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第2章:影の中の始まり

夢を抱く者の始まりは、いつも静かだ。

それは光の中ではなく、影の中に生まれる。


周囲に認められず、実力も未完成。

不安と疑いに満ちた場所で、

それでも前に進もうとする意志だけが、

本物の「始まり」を告げる。


誰にも見えない努力、

報われるか分からない汗、

踏み出したその一歩は、

やがて世界を変えるかもしれない。


──これは、まだ名もなき者たちが、

名を刻むために歩き出す物語。


───────────────────────────────────────


夕焼けが町をやさしく染めていた。

柔らかなオレンジ色が通りを照らす中、エミとウミは肩にリュックをかけて、静かに並んで歩いていた。


「とうとう決めたのね」

ウミが横目で見て、満足そうに微笑んだ。


「うん… そして、それは君のおかげだと思う」


「私? 最後に背中を押したのは、お父さんでしょ」


「僕がバカだとでも思ってる?」


「うーん、少しだけ」

ウミは無邪気に肩をすくめた。


エミは、久しぶりに素直な笑みを見せた。


「メッセージを送ったの、君だろ? あれがなければ、きっと僕は一歩を踏み出せなかった」


「感謝なんていらないよ」

ウミは声を落とし、でもはっきりと言った。

「私はただ…君が本当にやりたいことを、手助けしてるだけだから」


「昔からそうだよね」

エミがつぶやいた。

「誰かのために行動するけど、自分のことは表に出さない」


「言ったでしょ。ちょっとだけ、そういう性格なの」


二人は少し無言で歩き続け、やがてウミの家の前にたどり着いた。

ウミは鍵を取り出して、エミの方を振り返る。


「送ってくれて、ありがと」


「気にしないで。明日、またね」


ウミは小さく笑い、静かにドアを閉めた。


エミは数秒その場に立ち尽くし、ゆっくりと空を見上げた。


――大切な人たちが、僕の背中を押してくれた。

もう、裏切るわけにはいかない。


僕は――

プロのサッカー選手になる。


* * *


【シーン:西村家】


キーッという小さな音と共に、玄関のドアが開いた。


「ただいま」

靴を脱ぎながら、エミが声をかける。


「おかえり」

ダイニングから父・ユウエイの声が返ってきた。


エミは少し驚いたように眉を上げた。


「パパ? この時間に家にいるなんて珍しいね」


「今日は特別な日だから、会社に頼んで早退したよ」


「特別…? どうして?」


キッチンから振り返るユウエイの顔には、どこか誇らしげな穏やかさがあった。


「決まってるだろ。お前がまたサッカーを始めたんだ。これが特別じゃなくて何だ?」


エミは視線を落とし、唇を引き結んだ。


「ありがとう、パパ……そして、ごめん。せっかく応援してくれたのに、あの時僕は…」


「気にするな」

ユウエイは椅子に腰を下ろしながら言った。

「俺が望むのは、お前が幸せであることだけだ」


「でも…」


ユウエイは懐かしそうな笑みを浮かべて口を開いた。


「俺もな、昔サッカーをやってたんだ」


「えっ…本当に?」


「ああ。お前くらいの年齢のときさ。辛いこともあったし、泣いたことも、悔しい思いもした。でもフィールドに立つと、不思議と全部忘れられた」


――サッカーだけが、すべてを忘れさせてくれた。

だから俺は、お前にサッカーを強制する気はない。

けどな、フィールドに立っているときのエミを見ると、思うんだ。


「――あぁ、ここが“本当のお前”なんだな、って」


エミは黙ったまま、その言葉を胸に受け止めた。


脳裏に、映像ではなく「感覚」がよみがえる。


走るときに切る風の感触。

脚に宿るアドレナリンの熱。

ボールに当たる乾いた音。

仲間と笑い合う、あの瞬間の光。


――あれが、僕か。


そうだ。思い出した。

あの、自由で、嬉しくて、ただ楽しかった感覚。


ユウエイはその顔を見て、ふと時が止まったように思った。


――この笑顔…いつぶりだろうな。

そう思った。


* * *


太陽がまぶしく降り注ぐ中、新入部員たちがグラウンドの門をくぐる。


空気は冷たいが、場の熱気はそれ以上だった。


エミは歩きながら、時折立ち止まってはあたりを見渡す。

ゴールポスト、きれいに引かれたライン、並べられたコーン。


フィールド中央には、レオがいつもの笑顔で両手を広げて立っていた。


