「もう、私には、あなたしか居ないんだ。あなたの身分など構わない。親たちの決めた婚約者とも、正式に婚約を破棄する。必要であれば、身分も捨てよう。だから、どうか、私と生きてほしい」
がっしりと手を握りしめられ、熱っぽい口調で言う皇太子殿下に、ファルティアはくらくらと眩暈がしていた。
(一体、なんでこんなことになっちゃったの……)
「……
皇太子殿下の翠玉の眼差しが、不安げに揺れる。
(ちょっと待ってよ……)
ファルティアは、どうして良いのか全く解らない。彼にどう答えるべきか、思案する。
そもそも、彼の言う『ファティア』というのは、ファルティアの偽名だ。今思うと、偽名にもなっていないような偽名だ。
そして、彼の言う、『親の決めた婚約者』というのは、紛れもなく、アヴェリン侯爵令嬢ファルティア―――つまり、ファルティア自身だった。
(求婚と破談が一緒に来た……)
混乱しているファルティアの、混乱の理由など、皇太子は気付いていない。
「急に、こんなことを言い出してすまない。ただ……私は、この困難を、だれあろう、あなたと乗り越えていきたいのだ」
「わ、私っ! 用事を思い出しましたのでっ! それに、こういうことは、私一人で軽率にお答えするわけには行きませんからっ!」
脱兎の如く逃げようとしたが、より一層強い力で、皇太子はファルティアの手を握りしめている。
「そういえば、あなたのご家族に会ったことがなかったな。……大切なお嬢さんをお迎えしたいのだから、挨拶は必須だろう。どうだろうか、挨拶に伺ってもよろしいだろうか?」
きらきらした笑顔が、まぶしい。
この笑顔に、憧れていた時期もあった。
(
内心、罵りたい気分になりながら、ファルティアは「放してください、本当にっ!」と必死でもがく。
けれど、ここは、王立学院の、一部の生徒しか立ち入ることの出来ない、『秘密の花園』と呼ばれる特別な区域。ファルティアも、皇太子と一緒でなければ、立ち入ることは出来なかった。つまり、大声を出そうとも、助けは来ないと言うことだ。
焦るファルティアを余所に、皇太子はそっと手を放す。
そのまま立ち去ろうと思ったが、出来なかった。
皇太子が、スッとファルティアに
「殿下っ!?」
焦るファルティアに、皇太子は、蕩けるような笑みを浮かべてから、ファルティアの服の端に口づけをした。
「っ!!!!?」
(こ、これは……っ!!)
ドレスの裾に口づけて跪き愛を乞う―――これは、騎士からの最上級の求愛だった。たとえ、この求愛を受け入れられなかったとしても、生涯、この人にだけ真実の愛を捧げるというような……。
(ちょっと……まって……)
理解が追いつかず、ファルティアは頭を抱えたくなった。
「……私、リシャルト・ラフォーレは、あなたに……ファティアに、生涯変わらぬ愛と忠誠を捧げることを誓います」
この場合、乙女の正しい返答としては、薔薇色に頬を染めながら「わたくしも、あなたに永遠の愛を」と答えるのが普通なのだが……。
「知りませんっ!!!!」
と叫んで、そのまま、呆然とする皇太子を置いて、『秘密の花園』を逃げ出したのだった。
(なんで? なんでこうなったの? ……どこで間違った……?)
そもそも、ファルティアの母の話に依れば、東方から来た『聖なる乙女』と皇太子は恋に落ちて、そのまま結婚。元婚約者だったファルティアは、婚約破棄された上、数々の『聖なる乙女』に対する嫌がらせが暴かれて国外追放。皇太子は聖なる乙女と共にこの国を救う……という話ではなかったか?
(その為に、回避行動を取っていたのに、なんでこうなった……?)
是が非でも、皇太子には聖なる乙女と結婚して貰わなければ困る。そして、ファルティアが国外追放にさえならなければ良いはずで、その為に回避行動を取れば問題ないはずだった……。
混乱しつつ、ファルティアは、(こんなことなら、お母様の言うことをちゃんと聞いていれば良かった……)と、最初に母の言葉に逆らった、その日の事を思い出していた―――。