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第12話 月下の癒しと影の挑発

嵐山・幽谷のカーブを吹き抜ける夜風は、血の匂いと、折れた新竹の清冽な香りを運んでいた。


浩一は、銀色の破片と粘つく血で汚れた右拳を軽く振り、左肩に走った手刀の痛みがようやく本格的に襲ってきた。鋭い激痛に、彼は低くうめき、額に冷や汗をにじませる。


茜が青ざめた顔で駆け寄り、消毒用のウェットシートを差し出した。


金縁の眼鏡の奥の視線は、浩一の血に染まった拳と、わずかに眉をしかめた表情を複雑に見つめていた。


「佐藤顧問、すぐに処置を――」


その声は震えていた。先ほどの死線の余韻が、まだ彼女の中に残っているのだ。


「大丈夫だ」


浩一は無造作にウェットシートを受け取り、荒々しく血と銀粉を拭いながらも、視線は鋭く白狐が消えた竹林の暗がりを睨みつけていた。


脳内では【弱点洞察】が全力で作動し、空気中のわずかな異常を感知している――かすかに山風に散りそうな冷たい香り、火薬と甘ったるい麝香のような匂いが混ざっていた。


――白狐の残り香。


それは嗅覚ではなく、【弱点洞察】によって強化された特殊な“感応”だ。


凛がその隣に歩み寄る。月白のコートが風に揺れ、まるで月光そのもののように美しく、そして冷たい。


彼女は死体に目をやることもなく、冷ややかな目で浩一の左肩の傷とこわばった横顔を見据え、氷のような声を落とした。


「よくやったわ、佐藤顧問」


そして、彼の肩の裂けた服地の端を指先でふれる。その冷たさが、布越しに皮膚を突き刺す。


浩一の身体がぴくりと反応する――それは痛みではない。彼女の指先が呼び起こすのは、まるで獰猛な捕食者に触れられたときの、本能的な戦慄だった。


彼は勢いよく振り返る。


そこにいたのは、獲物を見つけた捕食者の目をした女――その瞳の奥には、稀有な獰猛な武器を見つけたかのような、占有欲に近い熱が灯っていた。


「だが、どんな鋭い刃も、手入れは必要よ」


指は離れず、むしろゆっくりと肩の筋をなぞり、裂けた骨のあたりでぴたりと止まる。


激痛が走り、浩一は歯を食いしばる。喉仏が上下し、冷汗がつっと流れる。その

仕草は、彼女にとっては“観察”でもあり、“試験”でもあった。


「痛む?」

彼女の声は囁きにも似て、まるで恋人の耳元で語られるような艶を帯びていた。


浩一の呼吸が、一瞬止まる。


その吐息には、雪松のような冷たさと血の匂いが交じっていた。彼女の“処置”は

検診というより、彼の限界を図る試しそのものだった。


指の腹から伝わる冷たさと支配的な力。ポケットの中で鬼札コインが嗡鳴を放つ


――警告か、興奮か。


「かすり傷だ」浩一は低く、かすれた声で、怯まずその目を見返す。


「ふふ…」

凛は、鈴を転がしたような笑い放つ、その裏には確かな“遊び”の色が潜んでいた。


彼女は手を引き、背を向けて命じた。


「現場を整理して。“黒室”に遺体を送って、詳細解析。全員、港区のセーフハウスへ。警戒レベルは第一種」


そして、再び浩一に振り返り、命じる。


「あなたは――こっちよ」


彼女は車列ではなく、山道の傍に佇む小さな展望亭へと足を向けた。浅野茜は一瞬ためらったが、無言で従った。


展望亭の石机は冷たく、神代凛は月白の風衣から平たく光るチタン合金の医療キットを取り出した。中には整然と並ぶ注射器、特効薬、消毒具――まるで携帯手術台のような装備だった。


