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第3話 俺が向き合う

 今週も火曜日が来る。

 銀河ぎんがのいる第2診察室のみ“90分待ち”表示に、ため息をつく患者多数。


「おはようございます。松本さん、調子はいかがでしょうか」

「先生……その低音ボイスをこの1ヶ月心待ちにしておりました……もう先生のことしか考えられませんっ……この気持ちをどう表現すればっ……プレドニンを……プレドニンを……!」

「松本さん、落ち着きましょうか。ベッドにどうぞ」

「ベッドだなんて……先生……ドキドキする」


 するといつも通り看護師が慌てて入ってきて「はい松本さん、横になりましょうね」と淡々と言う。


 プレドニンの副作用はムーンフェイス(顔のむくみ)、胸焼けなどの身体的症状の他、倦怠期や多幸感といった精神的症状も挙げられる。そして銀河が男性患者に処方すると――何故か“多幸感”が強く表れ、全員が彼への想いを打ち明ける。


 副作用の出方も人それぞれであり、個別に対処してきた。プレドニンは身体への負担を考慮して徐々に減らしていかなければならない。減らし過ぎても痛みや発疹が余計に出て日常生活に支障が出る。


 よってこの男性患者たちに対しても徐々に減らしていくことを目標としているが、減らしても男性患者たちは“銀河への想い”だけは抑えられないのだ。


「銀河先生、聞いてください……僕は……先生がいつも僕の目を見て話してくださることが……この上ない幸せなのですっ……だからどうかお願いします……次回の予約を1ヵ月先ではなく明日に! いや今日の午後にもう一度先生にっ……!」

「赤井さん、落ち着きましょう。赤井さんぐらいの症状であれば次回は1ヵ月後で……」



 ――ガシャーン



 隣の第3診察室からものすごい音が聞こえた。看護師がワゴンをひっくり返したのだろうか。


井園いぞの先生! 井園先生!」


 焦る看護師の声。患者の赤井もこの状況に驚いたのか、気が紛れて鼓動が収まったようだ。


「では赤井さん、また1ヵ月後に」

「ありがとうございます先生……この1ヵ月は先生のそのお顔を思い浮かべながら過ごしますっ……」


 赤井が診察室から出たあと、銀河は隣の第3診察室に行こうとしたが……次の患者が待っている。


 明らかに倒れたのは井園だ。最近顔色が悪く疲れているように見えていた。病棟で立ちくらみもしていた。

 まさか彼に異変があったのだろうか。


 患者は大勢いる。薬の副作用はあるが男性患者は自分を頼りにしてくれている。患者のために出来る全てをしたい。これまでずっとそう思いながら血液内科医として勤務してきた。


 しかし今の銀河は目の前の患者よりも、隣で倒れているであろう井園のことしか頭に入って来ない。彼に何があったのだろうか。

 幸いここは病院である。看護師がついており院内にベッドも完備されているのだから、そこまで気にする必要なく普段通り外来患者を診ていけば良い。


 それなのにどうして井園のことばかり心配になってしまうのか。自分でもコントロール出来ないこの思いをどうすれば良いのか。


「先生……?」

「ああ、米田さん。あれから調子はいかがですか」

「銀河先生……俺はプレドニンを投与されてから先生の魅力に改めて気づきました」

「米田さん、落ち着き……」

「しかし今の先生はとても不安そうに見えます」


 ――患者に気づかれたか?


