最初の勝負は、勝敗を決めるものではない。
それは、今の自分と向き合う鏡にすぎない。
実力も覚悟も、まだ不確かで、
不安と期待が入り混じるその瞬間に、
人は「本当の自分」が見える。
準備が足りないと言われても、
誰も期待していなくても、
それでも立ち向かうしかない時がある。
なぜなら──
夢を追う者にとって、最初の一歩がすべての始まりなのだから。
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フィールドに響く笛の音が、空気を切り裂くように鋭く鳴っていた。
選手たちは汗だくでトレーニングに励んでいる。
ある者は戦術練習に集中し、ある者は短いパスを繰り返す。
そして一部の者たちは、グラウンドの周囲を黙々と走っていた。
その中に、エミの姿があった。
呼吸は荒く、額からは滝のように汗が流れ落ちていた。
「…ったく…」
エミは息を切らしながらつぶやく。
「脚が鉛みたいだ…」
「キャプテンに逆らうと、そうなるんだよ」
隣で走っていたリョウが、疲労のにじむ笑みを浮かべながら答えた。
「わかってるさ…」
エミは肩で息をしながら応じた。
「でもさ、正直言うと――まだ一試合もしてないの、驚きだよな」
「確かに」
エミも頷く。
「レオはいつになったらチームを試すつもりなんだろうな」
* * *
【シーン:ベンチ横】
フィールドの端、ユウジロウが腕を組んでレオの元へと歩み寄る。
レオは腕を組んだまま、前髪の影に隠れた表情でフィールドをじっと見つめていた。
「レオ、ちょっと報告がある」
「何だ?」
「試合の申し込みが来た。相手は…渋谷F.A.」
レオはほんの少しだけ瞬きをした。
「…やっとか。思ったより遅かったな」
ユウジロウが目を細める。
「何だよ、その言い方。まるで最初から分かってたみたいだな」
「当たり前だ。キャプテンのケイスケには、もう話を通しておいたからな」
ユウジロウは疑いの視線を向けた。
「お前…まさか何か仕掛けたんじゃないだろうな」
レオが片眉を上げる。
「え? 俺が悪魔か何かに見える?」
「違う。お前は“悪魔”そのものだ。だから心配なんだよ」
レオは静かに笑った。
「今回は安心していいさ。何もしてない。
ケイスケとは…昔からの友人なんだ。代表チーム時代からのな」
ユウジロウは腕を組み直し、静かにうなずいた。
「そうか…お前がそのレベルにいたってこと、時々忘れちまうな」
「俺もだよ」
レオは空を見上げながら、静かに言う。
「たまに…全部が遠い夢だったんじゃないかって思う時がある」
ユウジロウはその横顔を一瞬見つめ、そして言葉を絞り出すように言った。
「心配するな。今年こそ――お前を全国に連れていく。これは約束だ」
レオはわずかに顔を向け、ふっと笑った。
「今回は…一人じゃない。信頼できるベテランがいて、目の奥に“炎”を宿した新人もいる」
「去年とは…全然違う」
「まるで別のチームだよ」
レオがふと問いかける。
「それで…試合はいつなんだ?」
「明日だ」
「……は?」
レオがまばたきする。
「明日!? あの野郎…ケイスケ、絶対わざとだろ。もう少し余裕ある日程にできたはずなのに…」
「やっぱり、そうなると思ってたんだな」
「ああ。あいつのことはよく知ってる。
準備させる時間をくれないのは当然だ。だって――あいつらはもう仕上がってる」
ユウジロウは口を引き結び、黙り込む。
「うちの奴ら…そんな相手に通用するか?」
「…わからない。でも、知りたいんだ。
このチームがどれだけやれるのか」
「それにふさわしい相手が――渋谷F.A.ってわけか」
「そういうこと」
「…ただ、もし負けたら…気持ちが折れるかもしれないぞ」
「それは明日になってみないと分からない」
ユウジロウは拳を握りしめた。
「なら、俺も気合い入れないとな」
レオは一歩前に出て、声を張る。
「全員、集まってくれ!!」
フィールドの中央で、レオが腕を組み、燃えるような視線で立っていた。
その合図と共に、全選手が彼のもとに集まった。
「伝えることがある」
レオの声は澄んでいて、はっきりと響いた。
「明日、俺たちは初めての公式戦を戦う。相手は――渋谷F.A.だ」
その瞬間、ざわめきが選手たちの間に広がった。
驚き、緊張、不安が交錯する。
普段は冷静なユキが、一歩前に出た。
「キャプテン…僕たちも、試合に出られるんですか?」
レオはうなずいた。だが、その声は厳しかった。
「出る。ただし、ほとんどはベンチスタートだ」
エミはその言葉に目を見開いた。
――渋谷F.A.…!?
