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第11話

はあー。

ナディアが部屋のソファーの背もたれに背中を預けて、深い溜め息をつく。ソフィーがポットからティーカップに紅茶を注ぎ、ナディアの前に置いた。


「リラックスできるカモミールティーですぞ」


ティーカップを手に取り、一口飲んだナディアはまた溜め息をついた。

ソフィーが膝をついてナディアの顔を見上げる。


「ナディア様、何か悩まれておられるのですか? もしや主君のせいですか? それとも、まさかタリアのせいではありませぬか。私がお傍を離れた隙に、タリアと何かあったのでは?」


ナディアはティーカップをテーブルに置いて俯き、唇を引き結ぶ。


「やはり何かあったのですな。あの無礼者、私が見ていない隙を狙っていつもナディア様を傷付けおって。私が不甲斐ないばかりに、申し訳ございませぬ」


絨毯に頭をこすりつける勢いで頭を下げるソフィーを、ナディアは慌てて起こした。


「ソフィーは何も悪くないわ。頭を上げてちょうだい。ちょっと考え事してるだけだから大丈夫よ」


「あまり思い詰めないでくだされ。皆心配しておりますぞ」


「ええ。ありがとう」


力なく笑うナディアに、ソフィーはそれ以上何も言えなかった。


「そういえば、料理長がナディア様にケーキを焼いていましたな。そろそろできあがる頃合いなので受け取ってきますぞ」


ソフィーが部屋を出ていき、ひとりになったナディアは無意識にまた溜め息をついた。


「あんたは離婚届でも書いて、ここを出ていって」


タリアの声が頭から離れない。

母が描いた、母と自分の肖像画が目に浮かんでくる。


「ここを出ていけば返してもらえるけど、結婚式とパーティーを開いたばかりでいなくなるなんて、最低よね。それに、どこにいけばいいのかしら」


ナディアは頭を抱える。またタリアの声がよみがえってきた。


「あんたといたらハウゼン男爵も死んじゃうかもしれないじゃない。あんたの母親は、あんたのせいで死んだんでしょ」


「あんたのたったひとりの友達も死んだんだってね。みーんなあんたと関わったから死んだんじゃないの?」


扇子を突きつけてくるタリアの幻影が、ナディアを嘲笑ってくる。


優しく抱き締めてくれた母が、降りしきる雷雨の中、崖から落ちていく姿が脳裏をよぎる。


ミモザとライラックの花畑で微笑むネイビーブルーの髪色の男の子が、荒れ狂う海で船が転覆し、暗い夜の波間に飲み込まれていく光景が目に浮かぶ。


「お母様も、お兄ちゃんも、私のせいで……」


ナディアの足元から、亡霊となり恨みがましい表情をしている母と男の子が表れ、手を伸ばしてナディアの足にしがみついてくる。

ナディアは息を荒げ、母と男の子の幻影に向かって謝り続けた。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさい。私が大切に思っていたせいで、私なんかと関わったせいで、死なせてしまって……。全部、私が悪いの。私は誰も大切に思ってはいけない。私が大切に思う人は死んでしまう」


母と男の子とタリアの幻影が、ナディアの体に絡み付いてきて、それぞれが囁いてくる。


「あなたはハウゼン男爵のことを、大切に思えてきているのではないの?」


「僕たちみたいに死なせたくないなら、これ以上大切な存在になる前に、別れた方がいい」


「離婚届書いて出ていきなさいよ」


ナディアは固く目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。囁き続ける声が耳の奥で響き続ける。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ」


喉が締め付けられ、息を吐く度に苦しくなる。閉じた目から涙が溢れて止まらない。


更に追い討ちをかけるように、目の前にシュペルツ侯爵の幻影が現れ、ナディアに人差し指を突きつけてきた。


「お前は呪われている。お前の母親は特別な力を持っていた。だが、死ぬ前にお前に力を渡さず、呪いをかけたのだ。だからお前の髪は白くなり、亡霊のように身を潜めて生きていくしかない。この家で生かしておくだけでも有り難いと思え!」