「ようこそ! サッカー部へ!」


リョウが落ち着いた足取りで前に出て、軽く手を上げる。


「受け入れてくれて、ありがとう」


レオは腕を組み、声のトーンを少し下げて言った。


「今日から君たちはチームの一員だ。でも、ここにいるからって試合に出られるわけじゃない」


エミは思わず眉をひそめた。


「え…? じゃあなんで入部させたの?」


「君たちが上手いからだ」

レオは即答する。

「でも、名前だけで試合に出られるチームじゃない。ここは“努力”がすべてだ」


「じゃあ…あなたの目標は何なんですか?」

リョウがまっすぐに聞いた。


レオは真剣なまなざしで彼を見つめ、一瞬だけ笑顔を消した。

そして、すぐに力強く笑い直す。


「決まってるだろ。全国大会で優勝することだよ」


エミは呆れたように瞬きをした。


「ちょ、ちょっと待って…本気で言ってる? 全国って、そんな簡単じゃ――」


「もちろん、簡単だとは思ってない」


「なら…どうしてそんな無茶を…」


レオは一歩前へ出た。

夕日が彼の影を長く伸ばす。


「信じてるからさ。今いる仲間も、新しく入った君たちも」


「このチームなら、どんな相手にも立ち向かえる」


エミは思わず笑い声をもらした。


「ほんと、君は完全にイカれてるね」


「それが一番いいだろ?」

レオは片目をウィンクして返した。


そのとき、新たな声が響いた。


「すみません…キャプテンは昔からそうなんです」


黒髪に鋭いまなざし、整えられた制服姿で、一人の少年が静かに歩いてきた。

その動きは軍人のように無駄がなかった。


「ユウジロウ!」

レオが声を上げる。

「ちょうどいいところに来た!」


「紹介する。彼はユウジロウ・アキラ。副キャプテンで、三年生だ」


ユウジロウは完璧な礼を見せる。


「初めまして。よろしく」


「よろしくお願いします」

エミとリョウが同時に返した。


ユウジロウは二人を上から下まで見た。

悪意はなかったが、その目は明らかに厳しかった。


「慣れておいてください。レオは一見優しそうに見えますが、フィールドに立つと“怪物”になります」


「おいおい、怖がらせるなよ」

レオが笑って言う。


――なんだここ…。

エミは苦笑いを浮かべる。

まるでサッカー部じゃなくて、変人の集まりじゃないか…。


「他の部員が来たらすぐ練習を始める。それまでに更衣室で着替えてきてくれ」

レオが言った。


「了解」

エミとリョウはうなずき、グラウンド横の通路へと歩き出した。


太陽が高く昇り、まぶしい光がグラウンドを照らしていた。

新入部員たちがクラブの門をくぐる頃、空気はまだ涼しかったが、雰囲気には熱気があった。


エミは歩を進めながら、何度も立ち止まって周囲を見渡した。

ゴールポスト、芝に引かれたばかりの白線、等間隔に並ぶコーン。

そのすべてが、まるで夢のように目に映った。


フィールド中央には、いつものように笑顔を浮かべたレオが両腕を広げて待っていた。


「ようこそ! サッカー部へ、正式に歓迎するよ!」


リョウは落ち着いた足取りで一歩前に出て、軽く手を挙げる。


「受け入れてくれて感謝します」

その声には芯があり、どこか余裕もあった。


レオは腕を組み、声のトーンを少し落として言った。


「今日から君たちはチームの一員だ。だけど、それは“試合に出られる”って意味じゃない」


エミは眉をひそめた。


「え? じゃあ、どうして僕たちを入れたの?」


「君たちが上手いからさ」

レオは一切迷いなく答える。

「でも、このチームでは“名前”じゃなくて“努力”で勝ち取るんだ。出場は、実力次第だよ」


「…で、あんたの目標は何?」

リョウが率直に問いかけた。


レオの目が鋭さを帯びる。

一瞬だけ笑みが消え、すぐに力強く戻る。


「決まってるだろ。全国大会で優勝することさ」


エミは目をパチパチと瞬かせた。


「ちょ、ちょっと待って。本気? 全国って…それ、どれだけ大変かわかってるの?」


「もちろん、わかってるさ」


「じゃあ…どうしてそんな無茶を言うの?」


レオは一歩前に出た。

その影が、二人の足元を包む。


「信じてるからさ。今まで一緒にやってきた仲間も、新しく来た君たちのことも」


「このチームなら――どんな相手にも立ち向かえる。そう思ってるんだ」


エミは思わず吹き出した。


「完全にイカれてるよ、君」


「そっちの方が面白いだろ?」

レオは片目をウィンクして返した。


