりも強く伝わってくる。
「パパ…ぼく、サッカーをやりたい」
その一言に、ユウエイは息を呑んだ。
「エミ…わかってると思うけど、お金はかかるんだ。今の家計では…」
「お願い、パパ」
エミは感情を抑えながらも真剣な声で遮った。
「もう何もいらない。ただ…挑戦させて。やってみたいんだ」
沈黙が落ちる。ユウエイはしばらく息子を見つめた。まるで初めて見るかのように。
その目には、消えない光があった。
「わかった」
微笑みながら言った。
「明日、サッカーをしに行こう」
エミの顔が一瞬で輝いた。
「ありがとう、パパ!大好き!」
「私もだよ。さあ、もう寝なさい。明日に備えてね」
「うん!おやすみなさい!」
「おやすみ」
テレビの電源がカチリと切れ、部屋は再び静寂に包まれた。
外では街が眠っている。
だがその中で、一つの夢が、静かに目を覚まそうとしていた。
夜は一瞬で過ぎ去り、朝の陽光が窓から差し込む頃――
エミは勢いよく父の部屋へと飛び込んだ。
「パパ! パパ! もう遅いよ!」
ユウエイは目を見開き、まだかすれた声で応じた。
「何時だ?」
「午後の二時!」
「そんなに寝たのか…?」
顔をこすりながらつぶやいた。
「すまない、朝ごはんも作ってないし…学校にも連れて行けなかったな」
「大丈夫だよ」
エミは穏やかに笑った。
「友達が自分のごはんを少し分けてくれたから」
ユウエイは少し黙ってから、力強くうなずいた。
「数分くれ。準備してすぐに連れて行くよ。サッカーアカデミーに」
* * *
一時間後――
父と子は黒い鉄の門の前に立っていた。
その向こうには、手入れの行き届いた芝生のグラウンド、太陽に輝く観客席、そしてモダンな建物がそびえていた。
エミは口をぽかんと開けて眺めていた。
「すごい…」
「気に入ったか?」
ユウエイが微笑みながら訊いた。
「うん…とっても…」
「ここで待ってろ。オーナーと話してくる」
エミはうなずいたまま、その場を動けずにいた。
すべてがまるで夢のようで、目が離せなかった。
父が少し離れたそのとき、不意に耳を突くような声が割り込んだ。
「へえ、へえ…誰かと思えば」
エミが振り向くと、数メートル先にトレーニングウェアを着た少年が腕を組んで立っていた。
その顔には嘲るような笑みが浮かんでいる。
「貧乏人じゃねえか。迷子か? ここは“本物の男”のためのサッカーアカデミーだぜ」
「ぼくも男だよ」
エミは動じずに返す。
「違うな」
少年はにやりと笑いながら近づいた。
「おまえみたいな貧乏人は、女の子にしか見えねぇよ」
「うるさい! ぼくは男だ!」
エミは拳を握りしめて叫んだ。
少年はそのままエミのシャツの襟を掴み、軽く突き飛ばした。
「俺を嘘つきって言ってんのか?」
「放してよ!」
* * *
【シーン:アカデミー内のオフィス】
別棟にある広くて洗練されたオフィス。
大きな窓からはメインフィールドが一望できる。
ユウエイはその中で、濃い木製のデスクの前に立っていた。
「失礼します」
「どうぞ」
奥の席から、気品ある声が返ってきた。
その男はデスクから立ち上がり、手を差し出した。
「こんにちは、私は黒木レオ。渋谷フットボールアカデミーのオーナーです」
「初めまして、黒木さん。西村ユウエイと申します」
丁寧に一礼して手を握った。
「お聞きしました。ご本人のご希望で面会を、と」
「はい…」
ユウエイは一度視線を落としたあと、しっかりと目を上げて言った。
「お願いがありまして」
「お願い…ですか?」
「アカデミーの費用についてです」
レオは目を細めた。
「それがどうかされましたか?」
「今、私たちの家計はあまり余裕がありません。でも…息子はサッカーを心から夢見ています。年末までに入学費を払えるようにしたいと思っているのですが…何とか、彼にチャンスを与えていただけないでしょうか。私自身が持てなかった夢を、彼には持たせたいんです」
部屋に静けさが満ちる。
レオはしばらく沈黙のまま、ユウエイをじっと見つめた。
「西村さん…それは簡単なことではありません。この費用には選手たちの維持費も含まれていますから」
「承知しております」
ユウエイは真摯にうなずいた。
「それでも…心からお願いします。息子の笑顔が見たいだけなんです」
レオは小さく息をつき、顎に手をやった。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「わかりました、西村さん。今回だけ、特別に認めましょう。父から、あなたのことをよく聞いていましたから」
