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第3話 二人の暮らし

「あれ?テアもしかして俺のこと意識してる?」


「してません」


テアは綺麗に神父の仮面を被り直してセラフィムの服を洗い始めた。


「嘘だね。こっち見ろよ」


「見ません。いつまでもはしたない格好をしてないでシーツを巻きつけなさい」


テアはゴシゴシとセラフィムの服を洗うが、焦りからか、力を入れ過ぎてシャツからビリリと音がした。


「あ」


「……問題ありません。私は裁縫も上手なので」


「俺も裁縫は得意だ」


「えっ?」


テアが驚いて振り返ると、してやったりの顔をした半笑いのセラフィムと目が合った。


「……嘘でしょう?」


「ああ、俺は嘘が得意だって言ったよな」


確かに、そんなことを言っていた。

……だがそれより、テアはセラフィムの半裸から目が離せなかった。

細身の身体に綺麗に付いた筋肉。傷一つないその身体は完璧で、まるで芸術品だ。


「おいで」


少し血管の浮いた、大きな手が差し出される。こくりと喉が鳴って、炎に吸い寄せられる羽虫のようにテアの体がくらりと傾いだ。


後一歩。

後一歩進めばその手に堕ちる。



「……セラフィム」


「……なんだ?」


バシャッ!!!


「うわ!冷てぇ!何するんだ!」


「……当然の報いです」


テアは洗濯のために用意してあった水を、セラフィムに思い切りぶちまけたのだ。


「ひどいな……」


「どっちがですか。そうやって人を惑わせるのはやめなさいと言ったでしょう」


「……ちっ」


よほど驚いたのか、普段は隠している黒い羽根が、背中でしっかりと自己主張していた。


「聞こえてますよ。ほらそのバケツにもう一度水を汲んで来てください。それと黒い羽根をあちこちに散らかさないでください」


「分かったよ」


セラフィムは器用に羽根をしまい、バケツを持って水場に向かった。その背中に「早くシーツを着なさい」と小言を言ったテアは、彼の姿が見えなくなるなり、地面にへたり込んだ。


(危なかったー!僕には大切なラファエルがいるのに!)


大きく深呼吸して気持ちを整えながら、心の中で必死になってラファエルの姿を思い起こす。


(ラファエルどこにいるの……早く来てくれないと僕は淫魔の餌食になっちゃうよ……)


そう呟きながらも、テアは理解していた。今世でラファエルと会えるなんて、奇跡でも起きなければ無理だと。


けれど、夢の中で自分が感じている彼への想いはどうしたって諦めることの出来ないものだ。


(僕とラファエルは前世で最後まで添い遂げたんだろうか。そうだとしたら今世でもきっと会える)


 夢は断片的で時系列もバラバラだ。

このまま夢を見続けていれば最後に二人はどうなったか分かるだろう。


「よし、一時の気の迷い。僕はちゃんとラファエルが好きだ」


テアは自分に言い聞かせるようにそう言うと、洗濯を再開した。





それからも幾度となく、びしょ濡れの格好でセラフィムは教会を訪れた。

考えてみたらこのあたりは先日から梅雨に入った。雨が多いのも仕方ないだろう。

一度なんて熱があるのか赤い顔で現れたものだから、テアは仕方なくセラフィムに教会の中の一室を貸し与えた。


勿論、テアの部屋から一番遠い場所で、更にテアが自分の部屋に頑丈な鍵を取り付けた後で、だが。


「分かってますね?梅雨が終わるまでですからね?」


「はいはい、分かってるよ。それにしても本当にガードが固いな」


「当たり前です。私は貴方とどうこうなるつもりは一切ありませんから」


「……酷いな。一緒に暮らそうって言われたら期待するだろ。この人でなし」


人でない者が人に向かって人でなしだと?

