試合とは、勝ち負けだけでは測れないものだ。
それは、覚悟を問う場であり、
心の奥にある“本音”を引き出す場所でもある。
自信と不安、希望と恐れ、
すべてが混ざり合い、
真の実力だけでなく、
その人間の“本質”さえもさらけ出される。
結果は数字で表れるが、
心の中に刻まれるのは、
そのとき、何を感じ、どう立ち向かったか──ただそれだけ。
戦う相手は、他者か。己か。
それが今、問われる。
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渋谷スタジアム・観客席
渋谷のスタジアムは超満員だった。
何千人もの観客がスタンドを埋め尽くし、風にたなびくマフラー、地元チームの色があちこちで輝いていた。
巨大スクリーンには選手たちの名前が映し出され、太陽の光がピッチ中央に降り注ぐ。
上段の列から、ウミは立ち止まり、周囲を見渡していた。
「…すごい…」
彼女は息を呑んだ。
「公式戦でもないのに、どうしてこんなに人が…?」
「ウミ!」
ふいに聞こえた声に思考が途切れた。
どこか聞き覚えのある声。
振り返ると、2列下にハルがいた。いつもの穏やかな笑顔を浮かべて手を振っている。
「ハル? どうしてここに?」
「弟の応援に来たの」
「弟がいるの?」
「うん。私より一つ下、1年生だよ。ウミと同じ」
「1年…? じゃあ同じ学年だけど、見たことないな…」
「A組だからね」
「そっか… A組か。
お姉ちゃんと同じく、優秀なのね」
ウミがからかうように目を細めると、ハルは少しだけいたずらっぽく笑った。
「ウミは彼氏の応援?」
「へっ!? ち、ちがう! そんなわけないでしょ!」
「この前の男の子…すごく仲良さそうだったけど」
「ちがうってば! ただの友達なの!」
「…そっか」
「そ、そうよ。ただの友達よ」
ウミはぷいと視線を外したあと、今度は反撃するように尋ねた。
「…で? ハルは?」
「え、私?」
「彼氏、いるの?」
ハルは静かに首を振った。
「春は…まだ私には来てないの」
彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。
「そんなことないでしょ!
三年の男子の半分は、ハルのこと好きなんだから!」
「でもね、テストに、オーケストラに、練習に…時間が全然足りないんだよ」
ウミは腕を組んで、キリッとした声で宣言した。
「じゃあ来週、カフェに行こう!」
「えっ?」
「責任ばかり背負って、最後の高校生活を楽しめないなんてダメ。
私はハルのために、できることをするって決めたの!」
「…でも、来週は演奏会があって…」
「どこかに時間、作ればいいだけよ!」
一瞬だけ視線を落としたハルは、やがてやさしい笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、ウミ」
その時、突然スタジアム全体がどよめきに包まれた。
拍手と歓声が轟き、人々が一斉に立ち上がる。
「な、何が起きたの!?」
ウミは顔を上げた。
トンネルの扉が開かれ、両チームの選手たちがピッチへと駆け出してきた。
試合前のウォームアップのために。
渋谷F.A.の選手たちは、ターコイズブルーのユニフォームに金色の波模様をあしらい、堂々とした足取りで現れた。
観客たちはその姿に熱狂の声を送る。
そして、中央に立つその男――背番号30。
ナカムラ
その瞳には、絶対の自信が宿っていた。
彼こそが、このスタジアムの支配者。
渋谷F.A.のキャプテン。
…そして、試合の火蓋が切って落とされるのだった。
ピッチ脇・控えスペース
フィールドの隅、目立たない位置から、福民(ふくたみ)先生がじっと観察していた。
渋谷F.A.の選手たちが、正確無比な動きでウォーミングアップを行う様子を、彼は食い入るように見つめる。
手には即席でまとめられたメモが挟まれたファイル。メガネは鼻先から少しずり落ちている。
「…もう出てきたね」
その隣で、ハルが静かに言った。視線はピッチから外さない。
レオは穏やかに頷き、大人に向き直った。
「福民先生、お願いしたことは理解されましたか?」
「は、はい…たぶん…」
