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魔法開化

第1話 地下の世界

 暗闇に閉ざされた世界を見回してジェードルはため息を吐いた。その間が捉える世界は動いているはずなのに変化が一向に見受けられない。

「いつになったら明るくなるんだ」

 この暗闇の時間がこの上なく嫌いだった。ごくごく普通の明るみは蓋の上、底に沈められた気分はただ認識を得るだけで息苦しさを感じてしまう。

 ベルトに引っ掛けている無線機がノイズ混じりの曖昧な音で成す通信を拾い上げている。

「ゲートを突破して侵入したのはクラゲのみ、数は十二、至急討伐せよ」

「電力システムはダウンしている、カンテラか斧を頼るように」

 世界は破滅の危機に陥った。それが十五年もの時の向こうの事だと語られる現在。ジェードルにはそれ程昔の記憶など残されていなかった。二十もの歳を重ねても尚、大人になれたという実感は得られない。ドアの向こうのソファで寝ている老医師のような大人になれたとは到底思えない。

「マルクみたいな男になりたいよな」

 ジェードルにはマルクが男としての見本の全てだった。生みの親が過去の像として脳に残されていない。生きているのか死んでいるのか何一つ関係ない。接点の一つも無く何処にも手掛かりすらないなど既に死んでいるも同然。もしかすると肉親の誰もがジェードルの死を未だに悼んでいるのかも知れない。

――人間とは弱い生き物。一度受けた傷みはいつまでも痛みとなって残され、ふとしたきっかけで痕跡を抉られる

 学校で誰かが言っていた言葉はジェードルの心に焼き付いてはいるものの、何一つ実感が湧かない。マルク医師の身に危機が訪れた時には知ることが出来るのだろうか。

「想像するだけで寒気がするな」

 ジェードルは蒼黒い刃が取り付けられた斧を構えて歩き始める。忍び足、蒼黒い金属が放つ微かな輝きが電灯の代わり。頼りない視界を補う感覚が大きな揺れに心臓の鐘をけたたましく鳴らす。

「下手な感情を抱くな」

 一歩進んではもう一度、見回す事で更に復唱された言葉は意識を向けるまでも無く出て来るもの。脳の髄が底から告げる危機の予感に対して平常心を保ちながら進んで行く。

「不要な感情は身を滅ぼす」

 マルク医師の言葉、絶望に陥れられた世界の中で生きて行くための術。振動が襲って来る方向を見定めてジェードルは慎重に足を進めた。

 突然それは響いた。角を曲がって伝わる音はジェードルの耳へと瞬く間に入って来る。繰り返し響く音を追うべく引き続き忍び足での歩みを進め、恐る恐る角を曲がる。

 角の向こうを覗き込むと蒼黒い軌跡と透き通る硬質な深い青の頭を持つクラゲの姿を目にして固唾を飲んだ。

 クラゲが相手に向かって触手を伸ばそうとしたその時、ジェードルは勢いよく駆け出した。

「平和の土壌を穢す者に裁きを」

 ジェードルが低く構えた斧は腰辺りで薄っすらと輝きを放ち、殺意を尖らせた。そのままクラゲの触手へと向かって怒りをぶつけるように振り下ろし、触手の半分ほどが断ち切られた様を、残りの幾らかが抉れるように砕かれる様を見届ける。

「どんなものだ」

 態度とは裏腹にマルク医師の言葉が自信を削り取って歪な彫刻へと仕立て上げていた。不要な感情を抱かずに的確な角度と力を振り絞れば触手を裁ち、この絶望のワンシーンを断つ事が出来ただろう。

 傷だらけの触手は深い青の液体を滲み出しながら男のわき腹を刺していた。男の短い悲鳴が何度も反響を繰り返し、ジェードルの責任を言葉なく問い詰める。

 ジェードルは目を見開きながら斧を振りかざし、クラゲの頭を叩いた。何度も繰り返し、何度も何度も繰り返し、力のまま、感情に支配されたまま。薄っすらと白んで行く姿はヒビが生えたがためだろう。ジェードルが取るべき感情にも既にヒビが入ってしまっていた。

 やがて動きを止めたクラゲを見つめ、虚しさに憑りつかれながら男を背負う。

「俺は大丈夫だ。ありがとう」

 言葉は飾りに過ぎない。斧を二つと男を一人、重々しさはどれが最も大きなものだろう。明らかに男。身体の重さが語っていた。

――でも、それだけだろうか

 角を曲がり、少しずつ歩いて行く。落ち着かない心は理想には届かない。悔やんでいる暇もなければ自責に捕らわれる余裕もない。

 感情に塗れながら進んで行く中、通路を音も無く進むクラゲの姿が瞳に届いた。

「また」

 男と片方の斧を下ろしてクラゲと向かい合い斧を構える。施設の中にまで入り込んだクラゲの数は果たしてどれ程だろう。壁にもたれるように座っている負傷者は弱り果てた声に力を込めて天井を睨み付けている。

「ゲートの管理を怠った奴らを恨むぞ」

 ジェードルの脚は風を拾い上げる勢いで駆け始め、斧はすぐさまクラゲの触手を叩く。大空を舞う海洋生物を模した鉱物生命体は幾つかの種類が確認されており、実地での戦闘を用いて分析を進めていた。その中でも最も数が多いとされているクラゲは硬質な頭を割る事で物質のバランスを乱し生命維持が不能となる他、軟質な触手を切る事で敵対行為の実行を不可能とする。