その時、後方から新たな声が響いた。


「すみません…キャプテンは昔から、そうなんです」


黒髪に鋭い目つき、きっちりと整った制服を着た少年が近づいてくる。

その歩き方には、軍人のような規律があった。


「ユウジロウ!」

レオが手を振った。

「ちょうどよかった!」


「紹介するよ。彼はユウジロウ・アキラ。副キャプテンで、三年生だ」


ユウジロウは完璧な角度で頭を下げる。


「初めまして。よろしくお願いします」


「こちらこそ」

エミとリョウがほぼ同時に応じた。


ユウジロウは二人を上から下までじっくりと見た。

そこに悪意はなかったが、その目には明らかな厳しさがあった。


「覚えておいてください。レオは見た目は優しそうですが、フィールドに立つと“怪物”になりますよ」


「おい、脅すなよ〜」

レオが笑いながら口を挟んだ。


――なんだここ…。

エミは心の中で思った。

まるでサッカー部というより、ちょっとした精神病院じゃないか…。


「他のメンバーが揃ったら、すぐに練習を始める」

レオが告げる。

「それまでに、ロッカールームで着替えてきてくれ」


「了解」

エミとリョウは短く返し、グラウンド脇の通路へと歩いていった。


ロッカールームには、洗剤と芝の匂いが入り混じり、どちらが勝つのか迷っているようだった。

木製のベンチは新入部員の体重を受けて軋み、半開きのバッグからはシワだらけのユニフォームや水のボトルが覗いていた。


エミは腕を組んでベンチに腰かけ、じっと床を見つめていた。


「…あいつの言ってたこと、本気で信じてるのか?」

かすかな声でつぶやく。


リョウは靴ひもを結んでいたが、顔を上げて自信ありげに笑った。


「かもな。でも俺は、それよりも俺たちの“コンビ”に期待してる」


「俺たち?」


「そう。お前はサイドバック、俺はウイング。お前のスピードと、俺のドリブルが合わされば――

このチーム、かなり上まで行けるんじゃないかって思ってる」


「まあ…そうかもしれないけど、勝つには点も必要だし、戦えるメンバーもいないと」


その時、ロッカールームの奥、薄暗い影の中から聞き慣れた声が響いた。


「ゴールは、俺が取る」


二人は思わず飛び上がった。


「お前、いきなり現れるのやめろってば!」

エミが振り返って叫ぶ。


「何のこと?」

イェンは変わらぬ無表情で返した。まるで最初からそこにいたかのように。


「もういいよ…」

エミは額を押さえてため息をついた。


リョウは小さく笑った。


「ま、確かに。俺たちの連携だけじゃ限界あるしな。いくら良くても、三人だけじゃ勝てない」


「本当に、良い選手がいないと思ってるのか?」

イェンが静かな声で問いかけた。まるで、答えをすでに知っているかのように。


エミは肩をすくめた。


「わからない。でも…この学校が全国に行ったって話は聞いたことない。

東京の大会で名前が出たことすらないし…」


イェンはゆっくりとバッグのファスナーを閉めながら、落ち着いた声で言った。


「それは、レオがこの2年間、試合に出てなかったからさ」


エミの眉がひそめられる。


「そんな馬鹿な。出てない人間が、どうしてキャプテンなんだよ?」


「簡単さ。チームで一番の選手だから」


リョウが首をかしげた。


「…どういう意味?」


イェンは一瞬だけ沈黙し、そして言葉を選ぶように口を開いた。

その声は静かで、だが重みがあった。


「三年前、レオは前十字靭帯を断裂した。一年間、完全にプレーできなくなった。

その後も、再発、痛み、リハビリ…そして、また再発」


「フィールドに戻ることはできなかった。今までは、な」


エミは言葉を失った。

胸の奥で、何かが静かに揺れた。


「…それまでは?」


イェンは間髪入れず、淡々と続けた。


「彼は――14歳で、U-17日本代表のキャプテンだった」


ロッカールームに、ぴたりと沈黙が落ちた。


リョウの目が大きく開かれる。

エミはゆっくりと壁にもたれ、何も言えずにいた。


「…ちょっと待てよ」

エミが口を開く。

「そいつ…いったい何者なんだよ」


イェンは無言で自分のユニフォームを手に取り、数秒眺めたあと、まるで無造作に――

だが確かな衝撃を与えるように、静かに言った。


「彼の名は――レオ。"フィールドの魔術師"と呼ばれてた」


ロッカールームの扉に乾いた音が響いた。

それは、ただの練習の始まりではなかった。何か――もっと大きなものの始まりだった。