「だから俺が……先生とずっと一緒に……」

「え? ああそれなら心配いりませんよ。まず米田さん、ご自分の治療からです。徐々に薬は減らせていますので……」



 ※※※



 長い長い午前の診察がようやく終了した。銀河はすぐに看護師に声をかけた。


「井園先生、何かあったのか?」

「銀河先生! 井園先生は……処置室に向かう途中でよろよろっとなってしまって、そこにあったワゴンに手をかけて倒れてしまって……! 意識も朦朧としており熱もあったので病棟に運びました。ちょうどベッドの空きがあったので。先ほど血液検査の結果が出まして……」


「見せてくれ」


 銀河は看護師から検査結果の用紙を取る。やはり血球量が大幅に減少している。これは――


「骨髄検査を」

「はい、今日の骨髄検査担当の先生は……」

「俺がやる」

「えっ? 先生は今、午前診終わられたばかりですが」



「彼は俺が診る……どんな診断がつこうと、俺が向き合う」



 どうしてもっと早く気づいてやれなかったのだ。その後悔と責任をひしひしと感じる。自分が一番近くにいたはずだったのに。彼は「大丈夫です」と言いながら自分を求めていたかもしれないのに。


 銀河はエレベーターに乗り、血液内科病棟のフロアへ向かう。二重扉の先のナースステーションに入り、PCの前に座って電子カルテを確認する。


「銀河先生……珍しいわね。火曜の午前診の後にすぐ病棟に来るの」

「ただでさえ診察遅れるものね。休憩取ったのかなぁ」

「今日急患いた? 井園先生以外に」

「いや、いないよ」

「じゃあ……もしかして」


 看護師達がヒソヒソと話しているのを横目に、銀河はすぐに彼女達に言う。


「骨髄検査をする。井園先生を」

「はい、ベッドで連れてきます」

「主治医は俺だ。カルテの修正を頼む」

「はい」


 そして病棟の処置室にベッドを押して看護師が入って来た。井園はすでに白衣から入院着に着替えておりぼんやりとしている。


「……まさか自分が“あの検査”を受ける側になるなんて」

「井園先生……すぐに終わりますから。ああさすが先生、うつ伏せの姿勢がばっちりです」

「何回あの流れ、やったか」


 井園と看護師が話しているとそこに白衣をなびかせた銀河が入って来た。井園はうつ伏せであったがすぐにどの医者が入ってきたかがわかった。


 この足音、この空気感……銀河先生で間違いない。


「井園……先生。もう分かっていると思うが力を抜いてリラックスしてください」


 看護師もいる中、銀河が一瞬呼び捨てにしようとしたことに、井園はまた淡い花を心に咲かせられたような気がした。そしてうつ伏せのまま看護師に下着をお尻の真ん中辺りまで下ろされる。腰とお尻の間あたりにある腸骨――ここに専用の太めの注射針を刺し、骨髄液を採取するためこのような格好となる。


 実習生時代の時はこの姿で針を刺されるところを見るのが怖かった。医者になってからは当たり前のように検査をする側だったので淡々と行ってきた。


 そして今、自分の検査結果は不安であるものの、銀河の前でこのような格好をしていることに心を持って行かれている。銀河になら自分のお尻の上半分を見られても……平気だった。もちろん恥ずかしさはあるが、一方で少しだけ何かを期待するような気持ちもあった。


「今、針が入ってるが大丈夫か?」

「はい……」

「ではいちにのさん、で採取します。いち、にの、さん」

「……っ!」


 足の付け根を真上に引っ張られるような痛みと、針を抜かれた爽快感が身体の中に混じる。痛みは一瞬でその後は何ともなかった。


 仰向けで安静にしたままベッドは看護師によって病室に運ばれた。銀河は採取したものを検査に回す。そして息をゆっくりと吐いた。


 井園の“あの姿”を見て心が揺れた。綺麗な肌に注射針を刺すのをためらいそうになるぐらいに。彼が痛みに耐えていたあの背中を、ずっと忘れられないかもしれない。



 ※※※



 夕方になり、井園の骨髄検査結果が出る。早速銀河は彼の部屋に入って話す。個室なので2人きりだ。


「井園、調子はどうだ」

「銀河先生……大丈夫……じゃないんでしょう? もう僕は……」

「……検査結果が出た」

「……」

「指定難病だ」


 井園の顔から音もなくすべての力が抜けていく。銀河はただ傍で、それを見ていることしかできなかった。

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