ユウエイの目が輝いた。
「ありがとうございます、黒木さん。絶対に後悔はさせません」
叫び声は、最初は遠くの雑音のように聞こえた。
外から漏れ聞こえる、耳障りなざわめき――
レオは眉をひそめた。
「何の騒ぎだ…?」
立ち上がりながらつぶやく。
ユウエイもすぐに席を立ち、二人は急いで廊下を渡った。
ドアを開けて中庭へ出た瞬間、その喧騒は一気に爆音へと変わる。
「ケンカだ! ケンカだ!」
数人の少年たちがフェンスの横に輪を作り、興奮して叫んでいた。
その中心で、エミはさっきの少年と地面でもみ合っていた。
殴り合い、押し合い、土埃が舞い上がる。
荒い息遣いが、鋭い刃のように空気を切っていた。
「エミッ!」
ユウエイは少年たちをかき分けながら叫んだ。
彼とレオはすぐに介入し、二人の少年を引き離した。
ユウエイは息子の肩を押さえ、レオはもう一人の少年の腕を掴んだ。
「一体、何をやってるんだ!」
ユウエイの声には怒りがにじんでいた。
「彼が先に…」
エミは土まみれの頬と燃えるような目で言った。
レオは横に視線を移す。
「ソラ、本当なのか?」
少年は目を逸らした。
「嘘です。あいつがいきなり殴ってきたんだ」
冷たい声でそう答える。
レオは周囲の少年たちを見回した。
「誰か、見ていた者はいないか?」
場に沈黙が走る。
誰もレオの目を見ようとしなかった。
一瞬の間のあと、レオは冷ややかに背筋を伸ばした。
「申し訳ありません、西村さん。ですが、これで話はなしです。もし息子さんをここで訓練させたいのであれば、他の生徒と同じように費用をお支払いいただきます」
「パパ、信じて! 本当なんだ!」
エミが父の腕にすがりつく。
だがレオは彼を振り払い、無言で建物へ戻っていった。
空気は重く、息をするのも苦しいほどだった。
風が冷たく吹き抜ける中、父と子は無言のまま歩道を歩いていた。
エミは唇を噛みしめ、ユウエイはポケットに手を入れたまま、何も言わなかった。
そして突然、爆発するように声が上がった。
「何を考えていたんだ…? オーナーの息子とケンカなんて…」
「信じてよ、パパ! あいつが先にやったんだ。ぼくは何もしてない!」
ユウエイは足を止めて息子を見た。
「もう信じるのに疲れたよ、エミ。今回ばかりは…全部、台無しにしたんだ」
エミはうつむいたまま、何も言わなかった。
足元で小石が転がった。
「すみません…」
背後から、年の近い少年の声がした。
ユウエイは苛立った様子で振り返る。
「今はやめてくれ、坊や」
「その…息子さんの靴、アカデミーに置き忘れてました」
少年は泥だらけの靴を差し出した。
その顔には迷いと戸惑いがにじんでいた。
「それと…言いたいことがあって」
声を落としながら続けた。
「あなたの息子さんが正しかったんです。彼は、何もしていませんでした」
ユウエイは眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「最初から見てました。先に手を出したのはソラ君です。でも…怖くて言えませんでした。黒木さんが父親なので…問題を起こしたくなくて…」
その瞬間、世界が静止したかのように感じられた。
ユウエイは靴を見下ろし、そして少年の顔を見た。
「ありがとう」
深いため息とともに、静かに言った。
「正直に話してくれて、ありがとう」
少年はうなずいて去っていった。
ユウエイは再び息子のほうを向く。
エミは黙ったままだ。
「すまなかった」
父は低く呟いた。
「俺も…うまくやれてないんだ、全部が」
エミは何も言わなかった。
* * *
夜が訪れ、二人は食卓を囲んでいた。
皿の音と、天井のファンの微かな風音だけが響いていた。
「なあ、エミ…」
ユウエイが沈黙を破った。
「今日の学校はどうだった?」
「普通…」
目を合わせずにエミは答える。
「まだ怒ってるのか、昨日のことで…?」
返事はない。
フォークが皿をこする音だけが響いた。
ユウエイはため息をつき、箸をそっと置いた。
「ごめんな、エミ。俺だって、簡単にできてるわけじゃないんだ。あの日から…」
「言わなくていいよ」
エミは淡々と口を挟んだ。
「これからは、ぼくが助ける。もう…パパの負担になりたくない」
「エミ、お前は負担なんかじゃ――」
だがエミはすでに席を立ち、後ろを振り返ることなく静かに歩き出した。
「エミ…」
ユウエイはその背中を見送った。
部屋には静寂が戻る。
暖かさがまだ残る皿の、微かな音だけが、食卓に残っていた。