(あそこは…昔、俺が入りたかったアカデミーじゃないか。まさか、あいつ…まだいるのか?)
隣では、リョウが小さく息を飲み、視線を下げる。
(…やっと会える。ソラ)
「各自、トレーニングに戻っていい」
レオが締めくくる。
「ユウジロウ、後は任せた」
「了解」
ユウジロウは短く返し、1年生たちを鋭く見つめた。
選手たちが持ち場に戻る中、エミはリョウに近づいた。
「気づいてるか? レオって、いつも下校時間になるといなくなるよな。
しかも、俺たちと一緒に練習してるの見たことないんだ」
「それの何が問題なんだ?」
リョウは振り向かずに答えた。
「キャプテンには、もっと大事なことがあるのかもしれない」
エミは返事をしなかった。
だが、その疑問は心に残ったままだった。
(本当に…? チームよりも大事なことが?)
遠くから、そのやり取りをユウジロウが見ていた。
――まだ足りないな、と思った。
* * *
時間が経つにつれ、練習はさらに厳しさを増していった。
1年生たちは何周目かも分からないほど走り続け、汗に濡れた顔は疲労でゆがみ、足取りは重くなっていた。
エミは膝に手をついて、肩で息をする。
「…クソッ。脚が完全に石みたいだ。
明日試合って時に、何考えてんだ、マジで…」
「さあな…」
隣でリョウもフラフラになりながら答える。
「でも、もう体が動かねぇ…」
「…僕も同じ」
静かな声が耳に届く。二人が顔を上げると、
いつの間にかイェンが横に立っていた。
「…いつからいたんだよ!」
エミが思わず叫ぶ。
「ごめん…声が小さいの、慣れてるから」
エミはため息をついた。
「いや、別に怒ってるわけじゃない。ただ…毎回びっくりするんだよ」
「…ごめん」
イェンは少しうつむいた。
その時だった。
レオが手にノートを持って現れる。
「よし、これで今日は終わりだ。明日のスタメンを発表する」
空気が一気に張り詰める。
誰もが息を呑んで耳を澄ませた。
「ゴールキーパー、背番号1:藤本ケント」
「右サイドバック、背番号2:田口ジロウ」
「左サイドバック、背番号5:山本レン」
エミは顔をしかめた。
(は? 俺…いない? どうして…?)
「センターバック、背番号4:藤江アキラ、背番号22:明良ユウジロウ」
ユウジロウは無表情で聞いていたが、内心では問いかけていた。
(お前が“必要なピース”って言ったのに…なぜ出さない?)
「ボランチ、背番号14:中野ヒカル」
「ミッドフィルダー、背番号18と8:鈴木リンと斉藤タツヤ」
「ウィング、背番号11:田中ユキ、背番号7:安部リョウ」
「センターフォワード、背番号20:天城カイ」
レオは少し間を置き、続けた。
「ベンチメンバー――背番号13:立花リコ、背番号16:西村エミ、背番号6:嵐タケシ、背番号9:月島イェン」
ノートを閉じる。
「以上だ。解散していい」
リョウはスタメンに選ばれた喜びを隠そうとしたが、
エミの方に視線を向け、心に痛みを覚えた。
(どうして…? 一番頑張ってきたのは、あいつなのに。
キャプテン…一体、何を考えてるんだ…)
街は静かだった。
ちらちらと瞬くオレンジ色の街灯が、まるで都会のホタルのように歩道を照らしていた。
レオとユウジロウは、手をポケットに突っ込んだまま、ゆっくりと帰路についていた。
その背には、一日の疲れが重くのしかかっていた。
しばらくの沈黙の後、ユウジロウが口を開いた。
「なあ、レオ…」
「ん?」
「ちょっと、聞いていいか?」
レオは足を止めずに横目で見る。
「もちろん。エミのことか?」
ユウジロウは少し驚いたように、うなずいた。
「…もう分かってたのか?」
レオは小さくため息をつき、わずかに微笑んだ。
「予想してた。でもな、疑問を持ってるのはお前だけじゃない。
スタメンを発表したとき、みんな驚いてたよ…ただし、二人を除いてな」
ユウジロウは眉をひそめた。
「誰と誰だ?」
「ユキとイェンさ」
ユウジロウはその名を聞いて、しばし沈黙する。