「上着を脱いで」


命令の口調は平坦だが、全てを取り込む威圧感があった。


彼女は自動注射器を手に取り、月光に照らされた薬液は淡い青白の輝きを放っていた。


浩一は一瞬ためらった。


風が亭を吹き抜け、竹影が揺れた。凛の横顔が月光に照らされる――冷たく、美しく、そして危険。


無言で破れた上着を脱ぎ、鍛え上げられた上半身をあらわにした。肩には生々しい手刀痕が走っている。


その体に、夜風の冷気が容赦なく吹き付ける。神代凛の放つ“雪松の香気”が、それをさらに冷たく際立たせる。


彼女はすぐには動かない。まるで精密機器のような眼差しで、肩甲骨のライン、筋肉の張り、そして古傷と新しい傷の交差を丹念にスキャンしていた。


その目線の“重さ”に、浩一は肌が熱を帯びるような感覚を覚える。鬼札コインのうなりが強まった。


「我慢して」

彼女はそう言うやいなや、消毒液を染み込ませた綿球を、容赦なく最も腫れた場所に押し当てた!


「ッ……!」

冷たい刺激に、浩一は瞬時に硬直し、歯を食いしばる。声は出さなかった。


その手つきに一切の優しさはない。まるで痛みへの耐性を試しているかのような粗雑さだった。


刺すようなアルコールの匂い、そして彼女の冷たい香りが混じり合い、空間に不思議な色香が漂う。


「棘の根は、思った以上に深いわね」

彼女は淡々と言いながら、浩一の震える筋肉や喉仏を観察していた。時折、指先が無傷の肌をなぞり、戦慄のような感覚を残す。


そして、注射器を取り上げた。月光を反射する針先が、骨の亀裂に向けて静かに迫る。


「これは神代生物製薬の最新式。ナノ骨再生剤と神経鎮痛剤のブレンド」


そう説明しながら、彼女は針を肌に突き立てた。


「少し“特別な”感覚があるかもしれないわ」


彼女は目を細め、声を低くした。


「佐藤顧問。この世界は、あなたが思っているより遥かに複雑なのよ。“直感”や“爆発的な力”、先ほど田所が使った精神干渉……あれらは全て、“霊能”の表れ」


「霊能とは、高次元の破片や、生命体の深層意識が変質した結果として発現する“力”。それは、電磁スペクトル外の不可視光や、暗黒物質のように実在する未知のエネルギー。“霊能者”とは、それを感知し、操る者たちのこと」


薬液が体内に注がれた瞬間――


氷の糸のような冷気が肩甲骨の奥に突き刺さり、それが一気に灼熱の奔流へと変わった!


激痛は麻痒と熱に置き換わり、骨の隙間で何かが暴れ回っているようだった。


浩一は思わず身体を大きく震わせ、低い唸り声を漏らす。額には玉のような汗が浮かぶ――これは鬼札の力とは異なる、まさに異常な感覚だった。


「そして――あなたは」


凛の左手が突然、浩一の右肩を強く押さえた!