ナディアは髪を握りしめ、真っ白になった髪に目を見開いた。


「私は、呪われている……」


「呪いをかけるほど、母親はお前のことを憎んでいたのだろう。お前に力が渡っていれば使い道はあったものの。まったく、使えない母子だ」


足元から這い上がってきた母の亡霊が目の前に来て、ナディアの頬を両手で包み込む。顔を歪めて憎しみの表情を浮かべた。


「ああ、なんて憎らしい子なの」


「お母様はやっぱり私のこと……」


母の隣には男の子の亡霊が、その後ろにタリアと父の幻影が揺らめいてナディアを睨み付けてくる。ナディアは頭を抱えてうずくまり、悲鳴を上げた。


「い、いや、やめてーーー!」


その時ドアが開き、レイヴノールが慌ててナディアのもとへ駆け寄った。


「ナディア嬢、どうしましたか!」


「はぁっ、はぁっ、はぁっ」


胸を押さえて息苦しそうにしているナディアの肩を揺さぶりながら、レイヴノールは声をかけ続けた。


「ナディア嬢、しっかりしてください! 私の方を見て」


ナディアは涙で濡れた顔を上げて焦点の合っていない目でレイヴノールの方を見た。


「私に合わせて、ゆっくり吸って、吐いて、吸って、吐いて」


呼吸が落ち着いてくると徐々に焦点が合ってきて、ナディアは数回瞬きをしてから我に返った。


「旦那、様?」


「悲鳴が聞こえたので勝手に入ってしまったのですが、何かあったのですか?」


ナディアは室内を見渡し、幻影が消え去ったことに安堵した。


「……いいえ、何でもありません。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」


ナディアはふらっと立ち上がる。レイヴノールが慌てて支えようとするが、ナディアはソファーの背もたれに手を置いて頭を下げた。


「そんなこと気にしないでください。本当に大丈夫ですか?」


ナディアは頭を下げたまま頷く。


「見せたい場所があってお誘いにきたのですが、日を改めた方が良さそうですね。ゆっくり休んでください」


ナディアをソファーに座らせ、ドアを開けて出ていこうとしたレイヴノールを、ナディアは引き留めた。


「ま、待ってください。今はみっともない顔なので少しお待ち頂ければ、ご一緒できます」


レイヴノールは振り向き、心配そうな顔をする。


「無理しないでください」


「いえ、本当に大丈夫です。お話したいこともありますので」


「分かりました。エントランスホールで待っているので、ゆっくり準備してきてください」


レイヴノールは一礼をして部屋を後にした。

入れ違いにソフィーが入ってきた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を見て、レイヴノールのせいなのかと勘違いするソフィーをなだめ、身支度を整えてもらった。


「お待たせしました」


ドレスを着替え、髪をひとつに編み込み、化粧も直したナディアは、エントランスホールで待っていたレイヴノールに声をかけた。


「いえ。タイミング悪く誘ってしまったみたいで、すいません。湖の奥の方なので少し距離がありますが、体調が悪くなったらすぐ仰ってください」


ナディアは頷き、レイヴノールの後についていった。



レイヴノールは邸の裏手の森を抜け、湖を通って更に森の奥へ進んでいく。

足元ばかりを見て歩いていたナディアは、いつの間にか足を止め、爽やかな草木の香りを感じ、鳥のさえずりに耳を傾けた。

空から差し込む木漏れ日を受け、キラキラ輝く森林に目を奪われ、顔を上げて真っ直ぐのびる木々を見上げる。

前を歩くレイヴノールが立ち止まって振り返り、ナディアと同じように木々を見上げた。


「昔から森は畏れられ、最近では帝国内でも開墾が進んできていますが、実際はこんなにも神秘的で生命力に満ちた場所なんです」


近くの太い木の幹にそっと触れるレイヴノール。


「自然は神が人間に与えてくださった大いなる祝福なのだと、親代わりの人がよく言っていました」


表情を緩め、昔を懐かしむレイヴノールは、どこか寂しそうに見えた。


「神の祝福、ですか。そうかもしれませんね」


「この先に私のお気に入りの場所があるんです。ナディア嬢にも気に入って頂けると嬉しいのですが」


レイヴノールの後に続いて行くと、森林が開け太陽の光が直接顔に当たる。ナディアは眩しさに耐えきれず目を閉じた。


「ここです」


レイヴノールの声にそっと目を開けたナディアは、目の前の光景に息をのんだ。

黄色のミモザが咲き誇り、その中に薄紫、白、ピンクのライラックがそよ風に吹かれてゆらゆらと揺れている。


「ミモザとライラックは思い入れのある花で、この敷地を手に入れた後、種を植えて花畑を作ったんです」


ナディアは唯一の友達だった男の子と、ここによく似た花畑で花冠を作って遊んでいたことを思い出し、懐かしさが込み上げてきた。


「この間、ナディア嬢が好きな花だと仰ってくれて嬉しかったです」


日光を受けて輝くレイヴノールの髪と瞳が、記憶の中の男の子と同じネイビーブルーとブルーサファイアに見え、レイヴノールの顔が重なって見えた。


(まさか!)


