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第5話

鋭い破片の先端が頬を切り裂き、頬骨から顎まで一直線の血の筋ができる。

はずだった。

カメリアの腕はどこからともなく現れた男に背後から捕まれ、破片を床に取り落とした。


「悪いのはおまえじゃない。おまえ意外のやつらだ」


男は落ち着いた低い声で囁くと、顔をカメリアに近づけて、舌の先端で頰にできた傷舐めた。


「何を!」


男の手を振りほどいたカメリアは距離を取って舐められた頰に手を当てた。


「治してやっただけだ」


カメリアが指で頰を触るが痛みはなく、指に血もついていなかった。


「あなた誰? どこから入ってきたの?」


黒のローブに身を包んだ男は、口許をニヤッと両側に開き、真っ赤な瞳を細めて不適な笑みを浮かべた。


「悪魔だ」


カメリアは形の良い眉を寄せて不振な目を向けた。


「悪魔? ふざけないで。あなた、もしかして頭のおかしな強盗?」


男は両手のひらを上に向けてをすくめる。


「信じてくれないのか。悲しいねえ。でも、これ何か分かるだろ?」


男はカメリアの目の前にさっと移動し、首元の赤い首輪を見せる。


「それ、あの子にあげたものと同じじゃない。何であなたが首にしてるのよ」


「だから、こういうこと」


男の姿が黒いもやに包まれていく。すぐにもやが晴れると、男が立っていた場所に赤い首輪をつけた黒猫がちょこんと座っていた。


「おまえの可愛い黒猫ちゃん。ミャーオ」


息を呑んで驚くカメリアをあざ笑うように一声鳴くと、黒猫がもやに包まれ、瞬時に男の姿に変わった。


「ほら、これでわかっただろう? こんなこと普通の人間にはできないんじゃないか?」


カメリアは目を見開き、後ずさる。


「本当に、悪魔だっていうの?」


男は一歩、一歩、詰め寄り、カメリアは壁際に追いやられ、背中が壁につき、ビクッと肩を震わせる。


「ああ。本当さ。俺がお前の願いを叶えてやるよ」


カメリアの頭の上から壁に腕をつけ、赤い瞳で見下ろす。カメリアは歯を食いしばり、男を睨みつけた。


「悪魔なんかに叶えてもら必要はなくってよ。自分の願いは自分で何とかするわ」


「簡単にはなびかないか。あがいてみるがいい。俺はいつでもお前に力を貸してやる」


男はカメリアの細い顎を持ち上げ、鋭い八重歯を覗かせてほくそ笑んだ。



白いパンツに黒のジャケットの乗馬服を身に着け、ブロンドの長髪を高い位置でひとつに結んだカメリアは、玄関前で真っ白の毛が特徴的な愛馬に跨った。


「お嬢様、どちらに行かれるのですか?」


心配そうな表情を浮かべるニーナに、カメリアは無表情で答えた。


「アトレス公爵家よ。ライル様に会って婚約を断りに行くの」


「そ、それは、旦那様がお怒りになるのでは?」


「怒りすぎて高血圧で倒れたらいいのにね」


「カメリアお嬢様!」


口許を両手で覆って目を見開くニーナ。


「行ってくるわね。はっ!」


手綱を振り下ろすと、白馬は嘶き、駆けだす。後ろからニーナの制止する声が聞こえるが、振り向かずに前だけを見て手綱を持つ手に集中した。


カメリアの部屋の窓際に立つ男が、スノーに乗って門を飛び出して行くカメリアを見ながらふっと笑みを漏らし、細長い舌で唇の周りを舐めた。


「絶望の顔で戻ってくるのが楽しみだ」



小高い丘の上にそびえたつアトレス公爵家の門の前で馬を下りたカメリアは、2人の門番に声をかけた。


「ライル様はいらっしゃる?」


「失礼ですが、訪問のお約束は」


「してないわ。求婚されたから返事をしに来ただけよ。すぐに終わるから通してちょうだい」


前に垂れてきたポニーテールをふぁさっと後ろに流す。門番2人はカメリアの美しい容貌に見惚れ、気づいたら門を開いていた。カメリアは白馬を連れて、きれいに整った花々が咲き誇れる庭園を突き進んでいく。玄関扉の前に来ると、ちょうど出かけようとしていたライルが扉から出てきた。高身長で緩いウェーブのかかったブロンドの髪に、目鼻がくっきりとした整った顔立ちをしている。カメリアは、フローリアが生きていた頃、連れまわされたパーティーで見かけたことがあるのを思い出した。ライルの後から黒服を纏った初老の執事が現われ、カメリアへ警戒の眼差しを向けた。


「ライル様でしょうか?」


ライルは驚きながらも嬉しそうな笑みを浮かべてカメリアの前に駆け寄ってきて、お手本のような姿勢で頭を下げてきた。


「カメリア嬢ではないか。思いがけずお会いでき光栄です」


「突然の訪問失礼致します。求婚の件でお伺いしました」


ライルは頭を上げると、目を輝かせてカメリアを見つめた。


「おお、そのことか! もしや自ら返事をしに来てくれたのか? わざわざ来なくとも求婚を受け入れてくれることは分かっていたのに。ああ、そうか。一刻も早く私の婚約者になりたかったのだな。絶世の美女とうたわれるカメリア嬢にここまで慕われるとは。私の美しさはなんて罪深いんだ」


