あれから一週間が経ち、すっかり元気になった私は使命感に燃えていた。
まだ打撲箇所が痛むものの、今の私は車椅子無しで自由に動くことが出来る。
そうなれば、やることは一つ。
「今日こそは完璧にブリジットをいじめてみせるんだから! えいえいおーっ!」
私は拳を天に突き上げると、一人で気合いを入れた。
* * *
「次に狙ういじめは、ブリジットのスープに虫を入れる……って、難しくない!?」
原作のエレーヌは大した苦労も無くスープに虫を入れていたように見えたが、なかなかどうして実際にやるとなると難しい。
学食には人の目も多いし、そもそも自身が食べているスープに虫を入れられて気付かないなんてことがあり得るのだろうか。
「とりあえずブリジットの近くの席をキープはしたけど……虫も用意はしたけど……」
準備は整っているものの、とても実行できるとは思えない。
やはり人の目が多すぎる。
もしかすると公爵令嬢のエレーヌに気を遣って、攻略対象以外の生徒たちはエレーヌの行為を見て見ぬふりしてくれるのかもしれない。
しかし悪事を見られることは避けたいと、小心者の私の心が言っている。
「それに食事を無駄にするのは良くない行為よね。虫だって食事に入れられるために生まれてきたわけじゃないし」
悩んだ結果、このいじめはやらないことにした。
原作でのエレーヌのいじめは他にも何種類もあるため、このいじめに固執する必要はない。
私は懐に入れていた巾着袋を取り出すと、巾着袋の中に隠していた青虫を手のひらの上に乗せ、窓辺へと向かった。
「いじめに利用しようとしてごめんね。今、外に出してあげるからね」
そのときだった。
テーブルの足に躓いた私は、派手に転んでしまった。
全身打撲が完治しておらず、身体にしっかりと力が入っていなかったせいかもしれない。
とにもかくにも、私の身体は床へと投げ出され……手のひらに乗せていた青虫をどこかへ飛ばしてしまった。
ハッとした私の頭上に、何かがぽとりと落ちる。
「キャーーッ、虫!」
誰かの叫び声が響くと同時に、叫びは伝染した。
どうやら飛んで行った青虫は、空高く舞って私の頭上へと着地をしたらしい。
「あ、よかった」
私は頭の上から青虫を手に取ると、窓辺へ行って外に逃がしてあげた。
ふと学食内から視線を感じると思って振り返ると、多くの生徒たちが私の動向を見守っていた。
「エレーヌ様……虫を触ることが出来るんですの?」
そのうちにモブ三人組の一人が恐る恐る聞いてきた。
なおエレーヌがブリジットにいじめを行なう都合上なのか、なぜかモブ三人組はエレーヌとは違うテーブルで食事をとっている。
一人での昼食は寂しいから、私と一緒に食べてほしいのだが。
「あの虫、毒はありませんの?」
「汚くはありませんの?」
ビクビクしながら私の手を見つめる彼女たちに、笑って答える。
「あれはただの青虫ですから問題ありませんわ。それに成長すると美しい蝶になるから汚いということは……ああ、でも触った後に手を洗った方がいいという意味では綺麗とは言えないかもしれませんわね」
するとどこからかパチパチと遠慮がちな拍手が聞こえてきた。
すぐに拍手をする人数が増え、拍手の音は大きなものへと変わる。
「……へ?」
「エレーヌ様は素晴らしいお方ですわ! 学食に紛れ込んだ虫を窓の外に逃がして差し上げるなんて」
「ええ。わたくしにはとても出来ない芸当ですわ。わたくしなら虫への恐怖心で、虫を逃がすどころが自分が逃げてしまいますもの」
「虫に慈愛の心を向けるなんて、エレーヌ様は人間が出来ていらっしゃるんですね」
なんか話がおかしな方向へ転がっている。
そもそもあの青虫は私が捕まえてきたものだから、その青虫を外に逃がすことは当然の行ないだ。
自分で捕まえてきた青虫を外に逃がすことで称賛されるなんて、マッチポンプもいいところじゃないか。
しかし「ではなぜ青虫を持っていたのか」と聞かれると説明が難しいため、私は黙っているしかない。
私は複雑な気持ちで席に戻り大きく深呼吸をすると、頭を切り替えて次のいじめ作戦を考えることにした。
エレーヌが学食で行なうブリジットいじめは、スープに虫を入れる行為一種類だけではないのだ。
「ブリジットの肉料理にこっそり激辛の香辛料を振りかけることもしてたっけ。あれもバレないように振りかけるのは難しそうだけど……」
しかも激辛の香辛料を自分で調合したというのだから、エレーヌはブリジットいじめに対して真面目で努力家だ。
そして目的のためなら手段を選ばない潔さも、突き抜けていて清々しい。
やはり乙女ゲーム『花咲く乙女と絶対の騎士』は、エレーヌがいるからこそ成り立っているゲームなのだ。
しかしブリジットいじめのためなら努力を惜しまない真面目で要領の良い悪役令嬢エレーヌの中に私が入った途端、いじめは一つも成功しなくなってしまった。
ゲーム内に転生をするとゲームの収束力に振り回される、なんて小説を読んだことがあるが、悪役令嬢が私ほどのポンコツでは、ゲームの収束力もどうにも出来ないらしい。
「はあ。香辛料を振りかけるのも、食べ物を粗末にする行為だからナシね。他に学食で出来るブリジットいじめは……」
誰にも聞こえないように小さな声で呟いたはずのこの言葉に、思わぬところから返事があった。
「あんたはいじめに向いてないから、もう諦めた方がいいぞ」
振り返ると、ダミアンが可哀想なものを見る目で私のことを見つめていた。
「こんなに悪事が向いてない人は初めて見た。あんた、いじめの才能無いぞ」
才能が無いと言われてムッとした私は、コップを手に持ってダミアンに水をかけてやった……はずだった。
しかしすでに水を飲み干して空になっていたコップからは、一滴も水が飛ぶことはなかった。
そのため私はただコップを持っただけの人になってしまった。
「な? だから言っただろ?」
得意気な様子のダミアンにさらにイラっとしたが、私にはもう攻撃方法が思いつかなかった。
ダミアンの言うように、私にはいじめの才能が無いのかもしれない。
でも、だけども。
「わたくしは気高く強い公爵令嬢エレーヌ・タグリオーニですわ。わたくしに無い才能なんて、この世に存在しませんのよ!」
そう言って、ダミアンをにらんだ。
ダミアンの横では、ブリジットがハラハラした顔で事態を見守っていた。
これから私にいじめられるとも知らずに、呑気なブリジット。
……しかしそう思っているのは私だけのようで、虫騒動が落ち着いた学食では、ひたすらに平和な時間が流れていた。