 クラゲの触手を叩いた刃はしかし、軟性に負けて力を撒かれてしまった。

「マルク医師」

 感情のままに動いてしまった結末がいち早く示された。無駄な力や回数を経て硬質な物質同士のぶつかり合いによって刃が微かに潰れてしまって断ち切ることが出来ない。

「くそ」

 吐き捨てても無駄、感情に支配されますます霧に迷うように散っていく判断力は取り戻す術を見失って何度も打ち続けるも断ち切る事はおろか傷一つ付けることが出来ない。

 クラゲが触手を勢い任せに放つ。ジェードルは己の身体を横薙ぎに払うように飛び退き躱すものの、触手は曲がって追い続ける。

 地に左手を着き、右手に持っていた斧を投げようと力を込める。その手を離れた斧は宙を回るどころか滑るように落下を始める。

 クラゲが伸ばす触手は気配に触れたのか、斧を刺し、包み込み始める。

「どうすりゃいいんだ」

 焦りに脳を焼かれて思考すらおぼつかないジェードルの耳に流れ込んで来る音。振り返った先には地面に横たわって咳き込みながら腕を伸ばす負傷者の姿。何を告げようとしているのか判断も付かない男が伸ばしている腕の先、更にその先まで伸びた指が示すところには転がっている斧の姿。

 ジェードルは蒼黒い輝きを放つ刃の方へと飛び込み斧をつかみ取って構えを取る。

――こっちは潰れていない

 理解が先か行動が先か、気が付けばジェードルは駆け出していた。目の先にて動くことなく浮遊を続けるクラゲの姿が大きくなっていく、否、近付いている。透き通る柔らかな触手は刃の潰れた斧を取り込んでいるのか、蒼黒い金属が溶けた絵の具のような模様を描きながら広がっていく。

 ジェードルはクラゲを真っ直ぐにらみつけ、斧を勢いよく振り下ろす。一点を狙うように、角度をずらすことなく与えた一撃。

 クラゲの頭に入ったヒビを見つめて肩で息を繰り返す。疲労感が一気に増したような気がして身動きを取る事すら億劫。

 クラゲの方もまた何も出来ずに動くことなく打たれるまま。抵抗する手段を失ってしまったのだろうか、取り戻す事が出来ないのだろうか。そのまま地面に落ちて、ヒビが広がっている。

 ジェードルは額に髪を張り付ける大粒の汗たちを袖で拭い負傷者の腕を取りそのまま起こす。その時合わせた負傷者の目は見開かれ、収まる瞳は震えを起こして焦点を見定められないまま。

 負傷者の視線を追って目にした光景はジェードルの表情を同じ色に染めてしまう。

 お揃いの感情を抱かせるそれは、新たなクラゲとの遭遇だった。

 薄っすらと輝きを放ちながら優雅に進むクラゲの姿は暗闇と相まって幻想的な絵画のよう、神秘的な彫刻のよう。しかし、このまま訪れるのは無慈悲な現実に過ぎない。

 負傷者を下ろし、再び斧を構えようとしたその時、斧に衝撃が走った。手を離れて金属を撃ち合う音と共にジェードルに現状を伝えていく。地面へと捨て去られてしまった斧は絶望の証となってしまっていた。

 迫り来るクラゲ、斧は触手のカーテンに撫でられてジェードルの手元には返って来ないのだとすすり泣いている。次こそは終わってしまう。諦めにも似た心境が取った行動は後ずさり。クラゲを凝視したまま一歩摺り足で下がり、もう一歩下がり。

 硬質な傘と持ち上がる触手はジェードルの口を震わせ恐怖を捻り出す。

――次こそはもう

 クラゲが触手に力を込めて震え始めたその時、クラゲの頭が大きく揺れて傾いた。同時に響いた金属音は希望を観ろと時報を告げているのか。

「無事か」

 手短な言葉を操る野太い声は紛れもなく人間のもの。手にしている斧は再び大きく振られてクラゲの頭にヒビの模様を、命の終焉を飾り付けた。

「ありがとう、助かった」

 メンバーは二人だけではない。ここは地下都市の研究及び軍の養成施設。都市の全勢力が収められたこの場所であるなら数の利がある。

「早く軍医に持ってけ、お前を育てた医師にな」

 返事を投げつける勢いで言葉にして負傷者を拾い上げて再び歩き出す。金属の床を踏みしめる足。革と毛に覆われた靴の感触は頼りなく、振動と足の痛みが重なり合って、背負っている体と命の重みが肺に圧をかける。

 歩みの一つが命を削っている感覚を度々焼き付けて来る。瞳の中で揺れる蒼黒い輝きが影となり視界を覆う。

 幾つかのドアを通り過ぎ、見覚えのある番号が記されたドアを遠目に見る。クラゲを倒すために進んで来た道は短かったはずが帰りの道はあまりにも遠く感じられる。

――まるで別の道みたいだ

 既知のはずが未知の道。それを辿りドアを開いて足を引きずりながらマルク医師の方へと歩み寄り、負傷者を白いベッドに寝かせる。

「負傷者一名確認」

 消毒液とガーゼと包帯を取り出したしわがれた手は慣れた動きで手当てを始める。刻まれた皴は経験の傷跡だろうか。

「感情に流されるな、感情に支配されるな」

 念じるように告げた後、滞りなく手当を進めて負傷者の男の途切れ途切れの叫びを耳にして。

 ジェードルは痛みを聞く度にケガなどしたくないと心に刻み込む。

「よし、終わりだ」

 マルク医師の言葉に安心を抱きながらジェードルは立ち上がるも、マルク医師は無線を突き出し再生履歴から一つの項目を選び出す。

「侵入したクラゲ十二体の内、十体の討伐確認、残りも急ぎます」

「今回はじっとしていなさい」

 マルク医師の言葉に無言で頷いてジェードルは再び粗末な椅子に腰掛け盛大なため息を吐いた。

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