その手は冷たく強く、彼が痛みに体をすくめるのを強引に固定した。


二人の距離は、もはや呼吸を感じるほど近い。


彼女の瞳の奥には、浩一の苦悶に対する――陶酔のような色が一瞬、走った。


「あなたの霊能は特別よ」


彼女の声は低く、静かで、それでいて全てを見透かすような響きを帯びていた。


「それは高次元由来じゃない。……むしろ、“何かの媒体”と深く結びついて、無理やり引き出され、形づくられた霊能」


彼女の視線は――浩一のポケットにある“鬼札”へと向けられる。


「その霊能は荒々しく、冷酷で、攻撃的。でも同時に、どこかこの世界に属さない“冷たい秩序”を持っている――」


「まるで棘。闇の土壌に根を張りながら、なお空を突き刺そうとするかのような…」


体内では、薬液による灼熱の奔流に、さらに冷たく鋭い力が混じりはじめた。それは、まるで別の次元から流れ込んできたような――より純粋で、より異質な“何か”。


鬼札コインのうなりが最大に達し、その内側で、微かに“カチリ”と歯車が噛み合う音がした。


まるで――封じられていた何かが、目覚め始めたかのように。


凛もそれを感じ取っていた。彼の目の奥で蠢く野生、エネルギーの膨張、そして――制御できぬ衝動。


彼女の唇が、静かに、意味ありげに笑んだ。それは冷笑でも皮肉でもない。獲物を“飼い慣らす”術を知る者の、余裕に満ちた微笑。


凛はさらに身体を傾ける。赤く艶やかな唇が、浩一の耳元すれすれに近づいた。

彼女の吐息は冷たいのに、肌を焼くように熱かった。


「痛みと力は、常に表裏一体よ、佐藤顧問――それを“味わい”、支配して。鬼札を支配するように。あの“コイン”の“霊”は、成長を欲してる…そして“白狐”は、それにとって、最上の“餌”になるわ」


その囁きは、氷と炎の混ざり合った“呪い”のようだった。誘惑、指導、洗脳、すべてが混ざり合った黒い魔法のように。


浩一の瞳孔が、わずかに収縮する。


彼女は…鬼札の“欲望”まで読み取っている。そしてその欲望を、自分の掌の上に乗せようとしている――


「凛さん…貴女は知りすぎている……試すのも、ほどほどにしてもらいたい」


浩一は、かすれた息を吐きながら、顔を傾け、鼻先が彼女の頬をかすめるほどの距離で睨み返した。


その声には、怒り、羞恥、痛み、そして――核心を突かれた苛立ちが混ざっていた。


二人の視線がぶつかる。静寂の中で激しく火花を散らし、空気を引き裂くような張り詰めた緊張が生まれる。


血の匂い、薬の匂い、鬼札のうなり、そして押し殺された本能と、冷徹な理性のぶつかり合い――


今にも何かが爆ぜそうな空間に――


「カチン――!」


銀色の何かが、無音の糸に引かれるように、二人の間の石の卓に突き刺さった。


それは――一枚の銀のカード。


薄く、端は蝉の羽のように繊細で、中心には、血で描かれた“狐の横顔”の紋章。

文字はない。だが、そこから漏れ出す“冷たい霊力”は明らかだった。


白狐からの挑戦状――!


その“気配”は、明らかに先ほど田所から感じたものと同質だが、はるかに精緻で強い。


凛の目が鋭く光る。そして一歩、浩一から距離を取る。彼女は、再び冷厳なる“神代財団の女帝”の顔に戻っていた。


浩一もまた、薬とエネルギーの衝突で荒ぶる体内を制御し、目を細めて、カードを睨みつける。


――鬼札が反応する。


カードの霊波に対して、冷たく鋭い――食欲にも似た、捕食本能が沸き上がる。


そのとき、背後から駆け寄る足音。


「凛様!至急報告です!」


茜が息を切らしながら現れ、報告する。


「セーフハウス経由で傍受された暗号通信――発信先は“京都の私邸・月華庭”!メッセージ内容は二文字――『回礼』!」


「さらに、異常な空間波動を検知!強度は、B級霊能事象の発生閾値に接近――!」


その報告に、凛の周囲の空気が一気に凍る。


B級――物理法則さえ歪む可能性がある、“実害領域”の霊能級!


彼女は冷たい声で、しかし確実に言った。


「……どうやら、白狐は、冷遇されるのが嫌いみたいね。ましてや、“餌”扱いなんて――耐えられるはずもない」


浩一は左肩を回す。薬と鬼札のダブル作用で、痛みは大きく引き、代わりに体内を満たしているのは、爆発寸前の力と飢え。


血まみれの上着を肩にかけ、その視線はカードを通して、“次の戦場”を見据えていた。


「――ちょうどいい」


乾いた唇を舐め、冷たい笑みを浮かべる。


「俺の棘は――次の“獲物”を、待ち焦がれてたんでな」


曖昧な熱と霊能の囁きが消える前に――新たな狩りが始まり、闇が牙を剥く。


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