先生は緊張した様子で、先ほどレオから渡された紙を再確認する。
「もし不明な点があれば、すべてそこに書いてありますので」
「わかりました…」
福民はメガネを直しながら、ぎこちなく微笑んだ。緊張を隠しきれていない。
「信頼してくれて、ありがとう…」
「来てくださってこちらこそ感謝してます。無理をお願いしてすみません」
「いやいや、大丈夫だよ。
ちょうど週末は空いてたし…こうして生徒たちが夢に向かって戦う姿を見るのは、嬉しいものだから。負担なんかじゃないよ」
レオは軽く頭を下げた。
「全国大会に進んだら、必ず恩返しします」
福民は少し目を見開いた。
「…本気で、行けると思ってるのかい?」
レオは背筋を伸ばし、まっすぐな目で答える。
「一ミリの疑いもありません」
その目に、教師は思わず胸が熱くなるのを感じた。
「…そうか」
「では、よろしくお願いします」
そう言って、レオは先生の肩に軽く手を置き、立ち去った。
「は、はい…任せて…」
その背中を見送りながら、ハルの視線は彼を追っていった。
やがて彼が階段を登り、こちらへ向かってくる姿が見える。
「…田中!」
レオの声が響いた。
「レオ?」
ハルは目を瞬かせた。レオが最後の段を登ると、目の前に立った。
「久しぶりだな。ここで会うとは」
その姿を見て、ウミは言葉を失った。
「(近くで見ると…やっぱりカッコいい…だから女子たちが騒いでるのね)
…(でもそれより、ハルと知り合いだったなんて)」
「弟の応援に来たの」
ハルは自然体で答えた。
「ユキ・タナカ」
「ユキが弟? どうりで似てると思ったよ」
「よく言われる」
ハルが少し照れくさそうにうつむいた時、ふと気づいた。
「でも…なんでユニフォーム着てないの? 試合に出ないの?」
レオはフィールドに視線を向ける。
「まだその時じゃない。今は出るべきじゃないと思ってる」
ハルは少しの間彼を見つめ…声を落とした。
「…変わったね」
「え? 今、何か言った?」
「…ううん、なんでもない」
彼女は慌てて目をそらした。
レオは優しく微笑んだ。
「隣、座っていい? 他の席探すの面倒でさ」
「もちろん」
ハルは即答した。
レオはそのまま隣に腰を下ろす。ベンチが軽く軋んだ。
「…いつ戻ってくるの?」
ハルが問いかけた。視線は向けないまま。
レオは少し間をおき、答えた。
「さあ…たぶん、戻らないかもな」
ウミはその言葉に胸がざわついた。
「(…何、この空気? 緊張感がすごい…)」
「…そうなんだ」
ハルは小さく呟いた。
「(うん、間違いない。私は今、完全に空気だ)」
ウミは目を伏せた。
その時、風のように軽やかな声がその場を救った。
「キャプテン!」
レオが振り返る。
「…エミ?」
人ごみをかき分けて走ってきたのは、エミだった。
「ユウジロウが呼んでたよ。
『キャプテンの号令がないと始まらない』って」
エミの視線がウミに向く。
「…なんでそんな顔してんの?」
「え? な、なんでもないわよ…」
「ふ〜ん」
エミは肩をすくめる。
レオは立ち上がり、大きく伸びをした。
「行くか」
二人はそのままベンチを離れ、ロッカールームへと向かっていく。
その背中を、ウミはじっと見つめていた。
「(…ありがとう、エミ。救われた)」
スタジアムのスピーカーが響き渡り、実況の声が高らかに会場を包んだ。
「皆さん、ようこそお越しくださいました! 本日、ここ渋谷F.A.スタジアムでは、全国王者であるホームチームと、東京第二部リーグの新星・クロイカゲとの激突が行われます!」
観客席から大きな歓声が湧き起こる。
ハルは顔を上げ、ウミは胸の高鳴りに気づいて拳を握りしめた。
「そして、あの“フィールドの魔術師”――レオ・イガラシ選手が所属しているクロイカゲですが、
本日は試合に出場しないようです」
ピッチでは、エミがゴクリと唾をのみ込み、心の中で呟く。
「…全国王者か。ますます面白くなってきたな」
「それでは、先にアウェイチーム・クロイカゲのスタメンを紹介します!」
巨大ビジョンに、選手たちの顔が順に映し出される。
「ゴールキーパー、背番号1番:フジモト・ケント!」
「右サイドバック、2番:タナグチ・ジロウ!」
「右センターバック、4番:フジエキロ・アキラ!」