「準備はいいか?」

ユウジロウが落ち着いた声で問いかける。


「はいっ!」

全員が一斉に答えた。


その直後、フィールドにはユニフォーム姿の選手たちが勢ぞろいし、夕陽に染まった空がその背を照らしていた。


新入部員たちは、既存のメンバーの横に並ぶ。

その中心に、クラブのジャケットを羽織ったレオが堂々と歩み出る。

その表情には、揺るぎない自信が宿っていた。


「全員そろったな」

レオの声がフィールドに響く。

「改めて、新しい仲間たちを歓迎しよう。――西村エミ、田中ユキ、安部リョウ、月島イェン。期待している」


「はいっ!」


全員の声が重なったその瞬間――

レオの笑みが、わずかに鋭くなった。


「だが、前もって言っておく。お前たち4人は、しばらく別メニューだ」


エミは一歩前に出て、困惑した表情で言った。


「え…? 別メニュー?」


「お前たちは、既存メンバーが受けた地獄の初期トレーニングを経ていない。

だから、シーズンが始まるまで…ボールには一切触れさせない」


「ちょっと待てよ、それって理不尽すぎるだろ!」

エミが声を上げる。


レオはゆっくりと彼に向き直った。


「通常メニューに加わりたいなら――俺との1対1に勝て」


緊張が場を包んだ。


「ただし、負けたら倍の量をこなしてもらう」

レオの声には一切の冗談がなかった。


リョウは眉をひそめる。

(無理だろ…)


エミは少し迷ったが、すぐに顔を上げた。


「やるよ。絶対に隔離されてなんかたまるか」


「本気か?」

レオが片眉を上げて確認する。


「本気だ」


レオは静かに微笑む。その笑みは、すべてを乗り越えてきた者にしかできない表情だった。


「いいだろう。じゃあ――始めるぞ」


二人は向かい合い、構えを取る。


エミはひざを曲げ、集中する。


(バカだな…そのスピードで来るなら、抜かせるはずがない)


レオが一気に距離を詰める。

エミは絶好のタイミングを見計らって、足を伸ばす――


だが、その瞬間、ボールは音もなくエミの股下をすり抜けた。


「遅いな…」

レオは振り返りもせず、前進する。


だが、エミはすぐに反応した。後方から追いつき、再び奪いにかかる。


レオは気配を感じ、ボールを自らの体越しにふわりと浮かせる。

エミの勢いは止まらず、そのまま通り過ぎてしまう。


「悪くない…」

レオはそう思いながら、優雅にターン。


ボールを足の甲でとらえ、強く蹴り込む。


エミは必死に飛び込む。指先が芝をかすめた――

だが、シュートはそのままゴールネットを揺らした。


「くそっ…!」

エミが悔しげに吐き出す。


レオは静かに息を吐いた。


(油断していたら、本当に奪われていたかもしれない)


(…こいつ、化け物だ)


レオは手を差し出す。


「悪くなかったよ。でも、約束は約束だ」


「わかってる」

エミはしっかりとその手を握った。


そして、言葉を待つことなく走り出した。

トレーニングエリアへ向かって。


「行くぞ!」

その声はまっすぐに響いた。


他の新入部員たちも、自然とその後に続いていた。


中央に立つユウジロウが、静かに口を開いた。


「驚いたんだな」


レオは視線を外さずにうなずいた。


「昨日は“技術”を見せた。今日は――“闘志”を見せた。

ああいうタイプのサイドバックこそ、今の俺たちには必要だ」


「使い方を間違えれば…逆にチームを壊す可能性もある」


「それでも、賭ける価値はある」


ユウジロウはレオを横目で見た。


「地獄に行くってんなら…俺も付き合うさ」


レオは短く、だが心から笑った。


「ありがとう、ユウジロウ」


* * *


夜の帳が下り、フィールドの照明が灯った。


ほとんどの選手が帰路につく中、たった一人だけが残っていた。


エミ。


彼は黙々と走り、汗を流し、歯を食いしばっていた。


「みんな、お疲れ。もう帰っていいぞ」

レオが声をかける。


「エミは?」

リョウが心配そうに尋ねる。


「大丈夫だ」

レオはまっすぐ前を見たまま言った。

「やり遂げるさ。あいつの目は、嘘をついてなかった」


遠くから見えるエミの姿は、汗まみれで息を切らしながらも――


その顔には、かすかだが確かな笑みが浮かんでいた。


――絶対に、負けない。約束する。


もう二度と。

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