フローリアの葬儀後、ルイーズとヴィオレッタは当然のように本邸に移り住んだ。ジョルジュはルイーズの要望どおり、フローリアが使っていた正妻の部屋を与え、カメリアよりも広い部屋が欲しいというヴィオレッタのために部屋を2つ繋げる工事まで行い、新しい家具や調度品を買いそろえた。
赤い首輪をつけた黒猫を腕に抱いたカメリアが、日差しが差し込む廊下を歩いていると、奥のヴィオレッタの部屋から、ルイーズとヴィオレッタの高笑いが聞こえてきた。
「本邸も賑やかになったものね」
黒猫は大きな欠伸をして、腕の中で片方の前足をピーンと伸ばした。
「元野良にしては人馴れしすぎじゃないかしら」
目を閉じて喉を鳴らす黒猫は警戒心の欠片もない。ところが、ガチャッと音がしたと同時に黒猫は耳をピンと立てて音のした廊下の奥へ顔を向けた。ヴィオレッタの部屋のドアが開き、笑い声を上げながらルイーズとヴィオレッタが廊下に出てきた。カメリアが2人に目もくれず横を通り過ぎようとした時、ヴィオレッタがカメリアを呼び止めた。
「お姉様、ちょうどよかったわ」
カメリアは足を止め、ヴィオレッタを振り返り、首を傾げた。
「初対面の方にお姉様と呼ばれるなんて思ってもみなかったわ」
「そういえばお話しするのは初めてだったわね。いつも部屋に隠れておひとりでいらっしゃったから」
にやりとほくそ笑むヴィオレッタの一歩前に出てきたルイーズが顔の前で扇子を広げ、カメリアに鋭い眼差しを向けた。黒猫がルイーズの方に身を乗り出し、スンスンと鼻をひくつかせる。ルイーズは黒猫を見て眉を寄せた。
「薄汚い猫がお似合いね。カメリア、あなたについていたハイランクの教師陣は、これからヴィオレッタにつくことになったわ。あなたへの教育は終わり。これからは厳しいレッスンも食事制限もしなくていいのよ。ああ、羨ましいわねえ、ヴィオレッタ。忙しいあなたと違って、カメリアはとっても暇になるそうよ」
「気楽でいいわねえ」
くすくすと笑い合うルイーズとヴィオレッタに、カメリアは口角を上げて、フローリアに仕込まれた完璧令嬢の美しい微笑を浮かべた。
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ。ハイランク教師のレッスンを甘く見てはいけないわよ」
言葉を失ってカメリアを凝視しているルイーズとヴィオレッタの横を、カメリアは颯爽と通り過ぎていった。
ルイーズの言ったようにカメリアのレッスンも、食事制限もなくなり、1日のスケジュールが空白の日々が続き、カメリアは生まれて初めて自分の意志で本を読み、庭園でティータイムを過ごし、街に出かけてショッピングを楽しんだ。夢にまで見た自由な時間を過ごし、完璧令嬢としての仮面がはがれ、満ち足りた表情を浮かべるカメリアを傍で見ていたニーナは、カメリアが笑顔になるたびに涙を流して喜んだ。
「カメリアお嬢様のこんな笑顔を見られる日が来るとは。生きていてよかったです」
涙ぐみながら部屋で紅茶を入れるニーナに、カメリアはふっと笑みをこぼした。
「自由は素晴らしいものね。誰もいない島に行ってそこで暮らしたいわ」
「いいですね。私もお供します」
「ミャ~オ」
膝の上で丸くなっていた黒猫が相槌を打つように鳴いた。
「あら、あなたもついてきてくれるの?」
カメリアが背中を撫でると、目を閉じてまた丸くなった。
「ホワイトリバー侯爵令嬢はヴィオレッタがいるのだから、私が出て行っても問題ないわよね。このまま本当に家を出てもいいんじゃないかしら」
カメリアは、小さな島の浜辺にあるパラソルの下でニーナに紅茶をいれてもらいながら、膝の上の黒猫を撫でている自分を思い浮かべた。
コンコン。
ノックの音で現実に戻されたカメリアは、ドアに目を向けた。ニーナが開けると、使用人が頭を下げたまま用件を伝えた。
「カメリアお嬢様、旦那様がお呼びです。執務室へお越しください」
カメリアはすっと表情をなくし、黒猫を床に下ろして呟いた。
「何の用かしら。私には一切関心がないと思っていたのだけど」
重厚なダークブラウンの扉をノックし、カメリアが扉を開けて執務室に入ると、正面のデスクに座っているジョルジュだけでなく、中央のソファーにルイーズとヴィオレッタが横並びに座っていた。カメリアがソファーの前に立つと、ジョルジュは腕組をして椅子の背もたれに寄りかかった。
「アトレス公爵家から婚約が申し込まれた」
「まあ、公爵家!」
「お父様、もしかして美男子で有名なライル・アトレス様から?」