四年という時が、まばたきの間に過ぎ去った。
春の空が屋根の上に広がり、校庭には桜が咲き誇る。
十六歳になったエミは、ポケットに手を突っ込みながら、どこか退屈そうな顔で階段を下りていく。
「ったく…またあの永遠みたいな授業の日かよ」
ぼそりとつぶやいた。
「いってらっしゃい、エミ」
キッチンからユウエイの声がした。
彼はシンクに向かいながら、振り返りもしなかった。
「ありがと、パパ」
エミも後ろを振り向かずに返した。
登校路には、いつものにぎやかさがあった。
談笑する生徒たち、自転車の音、目覚めたばかりのセミの鳴き声。
校門の前では、腕を組んで待つ少女が一人。
「やっと来たわね、エミ」
皮肉混じりの口調で言う。
「ウミか…こんな朝早くに会うとは思わなかったよ」
「昨日、ここで待ち合わせってメッセージ送ったじゃない」
「…あ、そうだったっけ。忘れてた」
ウミは大げさにため息をついた。
「ほんと、いつになったらそのうっかり治るの?」
「それが俺の魅力ってことで」
エミは半分笑いながら言った。
二人は並んで校舎へと歩き出す。何度も繰り返してきた日常のように。
「今年、どの部活に入るかもう決めた?」
「いや…たぶんどこにも入らないと思う」
「えぇ!? 本気? それって青春の無駄遣いじゃん!」
「なんか君、おばさんみたいなこと言ってない?」
「だって本当にそう思うんだもん! 中学の時もそうだったじゃない。部活なし、友達なし、行事も不参加」
「でもウミは友達だろ? 俺、別に部活なくても君と仲良くなれたし」
「バカ。私は隣に住んでただけでしょ? 学校で知り合ったわけじゃないよ」
「…言われてみれば、そうだな」
エミは肩をすくめる。
「でも本当に部活、入らないの?」
「うん」
「じゃあサッカー部は? テレビで試合やってる時、いつも画面に釘付けじゃん」
「ただの習慣だよ。興味なんてない」
「へぇ〜…」
ウミは明らかに信じていない顔で、眉を片方上げて返した。
校門をくぐった先は、まるでお祭りのような賑わいだった。
色とりどりのテント、チラシを配る生徒たち、勧誘の声と笑い声が飛び交っている。
「えっ、なにこれ?」
思わず足を止めるエミ。
「運命が部活に入れって言ってるんじゃない?」
ウミが楽しそうに答えた。
「ウミはどこに入るつもり?」
「たぶん…オーケストラ部かな」
彼女はチラシをぱらぱらとめくりながら言った。
「“たぶん”じゃなくて、絶対入った方がいいよ。楽器、めっちゃ上手だし」
ウミは片方の口角を上げて笑った。
「じゃあ…エミも何かに入るなら、私も入る」
「そういう駆け引きは効かないよ」
ちょうどその時、一人の少年が走ってきて足を滑らせ、エミの横腹にぶつかった。
「ご、ごめん!」
少年は慌てて立ち上がった。
「大丈夫」
エミは袖を払いながら返す。
少年はじっと彼の顔を見つめ…そして驚いた表情になった。
「…君って、あの時の!」
「え? 俺がどうしたって?」
「覚えてないの? 何年か前、サッカーアカデミーで会ったじゃん」
「ごめん、人違いじゃないかな」
少年は少し気まずそうに後ずさった。
「…そっか。ごめん。勘違いだったみたい」
そう言って、あっさりと立ち去った。
エミは無言のまま、再びウミと歩き始める。
「サッカーアカデミーって…?」
ウミが首をかしげた。
「サッカーなんてやったことないって言ってたじゃん」
「実際…やってないからね」
エミは歩みを止めずに言った。
「じゃあ、あの子のことは知ってるんだ」
エミはうなずいたが、しばらく何も言わなかった。
そして、ぽつりとつぶやく。
「うん。でも…思い出したくない記憶なんだ」
ウミは少し歩調を緩めて、彼の横顔をそっと覗き込んだ。
「いつでも話していいんだよ。私は、ちゃんと聞くから」
エミは一瞬だけ視線を向けて、静かに笑った。
「…覚えとく」
教室に入ったとき、まだ半分ほどしか席が埋まっていなかった。
「やっと静かになった…」
エミはため息をついた。
「玄関前の騒ぎ、さすがに疲れたよ」
「エミ、それが新学期だよ。普通は友達作るチャンスって思うんじゃないの?」
「その通りだと思う」
教室の奥から声がした。
二人は驚いて振り向く。
窓際の席に座っていたのは、黒髪で少し乱れた髪の少年。
黒いジャケットの胸には漢字の刺繍。
どこか飄々とした佇まいで、深く静かな目をしていた。
「いつからそこにいたの…?」
エミは素直に驚きを口にした。
「一番乗りだったよ」
なんで気づかなかったんだ…?
