夢を抱く者の始まりは、いつも静かだ。
それは光の中ではなく、影の中に生まれる。
周囲に認められず、実力も未完成。
不安と疑いに満ちた場所で、
それでも前に進もうとする意志だけが、
本物の「始まり」を告げる。
誰にも見えない努力、
報われるか分からない汗、
踏み出したその一歩は、
やがて世界を変えるかもしれない。
──これは、まだ名もなき者たちが、
名を刻むために歩き出す物語。
───────────────────────────────────────
夕焼けが町をやさしく染めていた。
柔らかなオレンジ色が通りを照らす中、エミとウミは肩にリュックをかけて、静かに並んで歩いていた。
「とうとう決めたのね」
ウミが横目で見て、満足そうに微笑んだ。
「うん… そして、それは君のおかげだと思う」
「私? 最後に背中を押したのは、お父さんでしょ」
「僕がバカだとでも思ってる?」
「うーん、少しだけ」
ウミは無邪気に肩をすくめた。
エミは、久しぶりに素直な笑みを見せた。
「メッセージを送ったの、君だろ? あれがなければ、きっと僕は一歩を踏み出せなかった」
「感謝なんていらないよ」
ウミは声を落とし、でもはっきりと言った。
「私はただ…君が本当にやりたいことを、手助けしてるだけだから」
「昔からそうだよね」
エミがつぶやいた。
「誰かのために行動するけど、自分のことは表に出さない」
「言ったでしょ。ちょっとだけ、そういう性格なの」
二人は少し無言で歩き続け、やがてウミの家の前にたどり着いた。
ウミは鍵を取り出して、エミの方を振り返る。
「送ってくれて、ありがと」
「気にしないで。明日、またね」
ウミは小さく笑い、静かにドアを閉めた。
エミは数秒その場に立ち尽くし、ゆっくりと空を見上げた。
――大切な人たちが、僕の背中を押してくれた。
もう、裏切るわけにはいかない。
僕は――
プロのサッカー選手になる。
* * *
【シーン:西村家】
キーッという小さな音と共に、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、エミが声をかける。
「おかえり」
ダイニングから父・ユウエイの声が返ってきた。
エミは少し驚いたように眉を上げた。
「パパ? この時間に家にいるなんて珍しいね」
「今日は特別な日だから、会社に頼んで早退したよ」
「特別…? どうして?」
キッチンから振り返るユウエイの顔には、どこか誇らしげな穏やかさがあった。
「決まってるだろ。お前がまたサッカーを始めたんだ。これが特別じゃなくて何だ?」
エミは視線を落とし、唇を引き結んだ。
「ありがとう、パパ……そして、ごめん。せっかく応援してくれたのに、あの時僕は…」
「気にするな」
ユウエイは椅子に腰を下ろしながら言った。
「俺が望むのは、お前が幸せであることだけだ」
「でも…」
ユウエイは懐かしそうな笑みを浮かべて口を開いた。
「俺もな、昔サッカーをやってたんだ」
「えっ…本当に?」
「ああ。お前くらいの年齢のときさ。辛いこともあったし、泣いたことも、悔しい思いもした。でもフィールドに立つと、不思議と全部忘れられた」
――サッカーだけが、すべてを忘れさせてくれた。
だから俺は、お前にサッカーを強制する気はない。
けどな、フィールドに立っているときのエミを見ると、思うんだ。
「――あぁ、ここが“本当のお前”なんだな、って」
エミは黙ったまま、その言葉を胸に受け止めた。
脳裏に、映像ではなく「感覚」がよみがえる。
走るときに切る風の感触。
脚に宿るアドレナリンの熱。
ボールに当たる乾いた音。
仲間と笑い合う、あの瞬間の光。
――あれが、僕か。
そうだ。思い出した。
あの、自由で、嬉しくて、ただ楽しかった感覚。
ユウエイはその顔を見て、ふと時が止まったように思った。
――この笑顔…いつぶりだろうな。
そう思った。
* * *
太陽がまぶしく降り注ぐ中、新入部員たちがグラウンドの門をくぐる。
空気は冷たいが、場の熱気はそれ以上だった。
エミは歩きながら、時折立ち止まってはあたりを見渡す。
ゴールポスト、きれいに引かれたライン、並べられたコーン。
フィールド中央には、レオがいつもの笑顔で両手を広げて立っていた。
「ようこそ! サッカー部へ!」
リョウが落ち着いた足取りで前に出て、軽く手を上げる。