ナディアの心臓がドクンと跳ねる。


(いえ、そんなはずないわ。お兄ちゃんは、亡くなっているんだもの)


ナディアは現実を受け入れ、気持ちを落ち着かせた。


「ナディア嬢、やはり体調がまだ良くないのでは?」


硬い表情のナディア心配するレイヴノールに、ナディアは首を横に振って小さく微笑んだ。


「幼い頃、友人と遊んでいた花畑によく似ているので、驚いてしまったんです。すごく、懐かしいです」


ナディアは爽やかなふんわりとしたミモザの香りと、優しく甘いライラックの香りをすーっと吸い込む。心に影を落としていた暗い感情を、花の香りがふわっと包み込み、息を吐き出すと一緒に外に押し出されていくように感じた。

どこかそわそわしているレイヴノールと向き合い、気持ちが落ち着いたナディアは、今なら言えると確信した。


「旦那様」

「ナディア嬢」


同じタイミングで名前を呼んだ2人は、数回「お先にどうぞ」と譲り合った結果、ナディアが根負けし、先に話すことになった。


「旦那様、こんなに素敵な場所を教えてくださり、ありがとうございました。事前に何もお伝えせず身代わりでやってきた私に親切にしてくださり、これまで夢のような時間を過ごせました。本当にありがとうございます」


ナディアは深く頭を下げる。唇が震えてきて、喉がつーんと痛む。唇を噛みしめ、握りしめた両手に力を入れ、顔を上げた。


「こんな私に、ハウゼン男爵様のような素晴らしい旦那様はもったいないです」


ナディアは、笑みを浮かべようとするが、頬がひきつり、眉も下がって上手くいかない。

レイヴノールが困惑した表情を浮かべている。


「旦那様、私と離婚してください」


ナディアの頬を一筋の涙がつーっと伝っていく。


「えっ、今、なんて?」


涙を拭ったナディアは再び同じ言葉を口にし、頭を下げた。


「離婚してください」


「ちょ、ちょっと待って。何で突然? 俺に愛想つかしたとか?」


予想外の出来事に、ナディアと対する時の口調を忘れたレイヴノールは、くだけた口調でナディアに詰め寄る。


「そんなことはありません。私の問題なんです」


「ナディアに問題なんてあるわけないじゃないか。やっと結婚できたばかりなのに、そんな理由で離婚なんてしないよ」


ナディアはこぼれ落ちてくる涙を拭う。


「私は呪われているのです。私の大切な人は皆、私のせいで亡くなったんです。私と一緒にいたら、旦那様も亡くなってしまうかもしれません。これ以上私の中で旦那様が大切な人になる前に、別れるべきなんです。どうか、分かってください」


ナディアは一礼して顔を上げると、後ろを振り返り、来た道を走り出した。


「ナディア、待って!」


レイヴノールは手を伸ばして制止するが、ナディアはそのまま森の中へ入っていった。


「嘘だろ。離婚なんて……」


レイヴノールはその場に膝から崩れ落ち、その拍子にジャケットのポケットから、指輪の箱が転がり出てきた。レイヴノールはそれに気づかず、呆然とした顔で立ち上がり、よたよたとふらつく足で邸まで戻っていった。