エミは思った。
まるで存在感を消していたかのように、自然にそこにいた。
「名前、教えてくれる?」
ウミが興味深そうに尋ねる。
「月島イェン」
「この人と友達になってくれない?」
ウミが冗談っぽくエミを指差して笑う。
「新しい人と話すの、苦手みたいだから」
「ちょっと、ウミ…!」
エミは少しムッとした表情で返す。
「いつまでも私に頼ってちゃダメでしょ? 少しは殻を破りなさい」
「はいはい…」
「じゃ、私はオーケストラ部の申し込みに行ってくるね。男子同士、仲良くやって」
ウミはひらひらと手を振って教室を出ていった。
しばらく沈黙が続いた。
「で、君は?」
エミが少し気まずそうに話しかける。
「部活、入るつもりあるの?」
「サッカー部」
イェンは迷いもなく答えた。
エミはその横顔をちらりと見た。
……本気かよ? あんな落ち着いた雰囲気のやつが?
周囲の目なんて気にしてなさそうなのに。
「マジで? 何のポジション?」
「センターフォワード」
フォワード…? あの細身の体で?
ピアニストにしか見えないんだけど…
そのとき、突然誰かに肩を抱き寄せられた。
「最高じゃん! ちょうどフォワードが必要だったんだ!」
……誰だよこいつ。
長身で、キラキラした笑顔と圧倒的な存在感を持つ少年が、まるで昔からの親友かのように二人に腕を回していた。
「いきなりごめん! 俺、五十嵐レオ。サッカー部のキャプテン!」
イェンは目を瞬かせた。
「キャプテン? ってことは三年生?」
「そーそー! こう見えてもね!」
「レオ!」
廊下から教師の声が飛ぶ。
「部活勧誘は終わったって言っただろ! 早く戻れ!」
「はーいはーい、先生〜。じゃ、またな!」
そう言って、彼は元気よく走り去っていった。
放課後のチャイムが鳴り、エミは鞄を手にしながらウミに声をかけた。
「何か食べに行かない?」
「ごめん、今日は無理。オーケストラ部、今日から活動始まるの」
「そっか」
「今度は絶対付き合うから」
「うん」
「ウミ! もう行くよー!」
廊下から別の声が飛ぶ。
「行く行く、ハルー! また明日ね、エミ!」
イェンが無言で近づいてくる。
「どうやら、暇になっちゃったな」
「……そうみたいだね」
「部活の体験、来てみる?」
「他にすることもないし」
* * *
【シーン:サッカーグラウンド】
フィールドには活気が満ちていた。
ボールが跳ね、声が飛び交い、太陽は傾き始めて空を琥珀色に染めていた。
レオが手を振った。
「来たなー!」
「そのつもりだったからね」
イェンが静かに返す。
すると、どこかで見た顔が現れた。
「やっぱり…君だったのか」
数日前、エミを間違えた少年だ。
エミは顔をしかめた。トラブルは避けたかった。
「ごめん。ただの付き添いだから。体験するつもりはないよ」
「そうか…残念だな」
レオはそれ以上何も言わなかった。
イェンは黙ってジャケットを脱ぎ、荷物を地面に置いてフィールドの中心へ向かっていった。
一方、エミはラインの外に立ったまま、じっとそれを見つめていた。
――もう二度と、サッカーはやらないって決めたんだ。
そう思いながら、心の奥に沈んでいた過去の影が、また浮かび上がってくるのを感じていた。
トラブルを起こすだけだった。
サッカーは、痛みと後悔しか残さなかった。
でも…もういい。
勉強して、働いて、父さんを支える。
借金も、重荷も…全部、終わらせる。
ただ、静かに生きればいい。
ポケットの中で、スマホが震えた。
「……誰だよ、こんなときに」
気怠そうに画面を見ると、そこには父からの短いメッセージが表示されていた。
「自分勝手に、生きろ。」
その文字を、何度も読み返した。