「…それが何を意味する?」
レオはまるで空気の中の何かを見つめるように、目を細めた。
「簡単なことさ。あの二人は――“違う”んだ。
ただ上手いだけじゃない。あいつらは天才だ。
他の選手には見えないものが、彼らには見えている。
試合のテンポ、スペース、相手の意図…ボールが動く前に、すでに理解してる」
「エミも、ああなれると思ってるのか?」
「思ってるんじゃない。確信してる」
レオの声には迷いがなかった。
「エミには本能がある。だが、まだ“視野”が足りない。
だから今は、外から試合を見る必要がある。
ベンチからなら、シブヤF.A.のすべてを読み取れる。
後半で投入すれば、相手に穴を開ける鍵になる」
「完全に戦術か…」
ユウジロウは苦笑した。
「でもな、そう言われても、やっぱり全部は理解できねぇよ」
レオは半分笑って、答える。
「理解なんて必要ないさ。俺を信じてくれれば、それでいい。
…まあ、俺が間違ってる可能性もあるけどな。
天才でも何でもない。ただの妄想家さ」
立ち止まり、夜空を見上げる。
「――全国に行けた時、初めて“何か”になれるかもしれない」
ユウジロウも隣で立ち止まった。
「行けるさ。絶対に」
レオは彼を見て、静かにうなずいた。
「俺は信じてる。みんなのことを」
ふと、ユウジロウが雰囲気を変えて尋ねた。
「そういや…膝の調子はどうだ?」
レオは一瞬視線をそらし、正直に答えるのをためらうように口を開いた。
「…良くはなってきてる。
でも、まだまだ完治には遠い。すまない、全部お前に任せきりで」
ユウジロウは首を振った。
「謝るな。お前は回復に集中しろ。
その間、俺たちがチームを引っ張っていく」
レオは何も言わなかった。
だが、その唇には、静かな微笑みが浮かんでいた。
朝の光が窓から差し込み、階段を駆け下りるエミの姿を照らしていた。
片足でスニーカーの紐を結びながら、つまずかないよう必死だ。
「もう出るの?」
食卓に座るユエイが、湯気の立つカップを手に問いかけた。
「うん。今日はシブヤF.A.との試合なんだ」
ユエイの表情が一変した。
「まさか…あのシブヤ?」
エミは力強くうなずいた。
「そう、そのシブヤだ。今日は…後悔させてやる」
ユエイは静かにカップを置き、落ち着いた目で彼を見つめた。
「…勘違いするな。それはお前のサッカーじゃない」
エミは一瞬、動きを止めた。
「え…? どういう意味?」
「お前は気づいてないかもしれないけどな。
俺は、お前がどんなふうにプレーするかをちゃんと見てきた。
お前のサッカーが一番輝くのは、“楽しい”って感じてる時だ。
恨みや復讐で走る時じゃない。
パスを楽しみ、走ることを喜び、心から笑ってる時だよ」
エミは少し戸惑いながらも、どこかで納得するように目を伏せた。
「…よくわかんないけど、今日は…倒したい相手がいる。それだけだ」
「そう思うなら、それでいい。
だが忘れるな。お前のサッカーは、“幸せ”でできてる。
“憎しみ”からは生まれない」
エミは拳をぎゅっと握りしめ、そして静かにうなずいた。
何も言わず、家を飛び出す。
―――――――――――――――
玄関先に、腕を組んで待っている影があった。
「…ウミ?」
エミは驚いた表情を浮かべた。
「なんでここに?」
「は? メッセージ読んでないの? バカ」
彼女はイライラした様子で返す。
「ごめん…起きてからスマホ見てなくて」
ウミは深くため息をついた。
「…何考えてんのよ」
「え? どういう意味?」
「最近、あんた全然いつもと違う。
ぼーっとしてるし、変に空回りしてる」
エミは恥ずかしそうにうつむいた。
「もしかして…今日の試合にこだわりすぎてるのかも…」
「は? なんかあるの? そのチームに」
「うん。ちょっとした因縁があって…」
バシッ!
突然ウミが、頭を小突いた。
「いったぁ! 何すんだよ!」
「バカ。そんなくだらないことで頭使って、
その少ない脳みそがショートしちゃったんでしょ?