「左センターバック、22番:アキラ・ユウジロウ!」
「左サイドバック、5番:ヤマモト・レン!」
「ボランチ、14番:ナカノ・ヒカル!」
「右オフェンシブMF、18番:スズキ・リン!」
「左オフェンシブMF、8番:サトウ・タツヤ!」
「右ウイング、7番:アベ・リョウ!」
「左ウイング、11番:タナカ・ユキ!」
「そして、ストライカー、20番:アマリ・カイ!」
観客席の上段では、ケイスケが腕を組みながらその様子を静かに見つめていた。
その目は鋭く、全体の構成を見極めている。
「…ツーシャドーか。やるな、レオ」
「続いて、ホームチーム・渋谷F.A.のスタメンです!」
会場のボルテージが一気に跳ね上がる。
「ゴールキーパー、背番号12:ヤマグチ・ショウタ!」
「右サイドバック、2番:サカモト・カズキ!」
「右センターバック、4番:ホンダ・ユキヒロ!」
「左センターバック、5番:タカハシ・ヤスケ!」
「左サイドバック、3番:タケヒロ・タケフサ!」
「右ミッドフィルダー、10番:フジタ・ケント!」
「左ミッドフィルダー、そしてキャプテン、背番号30番:あの悪魔――ナカムラ・ケイスケ!」
「左ウイング、7番:ケント・ロナウド!」
「右ウイング、11番:クロイ・ソラ!」
「右フォワード、9番:サカモト・カズキ!」
「左フォワード、19番:シンカイ・ハマル!」
両チームの選手たちが中央に集まる。
ユウジロウは堂々と歩み寄り、キャプテンの前に立つ。
ケイスケは落ち着いた様子で、その視線には一切の揺らぎがない。
「うちのキャプテンが、お前の気持ちを弄んで悪かったな」
ユウジロウは皮肉まじりに言う。
「気にするな」
ケイスケは片眉を上げた。
「昔から、あいつはそういう奴さ」
審判が二人に歩み寄り、コイントスの準備をする。
「表か裏か?」
「裏で」
ユウジロウが即答する。
「じゃあ、俺は表」
コインが空中で回転し、全員がその軌道を見守った。
やがて、それは審判の掌に落ちた。
「…裏だな」
ユウジロウは頷く。
「では、こちらのキックオフで」
「なら俺たちは、このサイドを使わせてもらう」
ケイスケの声は低く、だがはっきりとしていた。
審判が二人を見渡しながら、静かに告げた。
「フェアな試合を願います。心から楽しんでください」
両キャプテンは手を差し出し、固く握手を交わす。
「健闘を」
二人は同時に言った。
――その握手が交わされた瞬間、ただの一試合ではない「何か」が、幕を開けた。
主審がホイッスルを口に運ぶ。
キィィ――ッ!
「キックオフだああっ!」
実況の声がスタジアムに響く。
「クロイカゲ、センターからスタート!」
ボールは後方へパスされ、すぐにユウジロウの足元へ。
彼は視線を上げて前方を確認する。
観客席からレオが目を細めて見つめていた。
「やっぱりな、ケイスケ…本気じゃないつもりか」
相手の布陣を分析しながら呟く。
「ほとんどの主力を外している。ベンチか、それとも遠征にも連れてきてない。
残ってるのは…あいつ一人だけか」
――回想が走る。
「…なんだって?」
数日前、驚いた顔でユウジロウが問い返す。
「恐らく…渋谷はBチーム、いやCチームで来る」
レオの声は静かだった。
「…俺たちを、そこまで舐めてるのか?」
「まあ、当然だ。主力メンバーは北海道の大会に出てたばかりだ。
体を休める必要がある」
「でも、一人だけ…そんな理由じゃ止まらない奴がいる」
「ケイスケ…か?」
「その通り。あいつのプライドが、試合を軽く見ることを許さない」
「くそっ…じゃあ、どうするんだよ?」
「勝ち筋はある」
「どうやって…?」
その言葉が消えると同時に、ユウジロウのスパイクが芝を蹴る。
「――ショートカウンターだ!」
彼は迷わず左サイドへとロングパスを送る。
そのボールは一直線に、鋭く美しく飛んだ。
「…やはり、恐ろしい男だな、レオ」
ピッチ中央から、ケイスケが内心で呟く。表情は一切変えない。
左サイドで、ユキ・タナカがパスを左足で完璧にトラップ。
目前には、カズキ・サカモト。低い体勢、鋭い目つき。
「ここは通さない」
カズキの言葉に対し、ユキは無言。
そして――一瞬のフェイント。わずかに傾けた身体。
そのまま内側へ切り込む!