「受け入れてくれて、ありがとう」
レオは腕を組み、声のトーンを少し下げて言った。
「今日から君たちはチームの一員だ。でも、ここにいるからって試合に出られるわけじゃない」
エミは思わず眉をひそめた。
「え…? じゃあなんで入部させたの?」
「君たちが上手いからだ」
レオは即答する。
「でも、名前だけで試合に出られるチームじゃない。ここは“努力”がすべてだ」
「じゃあ…あなたの目標は何なんですか?」
リョウがまっすぐに聞いた。
レオは真剣なまなざしで彼を見つめ、一瞬だけ笑顔を消した。
そして、すぐに力強く笑い直す。
「決まってるだろ。全国大会で優勝することだよ」
エミは呆れたように瞬きをした。
「ちょ、ちょっと待って…本気で言ってる? 全国って、そんな簡単じゃ――」
「もちろん、簡単だとは思ってない」
「なら…どうしてそんな無茶を…」
レオは一歩前へ出た。
夕日が彼の影を長く伸ばす。
「信じてるからさ。今いる仲間も、新しく入った君たちも」
「このチームなら、どんな相手にも立ち向かえる」
エミは思わず笑い声をもらした。
「ほんと、君は完全にイカれてるね」
「それが一番いいだろ?」
レオは片目をウィンクして返した。
そのとき、新たな声が響いた。
「すみません…キャプテンは昔からそうなんです」
黒髪に鋭いまなざし、整えられた制服姿で、一人の少年が静かに歩いてきた。
その動きは軍人のように無駄がなかった。
「ユウジロウ!」
レオが声を上げる。
「ちょうどいいところに来た!」
「紹介する。彼はユウジロウ・アキラ。副キャプテンで、三年生だ」
ユウジロウは完璧な礼を見せる。
「初めまして。よろしく」
「よろしくお願いします」
エミとリョウが同時に返した。
ユウジロウは二人を上から下まで見た。
悪意はなかったが、その目は明らかに厳しかった。
「慣れておいてください。レオは一見優しそうに見えますが、フィールドに立つと“怪物”になります」
「おいおい、怖がらせるなよ」
レオが笑って言う。
――なんだここ…。
エミは苦笑いを浮かべる。
まるでサッカー部じゃなくて、変人の集まりじゃないか…。
「他の部員が来たらすぐ練習を始める。それまでに更衣室で着替えてきてくれ」
レオが言った。
「了解」
エミとリョウはうなずき、グラウンド横の通路へと歩き出した。
太陽が高く昇り、まぶしい光がグラウンドを照らしていた。
新入部員たちがクラブの門をくぐる頃、空気はまだ涼しかったが、雰囲気には熱気があった。
エミは歩を進めながら、何度も立ち止まって周囲を見渡した。
ゴールポスト、芝に引かれたばかりの白線、等間隔に並ぶコーン。
そのすべてが、まるで夢のように目に映った。
フィールド中央には、いつものように笑顔を浮かべたレオが両腕を広げて待っていた。
「ようこそ! サッカー部へ、正式に歓迎するよ!」
リョウは落ち着いた足取りで一歩前に出て、軽く手を挙げる。
「受け入れてくれて感謝します」
その声には芯があり、どこか余裕もあった。
レオは腕を組み、声のトーンを少し落として言った。
「今日から君たちはチームの一員だ。だけど、それは“試合に出られる”って意味じゃない」
エミは眉をひそめた。
「え? じゃあ、どうして僕たちを入れたの?」
「君たちが上手いからさ」
レオは一切迷いなく答える。
「でも、このチームでは“名前”じゃなくて“努力”で勝ち取るんだ。出場は、実力次第だよ」
「…で、あんたの目標は何?」
リョウが率直に問いかけた。
レオの目が鋭さを帯びる。
一瞬だけ笑みが消え、すぐに力強く戻る。
「決まってるだろ。全国大会で優勝することさ」
エミは目をパチパチと瞬かせた。
「ちょ、ちょっと待って。本気? 全国って…それ、どれだけ大変かわかってるの?」
「もちろん、わかってるさ」
「じゃあ…どうしてそんな無茶を言うの?」
レオは一歩前に出た。
その影が、二人の足元を包む。
「信じてるからさ。今まで一緒にやってきた仲間も、新しく来た君たちのことも」
「このチームなら――どんな相手にも立ち向かえる。そう思ってるんだ」
エミは思わず吹き出した。
「完全にイカれてるよ、君」
「そっちの方が面白いだろ?」
レオは片目をウィンクして返した。
その時、後方から新たな声が響いた。
「すみません…キャプテンは昔から、そうなんです」