演劇役者のように大げさな身振り手振りで、ひとりで盛り上がるライルに、カメリアは冷たい眼差しを向けた。


「盛大に勘違いされているところ申し訳ないのですが、私は求婚を受け入れに来たのではなく、断りに来たのです」


「は?」


ぱちぱちと瞬きをするライルの背後に執事が立ち、カメリアへ頭を下げた。


「カメリア様、僭越ながら求婚のお返事はお父上の侯爵様を通すのが礼儀かと」


「私への求婚よ。お父様を通す必要はないわ」


「私はカメリア嬢へ求婚状を送った。だが、我々貴族の結婚は家同士の繋がりを強めるためのものだ。私だって直接カメリア嬢に求婚をしたかったが、ようやく父上から許可を得て求婚できたのだ。父上は、断られるはずはないと仰っていたぞ。そもそもお前の家より我がアトレス家の方が爵位は上だぞ。断っていいはずがない」


カメリアは盛大に溜め息をつき、顎を持ち上げてライルを見下ろす。


「私の将来は私が決めます。ホワイトリバー家と家同士の繋がりが欲しいだけなら、ヴィオレッタでもいいではないですか。とにかく、私はこの求婚を受け入れません」


ライルは顔を真っ赤にしてわなわな震え出し、カメリアを睨みつけた。


「何を偉そうに! 美しいのは顔だけか。爵位の低い者が高い者にたてつくとは。しかも女が、アトレス公爵の後継ぎである私に向かって歯向かうとは何事だ! 女は所詮、男を彩る飾りだ。旦那の欲望に応えて、家のために尽くして大人しくしておけばいいのだ。おまえには、拒否権はない。自分で将来を決める自由なんてあるわけないだろう!」


「坊ちゃん、さすがに言いすぎです。カメリア嬢、今日のところはお引き取りを」


怒りで興奮するライルの肩を抑えた執事の手を振り払ったライルは、カメリアへ指を突きつけた。


「女は男の所有物だ。お前は俺の物になって一生この邸で生きるのだ!」


カメリアは拳を握りしめ、唇を血が出るほど噛みしめた。


「私は誰の物でもない。必ず自由を手に入れる」


「何を馬鹿なことを!」


カメリアは白馬に跨り、手綱を握りしめて庭園を滑走し、門の外へ飛び出した。黒雲に覆われていた空から雨が降り出し、次第に雨脚が強くなっていった。


ホワイトリバー邸に着いた時には、カメリアも白馬もびしょぬれで、玄関から慌てて出てきたニーナに驚かれた。ニーナに白馬を頼み、カメリアは服からも髪からもぽたぽたと雫を垂らしながら、部屋へ向かった。


バンッ!


ドアを乱暴に開けると、薄暗い部屋の中でソファーに寝転んでいた男が頭を持ち上げた。


「ずいぶんとひどい恰好で戻ってきたな」


男には目もくれず、カメリアは割れたままの全身鏡の前に立った。ひびの入った鏡に映る青白い顔をした自分の顔をぐしゃぐしゃにしたい衝動にかられた。


「ああぁぁぁぁ!!」


これまで耐えてきたものが堪えきれず、大声で叫び、鏡に拳を打ち付けた。破片で手が切れ、鏡が血だらけになる。


「おいおい、いい加減にしろ」


男がカメリアの腕を掴み、血まみれになった手を見て舌なめずりをした。


「治してやろう」


「やめて! 触らないで!」


カメリアは落ちている鋭い破片を拾い、喉元に当てた。


「自暴自棄か? やめとけって。何があったんだよ。酷いことでも言われたか?」


カメリアはピクッと腕を震わせ、唇を噛みしめた。


「私は誰のものでもない! もう誰の指図も受けたくない!」


「俺を頼れば良い 何でもしてやる」


男はカメリアの耳元で囁く。


「うるさい! 私の未来を決めるのは私よ。誰の力も借りたくない! お父様にも、下衆令息にも、悪魔にも、誰にも私の未来を決めさせない!」


カメリアは破片をもつ手に力を込め、喉元にグッと力を入れる。閉じた目元からつーっと水滴が流れ落ちていく。


パチン!


指を弾く音が響く。カメリアの手の中にあった破片が、椿の花に変わり、はらりと花弁が一枚床に落ちた。


「死ぬのは勘弁してくれ。死人とは契約ができない」


肩をすくめる男に、俯いたカメリアはかすれた声で問いかけた。


「あなた、私と契約したいの?」


「ああ。お前の魂は悪魔を引き付ける魅力がある。花の蜜のように甘くて、食欲のそそるかぐわしい匂いがする」


男がカメリアの顔の前で鼻をひくつかせる。カメリアはふっと笑みを漏らし、顔を上げ、目の前の男を見つめた。


「そんなに私を欲っしているなら、跪いて請いなさい」


男は面食らった顔をし、口角を上げてにやっと笑みを浮かべた。


「そうきたか。さすが高潔なお嬢様だ。いいだろう」


男は跪き、カメリアの手の甲に口づけをする。


「カメリアお嬢様、この悪魔ベリアルと契約をしてくださいませんか?」


「私が満足するまで願いを叶えてくれる?」


「もちろん」


「いいわ。そんなに言うなら契約してあげる。私の願いを叶えて、欲望を満たして」


カメリアは腕組をして、跪くベリアルを見下ろした。ベリアルは真っ赤な舌で唇をなぞり、頷いた。


「契約成立だ」



 翌日、ライルは馬車の事故に遭い、顔と頭を激しく損傷。ホワイトリバー家との婚約は流れていった。









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