だからあんた、もっとアホになるのよ」
「な、なんだよそれ!」
「…あたしが知ってるエミはさ、勝ち負けなんか気にしないで、
ただ自由に走って、ただ楽しんでた。
だからこそ、すごくカッコよかったの。
今のあんたは…違う気がする」
エミは黙ってウミを見つめる。
そして、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう、ウミ。ちょっと…目が覚めた気がする」
ウミはふいっと背を向けて歩き出す。
「絶対に勝ちなさいよ。でも、“あんたらしく”ね」
―――――――――――――――
シブヤF.A.の施設は、まるで要塞のように目の前に立ちはだかっていた。
近代的で、完璧で、圧倒的な存在感。
並木道の先にそびえるその建物を見上げながら、
エミの胸には、静かな緊張が走っていた。
「…前に来た時と、変わらない」
彼は心の中でつぶやいた。
でも――
今回は、ひとりじゃない。
シブヤF.A. 練習場・フィールド入口
反対側のフィールドから、赤い髪の男が悠然と歩いてきた。
真紅のジャケットのポケットに手を入れ、落ち着いた笑みを浮かべている。
その翡翠の瞳は、かつてと変わらぬ鋭さでレオを見据えた。
「やっぱりここにいたな、レオ」
レオは微動だにせず、腕を組んだまま口元に小さな笑みを浮かべた。
「U-19日本代表、不動のキャプテン…中村ケイスケ」
「おいおい、レオ。そんなに堅苦しく言うなよ」
ケイスケは笑いながら肩をすくめる。
「本当か? 顔は嬉しそうだが」
二人は笑い合う。
その空気には、確かな緊張と長年の友情が混じっていた。
「またピッチで会えて嬉しいよ」
ケイスケは胸元の銀のクロスを整えながら言った。
「お前を叩き潰すのが楽しみで仕方ない」
レオは首を横に振りながら、苦笑を漏らす。
「悪いが…今日は俺は出ない」
ケイスケの表情が一変する。
「は? おい待て。俺がこの試合を受けたのは、お前とやるためだぞ」
「すまないな。全国大会まで待ってもらうしかない」
ケイスケは大きくため息をついた。
「それはさすがに無理があるだろ。
今年は本気で強いチームがいくつも出てくるんだぞ。お前らがそこまで行けるとは…」
レオの目は揺らがなかった。
「行くさ。必ずな」
ケイスケはしばらく黙った後、微笑んだ。
その笑顔には、皮肉ではなく、心からの敬意が宿っていた。
「そう言うなら…信じるしかないな。
楽しみにしてるぜ、“魔術師”」
「こっちこそだ、“悪魔”」
レオもまた、笑顔で応えた。
ケイスケが背を向けて去っていく中――
遠くのフィールド端、エミは敵チームの中に見覚えのある顔を見つけた。
その名は――ソラ。
彼の目が一瞬見開かれたが、何も言わず、ただその姿を見つめていた。
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シブヤF.A. 屋内施設・クロイカゲのロッカールーム
白い壁に囲まれたロッカールーム。
選手たちは全員、手にした黒いユニフォームを見つめていた。
沈黙の中、レオが一歩前へと出る。
「言っておくが…今日、俺たちはボコボコにされる」
重苦しい沈黙が室内を包む。
選手たちが顔を見合わせ、困惑が広がる。
「それが現実だ」
レオの声に、芝居じみた色はない。ただ真実だけを突きつける。
「今日の相手は、全国レベル、いや国際レベルで戦ってるチームだ。
技術も体力も、経験も…全てが俺たちを上回っている」
その事実に、多くの者が視線を落とした。
胸に刺さる。悔しくても、それは紛れもない現実。
「だがな、それを受け入れる必要はない」
レオの声が一段と大きくなる。
その瞳には、炎のような輝きが宿っていた。
「俺たちは出ていく。そしてこのスター軍団を震え上がらせるんだ。
王冠を踏みにじってやる。
今日、俺たちはこの“金持ちの坊っちゃんチーム”を叩き潰す! わかったか!!」
沈黙が、熱気に変わった。
目に光が戻る。
拳が握られ、胸の鼓動が高鳴る。
「わかったか!?」
「はい!!」
その声は一つになり、壁を震わせた。
レオは歩み寄り、エミの前に立つ。
手にしたユニフォームを差し出す。
それは黒地に銀の装飾が施された一枚――背中には「16」の背番号。
「今日、お前はベンチからのスタートだ。
だが、それが何だ?
俺はお前に期待してる。
お前がこの試合で、本当の姿を見せてくれることを」
エミは、そのユニフォームをしっかりと受け取った。
胸に抱きしめるように握りしめる。
レオは微笑みながら、最後に言った。
「ようこそ、クロイカゲへ――西村エミ」