東の空が明るくなり始めた頃、ディランはいつものようにレイヴノールの部屋のドアをノックし、いつものように返事がないと思い込んで開けようとした。だが、先にドアが開き、レイヴノールが出てきた。
「ディラン、おはよう。いつも早いな」
いつもは声をかけて起こし、寝不足の不機嫌な顔でだらだらと身支度をするレイヴノールが、既に身支度を終え、爽やかな笑みを浮かべている。ディランは瞬きしてから眉間に皺を寄せ、不審な目をレイヴノールに向けた。
「何か変なものでも食べたのか?」
「何言ってるんだ、俺はいたって健康だ。朝食の前にまた手合わせしてくれ。今日はあっという間に勝負がつきそうな気がする」
レイヴノールは鼻高々に言うと、スキップするかのように足を高く上げて、リズミカルにエントランスへ歩いていった。ディランは眉間の皺を更に深くして、レイヴノールについて行った。
身支度を終えたナディアが食堂で朝食を摂っていると、ディランとの手合わせを終え、湯浴みをしてさっぱりした顔のレイヴノールが、軽やかな足取りで入って来た。
「ナディア、おはよう」
満面の笑みで片手を上げ、ナディアの隣の席に座る。
ナディアは手に持っていたパンを皿の上に置いて会釈をした。
「おはようございます」
「ついてるよ」
口元についているパンくずをさらっと指で取って笑いかけてくるレイヴノールに、ナディアは顔を赤くして俯いた。
「あ、ありがとうございます」
ナディアの後ろに控えているソフィーは目を丸くしてぽかんと口を開けて2人を交互に見つめた。
朝食の後、ナディアの部屋に来たセラフィナとウンディーネと共に、ナディアとソフィーは庭園の散歩に出かけた。
湖に続く森を歩いていると、昨夜の幻想的な雰囲気を思い出し、ナディアは胸が高鳴った。
湖に出ると、昇ったばっかりの太陽の眩しい光が湖面に反射していて、宝石のようにキラキラ輝いている。
ナディアは薬指に光るピンクサファイアの指輪に目を落とす。それに気付いたセラフィナが、ふふふと笑みをこぼした。
「レイ様、やっと渡せたみたいねぇ」
「あっ、本当だ! 指輪きれいだね。ナディアに似合ってるよ」
ウンディーネが指輪をまじまじと見て無邪気な笑顔をナディアに向けた。
「ありがとう、ウンディー。昨日、頂いたの」
「おめでとう、ナディア様」
セラフィナが微笑むが、ソフィーは眉間に皺を寄せて腕組をする。
「おめでたくない。主君がおかしい」
「ああ、そういえばさっき廊下で会ったけどすっごい機嫌良かった」
「ナディア様にプロポーズできたのが嬉しかったんじゃないのぉ。しばらくはあんな様子だと思うわよぉ」
「いや、そういうことではないのじゃ。ナディア様への態度がおかしいのじゃ」
「何それ?」
「どういうことぉ?」
ウンディーネとセラフィナが首を傾げる。
「皆で散歩か?」
そこへミモザとライラックの花冠を手に持っているレイヴノールが花畑の方からやってきた。ソフィーはレイヴノールを睨み、ウンディーネとセラフィナは観察するようにじーっとレイヴノールを見つめる。レイヴノールは3人の視線を無視して、ナディアへ花冠を被せた。
「うん、よく似合ってる。かわいい」
朝日のせいかいつもより輝いて見える眩しい笑顔を向けられ、ナディアの心臓はドクン、ドクンと大きく速く脈打った。
「あ、ありがとう、ございます」
「今日は名前で呼んでくれないの?」
「へっ、あっ、えっと……」
レイヴノールはナディアの耳元に口を寄せて囁く。
「レイヴノールって呼んでみて」
ナディアはぱっと耳を押さえて真っ赤な顔で唇を震わせる。
ソフィーがナディアの前に両手を広げて立ちふさがり、目を吊り上げてレイヴノールを睨みつけた。
「ナディア様をいじめるでない!」
「いじめてないよ。ねえ、ナディア」
ソフィーの頭の上からナディアを覗き込むレイヴノールに、ソフィーは肩をいからせて猫のようにシャーッと威嚇した。
驚いた表情のセラフィナとウンディーネは顔を見合わせ、頷き合う。
「レイ、おかしいよ」