黒髪に鋭い目つき、きっちりと整った制服を着た少年が近づいてくる。
その歩き方には、軍人のような規律があった。
「ユウジロウ!」
レオが手を振った。
「ちょうどよかった!」
「紹介するよ。彼はユウジロウ・アキラ。副キャプテンで、三年生だ」
ユウジロウは完璧な角度で頭を下げる。
「初めまして。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
エミとリョウがほぼ同時に応じた。
ユウジロウは二人を上から下までじっくりと見た。
そこに悪意はなかったが、その目には明らかな厳しさがあった。
「覚えておいてください。レオは見た目は優しそうですが、フィールドに立つと“怪物”になりますよ」
「おい、脅すなよ〜」
レオが笑いながら口を挟んだ。
――なんだここ…。
エミは心の中で思った。
まるでサッカー部というより、ちょっとした精神病院じゃないか…。
「他のメンバーが揃ったら、すぐに練習を始める」
レオが告げる。
「それまでに、ロッカールームで着替えてきてくれ」
「了解」
エミとリョウは短く返し、グラウンド脇の通路へと歩いていった。
ロッカールームには、洗剤と芝の匂いが入り混じり、どちらが勝つのか迷っているようだった。
木製のベンチは新入部員の体重を受けて軋み、半開きのバッグからはシワだらけのユニフォームや水のボトルが覗いていた。
エミは腕を組んでベンチに腰かけ、じっと床を見つめていた。
「…あいつの言ってたこと、本気で信じてるのか?」
かすかな声でつぶやく。
リョウは靴ひもを結んでいたが、顔を上げて自信ありげに笑った。
「かもな。でも俺は、それよりも俺たちの“コンビ”に期待してる」
「俺たち?」
「そう。お前はサイドバック、俺はウイング。お前のスピードと、俺のドリブルが合わされば――
このチーム、かなり上まで行けるんじゃないかって思ってる」
「まあ…そうかもしれないけど、勝つには点も必要だし、戦えるメンバーもいないと」
その時、ロッカールームの奥、薄暗い影の中から聞き慣れた声が響いた。
「ゴールは、俺が取る」
二人は思わず飛び上がった。
「お前、いきなり現れるのやめろってば!」
エミが振り返って叫ぶ。
「何のこと?」
イェンは変わらぬ無表情で返した。まるで最初からそこにいたかのように。
「もういいよ…」
エミは額を押さえてため息をついた。
リョウは小さく笑った。
「ま、確かに。俺たちの連携だけじゃ限界あるしな。いくら良くても、三人だけじゃ勝てない」
「本当に、良い選手がいないと思ってるのか?」
イェンが静かな声で問いかけた。まるで、答えをすでに知っているかのように。
エミは肩をすくめた。
「わからない。でも…この学校が全国に行ったって話は聞いたことない。
東京の大会で名前が出たことすらないし…」
イェンはゆっくりとバッグのファスナーを閉めながら、落ち着いた声で言った。
「それは、レオがこの2年間、試合に出てなかったからさ」
エミの眉がひそめられる。
「そんな馬鹿な。出てない人間が、どうしてキャプテンなんだよ?」
「簡単さ。チームで一番の選手だから」
リョウが首をかしげた。
「…どういう意味?」
イェンは一瞬だけ沈黙し、そして言葉を選ぶように口を開いた。
その声は静かで、だが重みがあった。
「三年前、レオは前十字靭帯を断裂した。一年間、完全にプレーできなくなった。
その後も、再発、痛み、リハビリ…そして、また再発」
「フィールドに戻ることはできなかった。今までは、な」
エミは言葉を失った。
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
「…それまでは?」
イェンは間髪入れず、淡々と続けた。
「彼は――14歳で、U-17日本代表のキャプテンだった」
ロッカールームに、ぴたりと沈黙が落ちた。
リョウの目が大きく開かれる。
エミはゆっくりと壁にもたれ、何も言えずにいた。
「…ちょっと待てよ」
エミが口を開く。
「そいつ…いったい何者なんだよ」
イェンは無言で自分のユニフォームを手に取り、数秒眺めたあと、まるで無造作に――
だが確かな衝撃を与えるように、静かに言った。
「彼の名は――レオ。"フィールドの魔術師"と呼ばれてた」
ロッカールームの扉に乾いた音が響いた。