そもそも一緒に暮らそうなんて言ってない。『部屋が余ってるから梅雨の間だけ使っても良いですよ』だ。


「……文句があるなら出て行ってください」


「……分かったよ。いいさ、一緒に暮らしたらチャンスも増えるってもんだからな」


「……はあ」


本当に分かっているんだろうか、この淫魔は。


「お前を堕とさないと魔界に帰れないのに……」


「それは私のせいではありません。さっさと諦めるのも一つの手ですよ」


「……諦めないからな」


セラフィムはプイッとそっぽを向くと、ドスドス音を立てて自室に戻り、バタン!と扉を閉める。


(何だあれ。拗ねてんの?子供みたいで可愛い)


テアは、吹き出しそうになりながら、閉まったドアを眺めた。






翌朝。久しぶりの快晴に気分よく目覚めたテアは、ご機嫌で厨房のドアを開けた。けれど、思いがけない惨状に悲鳴を上げそうになった。


「あああ……一体これはどうして……!」


厨房の片隅、保存食を並べていた棚の下には、見事にひっくり返った蜂蜜の壺。

床はねっとりと甘く、蠅が飛び回り、蟻が群がっている。


「セラフィム!!!」


「あー……すまない」


起きたばかりで寝ぼけ顔のセラフィムは、寝癖のついた髪に前をはだけたシャツ姿で、開けきらない目をしばしばさせて厨房を覗き込む。


「いやでもさ、ちょっとだけパンに塗ろうと思っただけなんだ。ちゃんと元に戻すつもりだったんだけど……」


「途中で飽きて投げ出したと?」


(……夜中のつまみ食いを早急に止めさせなくてはならない)


「飽きたんじゃなくて、甘い蜂蜜にテアを思い出して、急に顔が見たくなったんだよ」


「……それで放りっぱなしに?言い訳は蜜壺より甘いですね……いえ、それより私の顔って……まさか部屋に入りましたか?」


あんなに強固な鍵を掛けたはずなのに。


「俺は悪魔だぜ?ドアなんかいくらでもすり抜けられる」


どやぁと声が聞こえて来そうな顔をしているセラフィムだが、テアの無言の圧力に負けて、渋々と「もう、しません」と謝った。

そしてどこからか雑巾を持ち出して床を拭こうとしている。


「お待ちなさい。蟻ごと拭き取る気ですか。塵取りで下から掬い上げて裏庭に逃してきなさい」


「あーなるほど」


結局、二人で蜂蜜を綺麗にしたころには、すっかり日がのぼり、洗濯のタイミングを逃してしまった。


「せっかくの快晴だったのに……」


「……怒ってる?」


「いいえ。起こってしまった事は仕方ありませんから」


「それより思ったんだが、共同生活って、こういうの大事だな」


「……蜜壺を倒すことが、ですか?」


「違うわ。喧嘩して、仲直りするっての」


「喧嘩?私は怒っていませんが」


「……はいはい。落ち着くまで付き合ってあげますよ、神父様」


「だから怒ってません!」


セラフィムはいたずらっぽく笑いながら、手についた蜜をペロリと舐めた。


「……あなた、ほんとに悪魔ですね」


「うん?まあプロの淫魔だからね。……でも、テアが本気で怒ったら、俺たぶん立ち直れない」


(なんてずるい男なんだろう)


テアは意識を逸らすために、すっかり遅くなってしまった朝食の準備に取り掛かる。



「……なんだか、こういうの家族みたいだな」


「え?」


テアは、ふとセラフィムが漏らしたその言葉に驚いた。悪魔にも家族なんて概念があるのか。


「……どうして?」


「だって人間が他の人間と暮らすのを『家族』って言うんだろ?」


「えーーっと、少し違いますね」


やはり知らないのか。だがテアも、家族とはどういうものかを説明する事なんて出来ない。……テア本人も捨て子で家族などいないのだから。


「……ふうん」


セラフィムはテアの顔をじっと見つめた。


「俺、神父でも人間でもないけど。テアの家族にしてもらえるのかな」


「……パンケーキが焼けたのでテーブルまで運んでください」


テアはその問いには答えず、そのまま背を向けた。

セラフィムと家族になることは出来ない。けれど、それを口に出すほど冷酷な人間でもないのだ。


(きっと時が解決してくれるだろう)


こうして、ふたりの生活はゆっくりと過ぎて行く。けれどそれは確実に変化していった。


すれ違いもあれば、笑い合う日もある。

確実に、テアの心の中には“セラフィムの居場所”が少しずつ出来て来つつあった。

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