「そうよねぇ。どうしちゃったのかしらぁ」
「ソフィー、大丈夫だから、そんなに怒らないで」
ナディアに言われソフィーはそれ以上威嚇はしなかったが、腕を組んでレイヴノールを睨んだ。
「ははっ、ソフィーはナディアのことが大好きだな。俺も負けないけどね」
また肩をいからせるソフィーをナディアは押さえて、苦笑する。
「ナディア、午後から一緒に出掛けないか? 案内したい所があるんだ」
「はい。では、午後に」
「うん、また後でね」
そう言うとレイヴノールは鼻歌を歌いながら邸宅の方へ戻っていった。
執務室で、レイヴノールとディランが机に向かっていると、ドアが勢いよく開いてセラフィナとウンディーネが飛び込んできた。
「お前たち、仕事中だぞ」
注意するディランには目もくれず、2人はレイヴノールの前までずんずん歩いていった。ディランははあーと深い溜め息をつく。
「どうした、2人とも」
書類から顔を上げたレイヴノールが尋ねると、2人は好奇心に溢れた瞳を輝かせ、次々と質問を始めた。
「それはこっちのセリフだよ! いつものレイと違うじゃんか!」
「そうよぉ。『ナディア嬢』じゃなくて『ナディア』だしぃ、敬語じゃなくなってるしぃ、それにぃ」
「「ヘタレてない!」」
2人に指を突きつけられ、レイヴノールは涼しい顔で微笑む。
「吹っ切れたんだよ」
ウンディーネとセラフィナはパチパチと瞬きをする。ディランが2人の背後に立ち、書類で頭を叩いた。
「いたいっ!」
「レディーの頭を叩くなんてぇ、ひどいわぁ」
ディランは口を尖らせる2人を睨んで黙らせた。
「主とナディア様のことに首を突っ込むな」
「えー、ディランだって気になるでしょ!」
「何か心境の変化があっただけだろう。我々が知っておくべきことなら既に話しているはずだ」
「あっ、そうだ」
ディランの言葉に反応したレイヴノールは、手をポンと叩いた。ディランは眉をピクッと動かしてレイヴノールを見た。
「すまない、まだ言ってなかったな。昨日ナディアに、復讐のこと全部話したんだ」
ディランは顔を引きつらせ、セラフィナは口に手を当て、ウンディーネは目を丸くし、それぞれが矢継ぎ早にレイヴノールを責めたてた。
「なぜ、すぐ言わない!」
「どうして話したのよぉ!」
「ナディアの幸せのために黙ってるって言ってたじゃん!」
「ナディアの話し聞いてたら、話した方が良いと思ったんだよ」
はあ? と顔をしかめる3人に、レイヴノールは昨夜ナディアと話した内容をかいつまんで伝えた。
「レイ様が、ナディア様にとってのお兄ちゃんだっていうこととぉ、復讐のことを明かした理由は分かったわぁ」
「でもさ、契約結婚ってなに? いくらナディアが呪いのせいで離婚したいって言ってもさ、レイは離婚する気ないんでしょ。普通に結婚でいいじゃん」
「俺はナディアの気持ちを尊重したいと思ってだな」
「でもぉ、今までどおりヘタレじゃなくてぇ、ぐいぐい押してく方に変えたんでしょう? ナディア様の気持ちを尊重するって言いながらぁ、自分の気持ちも押し出してナディア様に好きになってもらおうとしてるんじゃないのぉ?」
「嫌な言い方するな。俺はナディアを愛してる気持ちを素直に伝えようと思っただけだ。それに、かわいすぎるから、これ以上奥手でいては他の男にとられかねない。披露パーティーでも、街にいても、ナディアは男の視線を集めてしまうんだ」
「うん、確かに。ナディアは美人さんだもんね」
「そういうことならぁ、応援するわぁ。初恋のナディア様をずっと思い続けてきたレイ様に勝てる人なんていないものねぇ」
「主、我々のことは話したのか?」
レイヴノールは首を横に振った。
「お前たちが精霊だということは話せていない。昨日は一気に色々なことを伝えたから、精霊の話までしたらナディアが混乱するだろ。まだ全部は理解できていないって様子だったし」
「それはそうだな」
「精霊の話はしていないが、ソフィーをシュペルツ家に潜入させていたことは話したな」