「11番、見事なドリブルだぁっ!」
実況が絶叫する。
「エリア内に突入だ! 速い! 速すぎる!」
だが、カズキも黙っていない。瞬時に反応し、またも目の前に立ちはだかる。
「速いが…このボールはもう、俺のものじゃない」
ユキの足元が、静かに後方へと動いた。
バックスルーパス。カズキは反応できない。
「下がれ!」
中央から、ケイスケの重い声が飛ぶ。だが――
遅かった。
ボールはエリアのすぐ外へ。そこにいたのは、20番・カイ・アマリ。
「完璧だ…」
彼は一切の迷いなく、右足を振り抜く。
「…なにっ?!」
ゴールキーパー、ショウタは驚愕する。
「あの距離で…撃つのか?!」
弾道は――低く、速く、そして鋭く。
ズドン――!
ボールはゴール右上の角、バーとポストの交点に突き刺さった。
動けなかった。GKはただ、見送ることしかできなかった。
スタジアムが揺れる。
「ゴォォォォォォォォルッ!!!」
実況の声が爆発する。
「クロイカゲ20番・カイ・アマリ! エリア外からのミサイルシュート! ゴール右上へ突き刺さるッ! 止められないッ!」
歓喜がスタンドを包む。
カイは拳を握りしめ、胸いっぱいに叫ぶ。
仲間たちが駆け寄り、肩を組み、飛び跳ねながら喜びを分かち合う。
そしてベンチ近く――
レオは小さく、しかし確かに微笑んだ。
まるで、計画の第一幕が見事に成功したかのように。
ケイスケはピッチ中央で余裕の笑みを浮かべていた。
「悪くないよ、レオ…いい選手たちだ」
その声は落ち着いていて、威張った様子は一切ない。
「でも、俺のほうが、もっと上だ」
タッチライン際、エミが拳を強く握る。
(驚く人もいるだろうけど…これは偶然なんかじゃない)
(カイは毎日…誰もいないフィールドで、何度もあの位置からシュートを打ち続ける。百本決まるまで帰らないんだ)
目に光が宿る。
(――勝てる。俺たちなら)
観客席、レオは腕を組んだままフィールドを見つめていた。
その横でハルがそっと声をかける。
「…なんか、嬉しそうじゃないね。どうかした?」
「…いや、何でもないさ」
レオは微かに首を振った。
「ただ――試合は、これからだ」
その言葉に、後ろのウミがゾクリと震える。
(…どういう意味?)