「そうだ」
頬を紅潮させて興奮するヴィオレッタとは対照的に、ジョルジュは苦々しい表情をしている。
「ジョルジュ様、ヴィオレッタが婚約するのですよね?」
ルイーズに期待の眼差しを向けられたジョルジュは、言い難そうに口を開いた。
「いや、求婚されたのはヴィオレッタではなく、カメリアだ」
無表情のままジョルジュを見つめるカメリアだが、体の前で組んだ手に力が込められる。
「ちょっと待ってください、どうして」
「そうよ、お父様! 私レッスンすっごく頑張ってるんだから! あの人たち、何でこんな簡単なこともできないんだってすぐ怒るし、お姉様の方がもっとできたって比べることばかりで、誰もほめてくれないわ。正当なホワイトリバー侯爵の血筋じゃないって責められてるみたいで、辛いの。もうやめたい!」
目の端に涙をためて唇を尖らせるヴィオレッタの肩を抱いたルイーズは、カメリアを睨みつけた。
「そのことに関しては後で教師陣と話すことにしよう。婚約の事だが、アトレス公爵家とは、今後の事業拡大のためにも友好な関係を築く必要がある。ヴィオレッタも申し分ないが、先方がカメリアとの婚約を望んでいるのだ。致し方あるまい。ヴィオレッタにはもっと良い縁を見つけてやるから、もう泣くな」
カメリアが聞いたことのない温和な声音でヴィオレッタに話すジョルジュに、カメリアは心底不快な思いが込み上げて息苦しくなった。
「フローリアはお前を皇族に嫁がせようとしていたが、あれが死んだことでチャンスは流れた。だが、せっかく金も時間もかけてお前を育ててきたのだ。恩を返してもらわないとな。家のために役目を果たせ、いいな」
恩? 役目? そんなものどうっていいわ。完璧な令嬢を求めてきたのはお母様よ。事業を拡大したいのはお父様じゃない。今までひとつも関心を示さなかったのに、自分の思うままに私を駒のように使うなんて!
カメリアの頭の中に自分自身の怒声が響き渡る。この際、思っていることを全て吐き出してしまおうかと口を開こうとした時、ジョルジュが席から立ち上がってカメリアの方へ一歩一歩近付いてきた。爪先から頭の先まで値踏みするように見た後、舌なめずりをしてカメリアの顎をぐいと持ち上げた。
「お前になびかない男はいないだろうな。完璧主義で嫉妬深いフローリアが育てただけはある」
「離してください」
不快感を覚えたカメリアは咄嗟にジョルジュの手を払った。
「この、親の手を叩くとは、躾がなっておらん!」
カメリアは、気づいたら床に倒れこんでいた。右頬がじんじんと痛み、頬に手を添える。ジョルジュの後ろからルイーズとヴィオレッタが覗き込み、ニヤニヤと笑みを浮かべている。「頬の腫れがひくまで部屋で大人しくしていろ」
カメリアは歯を食いしばり、さっと立ち上がると執務室を後にした。
部屋に戻ったカメリアは、全身鏡の前で赤く腫れあがった右頬を睨みつける。
叩かれたのは初めてだった。フローリアも教師陣も言葉は厳しかったが、しつけと称して顔も体も傷つけられたことはない。初めて受ける屈辱に、カメリアの心はマグマのように煮えたぎり、感情のままに目につくものを手あたり次第投げ散らかした。枕を布団に叩きつけ、椅子をローテーブルの上に振り下ろす。花瓶を手に取ると全身鏡めがけて放り投げ、花瓶も鏡も割れ、水がベッドや絨毯に飛び散って染みを作っていく。ひびの入った鏡には、髪を振り乱し、肩で荒い息をして悪魔のような形相のカメリアが映っている。
お母様から解放されて自由になれたと思っていたのに。
ホワイトリバー侯爵令嬢である限り、首輪のつけられたペットと同じ。自由なんてどこにもない。
カメリアの顎を持ち上げて舌なめずりをするジョルジュを思い出し、虫唾が走る。
私自身の価値なんて何もない。生まれながらに与えられた侯爵令嬢の肩書と、この顔だけ。
チャリッ。
足元で割れた鏡の破片が小さな音を立てる。カメリアは先の尖った破片を指でつまみ、じっと見つめる。
「そうよ、この顔に傷が付けば、顔の価値はなくなって婚約破棄されるはず」
破片を持ったまま全身鏡の目の前に立つ。
これが今私にできるささやかな抵抗。
こんなことしかできないなんて情けない。
自由になれるわけではないけど、少なくとも縁談は来なくなるはず。
「私の未来を決めるのは、私自身よ」
鋭利な破片の先端が頬にぷつっとささり、血がつーと流れていく。
痛みに顔をしかめながらも、顎に向かって破片をもつ手をすっと動かした。