「ソフィーにはそのことを伝えたか?」
ディランに聞かれたレイヴノールは表情が固まった。ディランは溜め息をつき、セラフィナとウンディーネは同情の眼差しをレイヴノールに向けた。
「しまった、ソフィーに話すべきだった!」
その時、執務室のドアがバターンと倒れ、怒りをあらわにしたソフィーが現れた。緑色の縞模様のトラに姿を変え、後ろ足で床を蹴って一瞬にしてレイヴノールの目の前まで飛んで来た。頭から尻尾まで全身の毛が逆立ち、獣の唸り声を上げてレイヴノールを押し倒した。
ディラン、セラフィナ、ウンディーネはさっとソファーの裏に身を潜めた。
「昨夜の話、ナディア様から全部聞いたぞ。なぜ、主君の正体も、復讐のことも明かしたのじゃ! 今まで隠し通してきたのに、自ら明かすとは何事じゃ!」
大きく開いた口から鋭い牙がキランと光る。押さえ込まれたレイヴノールはたじたじになりながら、3人に話したことと同じ内容をソフィーにも伝え、更にソフィーを潜入させていたことも話したことを打ち明けた。
怒りが増したソフィーはレイヴノールの服に噛みついて部屋の隅へ投げ飛ばした。毛を更に逆立て自分の回りを中心に竜巻を起こし、書類や羽ペン、インク瓶などが竜巻に巻き込まれて高速回転を始めた。
「ソ、ソフィー、すまない。俺が悪かった! だから、風を止めて!」
ソフィーは聞く耳を持たず、レイヴノールを竜巻で包み込み、書類などと同じく高速回転させ始める。
「や、やめてくれー!」
ソファーの影に隠れて様子を見ていたディラン、ウンディーネ、セラフィナがこそこそと話している。
「こんなに怒ったソフィー初めて見たよ」
「でもぉ、このまま続けてたらぁ、邸の人たちに見られちゃうわよぉ。ドアもなくなってるしぃ」
「仕方ない」
ディランは竜巻に巻き込まれないよう注意しながら、腕を蔦に変えてトラの姿のソフィーをぐるぐる巻きにし、身動きを取れなくした。
すると竜巻がおさまり、物もレイヴノールもドサッと床に落とされた。目を回したレイヴノールはふらふらになって床の上に倒れた。
ディランは人間の姿に戻ったソフィーを解放し、腕を元に戻す。ぐちゃぐちゃに散らかった執務室を眺めるセラフィナとウンディーネはやれやれと肩を落とし、散らばった書類や文房具を集め始めた。
「ソフィー、怒りは分かるが、後片付けはやってくれ」
「……すまぬ。勝手にナディア様に明かした主君がどうしても許せなくてのう」
倒れているレイヴノールを睨みつけるソフィー。レイヴノールはよろよろと立ち上がり、ソフィーに頭を下げた。
「すまない。先にソフィーたちに話すべきだった」
「ソフィー、分かってあげてぇ。レイ様がナディア様のこと一途に思い続けてきたの知ってるでしょう? 浮かれてたのよぉ」
「そうだよ、ソフィー。浮かれすぎて頭の中お花畑になってたから、ボクたちに話そうなんて思えなかったんだよ」
「ナディア様のことになると周りが見えなくなるのが主だと、お前も分かっているだろう」
セラフィナ、ウンディーネ、ディランの辛辣な言葉に打ちのめされたレイヴノールは、再び床に倒れこんだ。
「分かっておる。だが、私たちに伝えなかったという理由だけで怒っているのではない。ナディア様がずっと指輪を愛でておられ、頬を染めてぼうっとしているのじゃ!」
「えっ、ナディアが?」
ぱっと表情を明るくしたレイヴノールの胸倉を掴んだソフィーは、怒りに任せてぐらぐら揺さぶる。
「ナディア様の頭の中は主君でいっぱいになっておるのじゃ! 許せぬ!」
揺さぶられながらも、レイヴノールは嬉しそうな笑みを浮かべてへらへら笑っている。
「なんだぁ、嫉妬してただけなのねぇ」
「ソフィーはナディアのこと大好きだもんね」
ディランはソフィーとレイヴノールの頭を書類で叩き、地を震わせる低音ボイスで2人を縮こまらせた。
「いい加減にしろ。とっとと片づけて仕事に戻れ」
全員で後片付けをし、大工を呼んでドアを修理してもらい、ようやく仕事にとりかかろうとした時には正午になっていた。