その日、ナディアとレイヴノールは顔を合わせることはなかった。

ナディアはソフィーすら部屋に近づけず、ベッドで泣き続け、いつの間にか眠りについた。

レイヴノールは、ディランたち4人にも何があったか話さず、仕事も何も手につかない様子で寝室に閉じこもった。



ディラン、ソフィー、セラフィナ、ウンディーネはリビングルームに集まり、様子のおかしいレイヴノールとナディアのことを話し合っている。


「ねえ、あの2人どうしちゃったの?」


「私にも何がなんだかさっぱりよぅ。ソフィーなんてナディア様が部屋に入れてくれないって落ち込んじゃって、ずっとこの調子よぅ」


ソフィーは床で膝と頭を抱えて丸くなって座り込み、「ナディア様、どうして話してくれないんじゃ」とぶつぶつ呟いている。


「指輪は渡せなかったみたいだな」


ディランがジャケットの内ポケットから指輪の箱を取り出す。


「あらぁ?」


「何でディランが持ってるの?」


「いくら待っても主が執務室に来ないから、まだ花畑にいるのではと探しに行った時に見つけたのだ」


「レイ様、いつものヘタレが発動しちゃってプロポーズできなかったのねぇ。でも、ナディア様が部屋に閉じこもっているのはどうしてぇ?」


「あっ、もしかして!」


ウンディーネがパチンと手を叩き、セラフィナもはっとした顔で、互いに目を合わせる。


「ふられたってこと?」

「ふられたのかしらぁ?」


2人の声に反応して、ソフィーが顔を上げてすっと立ち上がる。


「ナディア様は主君のことを嫌っている様子ではなかったのじゃ。主君が何かやらかしたとしか思えん。許せぬ」


リビングルームを出ようとするソフィーを、セラフィナとウンディーネが腕を掴んで止める。


「待ちなさい、ソフィー。まだ何も分かってないのよぅ」


「そうだよ。勝手にきめつけてソフィーのお仕置きを受けたら、さすがにレイがかわいそうだよ」


「離さぬか!」


突風が吹き、セラフィナとウンディーネは吹き飛ばされ、リビングルームのドアも大きな音を立てて吹き飛んでいった。そのまま廊下に出ようとするソフィーの体に蔦が絡みつき、あっという間に蔦です巻きにされてしまう。


「何をする、ディラン!」


「落ち着け。今は、主とナディア様が話してくれるまで待つ方がいい。暴れ足りないなら相手になるぞ」


腕を蔦に変えたディランは、ソフィーの体に巻き付く蔦を更にギュッと強く締める。ソフィーは体をよじって抜け出そうともがく。すっとソフィーの姿が消えた瞬間、ディランの目の前に白地に淡いグリーンの縞模様のトラが現れた。


「ちょっと、本気でやる気なのぉ? やめなさいよぉ」


「だめだよ、こんなとこで! 邸が崩れちゃうよ!」


セラフィナがディランの前に立ちふさがり、ウンディーネがトラに飛び乗った。


「ふん。やらぬわ。降りるのじゃ、ウンディー」


ソフィーの声をしたトラに言われ、ウンディーネはひょいと降りる。トラがソフィーに変わり、ディランは腕を元に戻す。セラフィナはほっと胸をなでおろした。


「はあー、びっくりした。2人が本気で暴れたら邸どころか帝国が沈んじゃうよ」


「私とウンディーが止めに入ったらもっとひどい状況になりそうねぇ」


「ディラン、私は悠長に待っていられないぞ。明日、主君から話を聞くのじゃ」


「お前はナディア様から話を聞けるのか」


「無理じゃ。何を聞いても話してくれなかった」


「主も同じだ。仕事どころか話もできないほど打ちのめされている様子だ」


「ソフィー、待ってあげたらぁ?」


「あっ、そうだ! ボクたちでさ、レイとナディアを元気づけてあげようよ。2人の好きな物買って来てプレゼントしたり、料理長に頼んでおいしい料理とスイーツ作ってもらったりさ」


「サプライズパーティーねぇ。いいんじゃないかしらぁ。ねえ、ソフィー、ディラン」


セラフィナに笑顔を向けられ、ソフィーは頷いた。


「ナディア様が喜んでくださるなら何でもする」


「主とナディア様に、無理に話を聞きだすよりはいいだろう。我は明日、主と貿易事業のことで1日出かけなければならない。準備はお前たちでやってくれ」


「もちろん! 任せといて。ねえ、邸のどこでパーティーする?」


ウンディーネに聞かれ、セラフィナは長い人差し指を立てた。


「外でやるのもいいわねぇ。ソフィーは侍女長と庭園でパーティーを開く準備をしておいてちょうだい」


「ふむ。任せるのじゃ」


「私はウンディーと街でプレゼントを選びに行ってくるわぁ」


「わーい、楽しみ!」


ディランは壊れたドアに目を向け、溜め息をついた。


「明日一番に大工を呼んで修理してもらわねば」


「面目ない」


ソフィーは気まずそうに肩を落とした。



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