それは、ただの練習の始まりではなかった。何か――もっと大きなものの始まりだった。
「準備はいいか?」
ユウジロウが落ち着いた声で問いかける。
「はいっ!」
全員が一斉に答えた。
その直後、フィールドにはユニフォーム姿の選手たちが勢ぞろいし、夕陽に染まった空がその背を照らしていた。
新入部員たちは、既存のメンバーの横に並ぶ。
その中心に、クラブのジャケットを羽織ったレオが堂々と歩み出る。
その表情には、揺るぎない自信が宿っていた。
「全員そろったな」
レオの声がフィールドに響く。
「改めて、新しい仲間たちを歓迎しよう。――西村エミ、田中ユキ、安部リョウ、月島イェン。期待している」
「はいっ!」
全員の声が重なったその瞬間――
レオの笑みが、わずかに鋭くなった。
「だが、前もって言っておく。お前たち4人は、しばらく別メニューだ」
エミは一歩前に出て、困惑した表情で言った。
「え…? 別メニュー?」
「お前たちは、既存メンバーが受けた地獄の初期トレーニングを経ていない。
だから、シーズンが始まるまで…ボールには一切触れさせない」
「ちょっと待てよ、それって理不尽すぎるだろ!」
エミが声を上げる。
レオはゆっくりと彼に向き直った。
「通常メニューに加わりたいなら――俺との1対1に勝て」
緊張が場を包んだ。
「ただし、負けたら倍の量をこなしてもらう」
レオの声には一切の冗談がなかった。
リョウは眉をひそめる。
(無理だろ…)
エミは少し迷ったが、すぐに顔を上げた。
「やるよ。絶対に隔離されてなんかたまるか」
「本気か?」
レオが片眉を上げて確認する。
「本気だ」
レオは静かに微笑む。その笑みは、すべてを乗り越えてきた者にしかできない表情だった。
「いいだろう。じゃあ――始めるぞ」
二人は向かい合い、構えを取る。
エミはひざを曲げ、集中する。
(バカだな…そのスピードで来るなら、抜かせるはずがない)
レオが一気に距離を詰める。
エミは絶好のタイミングを見計らって、足を伸ばす――
だが、その瞬間、ボールは音もなくエミの股下をすり抜けた。
「遅いな…」
レオは振り返りもせず、前進する。
だが、エミはすぐに反応した。後方から追いつき、再び奪いにかかる。
レオは気配を感じ、ボールを自らの体越しにふわりと浮かせる。
エミの勢いは止まらず、そのまま通り過ぎてしまう。
「悪くない…」
レオはそう思いながら、優雅にターン。
ボールを足の甲でとらえ、強く蹴り込む。
エミは必死に飛び込む。指先が芝をかすめた――
だが、シュートはそのままゴールネットを揺らした。
「くそっ…!」
エミが悔しげに吐き出す。
レオは静かに息を吐いた。
(油断していたら、本当に奪われていたかもしれない)
(…こいつ、化け物だ)
レオは手を差し出す。
「悪くなかったよ。でも、約束は約束だ」
「わかってる」
エミはしっかりとその手を握った。
そして、言葉を待つことなく走り出した。
トレーニングエリアへ向かって。
「行くぞ!」
その声はまっすぐに響いた。
他の新入部員たちも、自然とその後に続いていた。
中央に立つユウジロウが、静かに口を開いた。
「驚いたんだな」
レオは視線を外さずにうなずいた。
「昨日は“技術”を見せた。今日は――“闘志”を見せた。
ああいうタイプのサイドバックこそ、今の俺たちには必要だ」
「使い方を間違えれば…逆にチームを壊す可能性もある」
「それでも、賭ける価値はある」
ユウジロウはレオを横目で見た。
「地獄に行くってんなら…俺も付き合うさ」
レオは短く、だが心から笑った。
「ありがとう、ユウジロウ」
* * *
夜の帳が下り、フィールドの照明が灯った。
ほとんどの選手が帰路につく中、たった一人だけが残っていた。
エミ。
彼は黙々と走り、汗を流し、歯を食いしばっていた。
「みんな、お疲れ。もう帰っていいぞ」
レオが声をかける。
「エミは?」
リョウが心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ」
レオはまっすぐ前を見たまま言った。
「やり遂げるさ。あいつの目は、嘘をついてなかった」
遠くから見えるエミの姿は、汗まみれで息を切らしながらも――
その顔には、かすかだが確かな笑みが浮かんでいた。
――絶対に、負けない。約束する。
もう二度と。