笑うべきか、泣くべきか…エミにはわからなかった。
サイドラインに沿って、誰のものでもないボールが転がっていた。
ふとした弾みで、それは静かにエミの足元へと転がってきた。
静寂――。
フィールドの中央から、レオが声を上げた。
「エミ! パス頼む!」
エミは視線を落とした。
足元のボール、目の前に広がるフィールド、そしてジャケットの布越しに感じる春の陽射し。
その瞬間だった。
ずっと押し殺してきた鼓動が、再び胸を打った。
心の奥で眠っていた声が、微かにささやく。
エミは微笑んだ。
「ありがとう、パパ…」
そうつぶやいて――
彼はつま先をボールの下に差し込み、前方へと跳ね上げた。
そして、走り出した。
迷わず、ためらわず。
何年も閉じ込めてきたエネルギーが、今、解き放たれたように。
「止めろーーっ!」
レオが情熱のこもった声で叫ぶ。
すぐに二人のディフェンダーが飛び出し、進路をふさぐ。
「ここは通させないぞ」
ジロウが重心を低く構えて、立ちふさがる。
だが、エミは一切動じなかった。
彼は軽やかにかかとでボールを浮かせ――
そのまま二人の頭上を抜き去った。
完璧な弧を描いたボールは、レオの足元に吸い込まれるように落ちた。
「なっ…!?」
ジロウが驚きの声を上げる。
レオは一瞬の迷いもなく、三本指でカーブをかけたパスを放つ。
それは誓いのように美しく曲がりながら、ペナルティエリアの角へと向かった。
そこには――
イェンがいた。
静かに、まっすぐ立っていた。
顔には緊張も焦りもなく、ただ静けさだけが宿っていた。
「通すなーっ!」
ユウジロウが絶叫しながら駆け寄る。
ボールは、今まさにライン際。
エミにはもう余裕がなかった。
咄嗟に、ラボーナの体勢で足を振るう。
パスは通った。…だが、少し短い。
「届かない…っ」
エミの瞳が見開かれる。
イェンはためらわなかった。
無音のまま回転し、両足で空を蹴り上げる。
その身体は、まるで計算された軌道を描くコンパスのように回転し――
ボールが地に落ちる寸前、鋭く乾いた一撃を放った。
それは、まるでメスで切り裂かれたかのような一線。
ボールは一直線に左上のポストへと吸い込まれ、
衝突音がグラウンド全体に響いた。
「よっしゃああああ!!!」
レオが声を張り上げ、歓喜に包まれる。
誰もが言葉を失っていた。
その場の空気が凍りつくほどの静けさ。
だが、ネットに揺れるボールの音だけが、現実を証明していた。
肩で息をするレオが、エミを横目で見た。
……嘘じゃなかった。
この反応、この視野、この魂。
間違いない。彼は――
「完璧なサイドバックだ」
* * *
【シーン:校舎2階 音楽室】
校舎の二階、半開きの窓から外を見下ろす少女の姿があった。
ウミは黙って、グラウンドを見つめていた。
夕陽が差し込み、彼女の髪をあたたかく照らしていた。
彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。
「ウミ、終わったの?」
奥の席からハルの声がする。
「うん」
ウミは視線を外さずに返事をした。
「なんだか嬉しそう。何かあった?」
「別に…特別なことなんてないよ」
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
開かれたチャット画面。
今、誰かに送信されたばかりの写真。
それは――
グラウンドの端で、サッカーを見つめるエミの姿だった。
宛先:西村ユウエイ
ウミはもう一度、窓の外に目を向けた。
そして、その微笑みはさらに優しくなる。
――やっと、君は戻ってきた。
ずっと望んでいた場所へ。