一方、ゴールを許したGKショウタは、うつむき加減で呟いた。
「すまない…あんなシュート、想定外だった。もう…あいつには撃たせない」
その肩を、センターバックのユキヒロが軽く叩いた。
「十分だよ。もうお前の仕事は終わった。あとは俺たちに任せろ」
「…ああ」
「キャプテン」
左サイドのロナウド・ケントが声を上げる。
「そろそろいいか?」
ケイスケは無表情のまま頷く。
「全力で行け」
「了解」
再びスタジアムが騒がしくなる。
「なんという試合展開だぁっ!」
実況の声が炸裂する。
「クロイカゲ、開始早々にカイ・アマリのミサイルシュートで先制! まさにサプライズ!」
主審が笛を吹く。
キックオフ。
今度は渋谷F.A.の番だ。
中央へとショートパス。ケイスケが受け取り、視線を上げる。
すかさず、クロイカゲの前線3人が高い位置からプレッシャーに入る。
「――甘いな」
ケイスケが低く呟く。
その瞬間。
たった一歩で3人をスルリと抜き去る。まるで、訓練用のコーンのように。
「な、なんだこいつ…!」
後方からユウジロウが驚愕の声を上げる。
「ケイスケ、まったくの無傷で第一ラインを突破ーっ!」
実況のテンションが跳ね上がる。
「そのまま一人で突き進むぅっ!」
中盤が進路を塞ごうとする――が、無駄だった。
力強いフィジカル、極小のドリブル、そして恐ろしいほど正確なボールコントロール。
次々に倒れるミッドフィルダーたち。
「こ、これは人間技じゃないぃっ!」
「ケイスケ、たった一人で中盤を壊滅させたぁっ! だが、待て…! 渋谷の選手たちは誰も動いていない! これは…完全に“単独突破”だぁっ!」
「くそっ…」
ユウジロウが歯を食いしばる。
どこを見ても、渋谷の選手たちは静観している。まるで、何も心配していないかのように。
「つまらないな…」
そう呟くと同時に、ケイスケは右足を振り抜く。
低く、速く、鋭く――
まるで刃のように、ディフェンスラインを切り裂くシュート。
GKショウタは、動けなかった。反応すらできなかった。
ネットが揺れる。
「ゴォォォォォォル!!!」
「悪魔・ケイスケ・ナカムラの一撃だぁっ! 異次元のゴール! 一人で全てを粉砕し、電光石火で同点に追いついたあぁあっ!」
ベンチのエミが呆然と呟く。
(ありえない…たった一人で…うちの全員を破壊した。こいつ…何者なんだ…?)
観客席で、レオが目を細めて息を漏らす。
「…やはり、悪魔だよ、お前は」
ケイスケがクロイカゲのベンチに視線を投げる。
「早く出てこいよ、レオ。そうじゃなきゃ…プレーオフにすら届かないぞ」
――悪夢は、始まったばかりだった。
時間が進むごとに、ゴールが次々と降り注ぐ。
1点…2点…3点…
ついには、10点目。
攻撃は正確無比。パスは完璧。
渋谷F.A.は汗もかかず、淡々と、次元の違いを見せつけていた。
主審のホイッスルが鳴る。
前半終了。
「前半終了ぉっ! なんという前半戦だ! 現・全国王者が10点を叩き出し、クロイカゲを粉砕ッ!」
カメラが映す、クロイカゲの選手たち。
息を切らし、膝に手をつき、座り込む者も。誰も言葉を発せず、ただ沈黙する。
その横で、渋谷の選手たちは…立ったまま、涼しい顔。
息は整い、表情には疲れもない。
エミは手で顔を覆った。
「こんなの…無理だ…」
デジタルスコアボードに表示された数字が、痛々しい現実を突きつける。
Shibuya F.A:10 | Kuroi Kage:1
ハーフタイムの笛がまだ響く中、ユウジロウはうつむいた。汗が額を流れ落ちる。息は乱れ、胸が苦しい。
だが、その目はピッチの芝を見つめながら、別の景色を見ていた。
(あの一点以降…俺たちは、ボールすら触れてない)
思い出す、渋谷F.A.のパス回し。
速い、正確、無駄がない。まるで違うスポーツをしているかのよう。
(プレスをかけても、スペースを切っても…意味がなかった。
常に、誰かがフリーだった。いつも、奴らが先だった)
(…レオ。本気で、あいつらに勝てると思ったのか?)
顔を上げる。
渋谷の選手たちは、平然とトンネルへ向かって歩いていた。
誰も苦しそうな顔をしていない。笑いながらストレッチしている者もいる。
…ただ一人、ケイスケだけは笑わなかった。
常に無表情のまま、先頭を歩いていく。10得点など、義務でしかないかのように。
ユウジロウは拳を握り締める。
(これはただの敗北じゃない…屈辱だ)
隣で、カイが荒い息を吐く。
リンは芝の上に倒れ込んでいた。
タツヤも、シャツを絞れば汗が滴るほど濡れていた。
彼らにとって、この45分は…まるで百分間の地獄だった。
ユウジロウは奥歯を噛み締める。
(俺たちは、誰かのおもちゃになるためにここまで来たんじゃない…!)
…それでも、分かっていた。
あのケイスケは――もはや、人間ではなかった。
あの渋谷は、ただのチームじゃない。
「怪物」だった。