「……そろそろ、出て行かないとな」
晴天が続いたある日、洗濯物を干していたセラフィムが、ぽつりと呟いた。
「え?」
テアは驚いて、手にしていたタオルをぎゅっと握った。
「梅雨、もう明けたろ。約束だからな」
その言葉には、冗談めいた軽さがなかった。
ふざけも皮肉もなく、どこか寂しげで、それがかえってテアの胸をざわつかせた。
「……これから本格的な夏ですよ。あんな日差しの中に出て行って……焼かれて灰になりたいんですか?」
「はは、案外いいかもな。恋に敗れ炎に包まれて消える淫魔、ちょっと詩的じゃないか?」
何が恋だ。
体だけだと、神父を落としたら淫魔の勲章になると。そう言ったのは、自分ではなかったのか。
「……」
「まだ……いてもいいって事なのか?」
テアは一瞬だけ黙り、そして目を逸らした。
「……好きにすればいいです」
「お、今のちょっと優しかったな」
「気のせいです」
「嘘だ。お前、顔に出るタイプだから」
セラフィムはいたずらっぽく笑いながら、そっとテアの頬に手を伸ばした。
「……やめてください」
口では拒絶しながらも、テアはその手を振り払うことはできなかった。
指先が触れるだけで、心が揺れる。
(馬鹿馬鹿しい。こんな淫魔の手管に絆されて)
そう思っているのに、少しずつ近づいて来る整った顔を避ける事が出来ない。魂を抜かれたみたいに、ただその時を待っている。
「テア……」
いよいよ……という所で、テアの耳にドアを開けるような音が届いた。
「……誰か来たみたいです」
「え?」
「礼拝堂のドアです。信者の方かもしれません」
「えー??それ今言う?いいとこだったのに」
セラフィムは、本気で悔しがっている。けれどテアはホッとした思いで礼拝堂に急いだ。
(危なかったー!危うく淫魔の罠にハマる所だった)
この来客は神の導きに違いない。いや、むしろ神かもしれない。道に迷った旅人だったとしても、親切にもてなそう。
「どなたですか?」
テアは礼拝堂にいた男に声をかけた。リュックを背負っているところを見ると、やはり旅人のようだ。
「すみません、人がいるとは思わなくて……旅をしています。一晩の宿をお貸しいただけないでしょうか」
「はい……どう……ぞ?」
聞き覚えのある声。
煌めくような金髪にすらりと高い背丈。
「ありがとうございます」
そう言って振り向いた翠の目は、何度も夢の中で会っていた、ラファエルその人だった。
「——ラファエル……?」
思わず口をついて出た言葉に、テアはハッとして口を噤む。もし本当にラファエルだったとしても、彼が前世の記憶を持っているとは限らないのだ。
……けれど、ラファエルはテアを見て、嬉しそうに破顔した。
「テア」
「……え?記憶が……あるのですか?」
まるで夢を見ているようだった。
テアの指先がわずかに震える。
「……勿論だよ。やっと、見つけた。僕はテアを探すために旅をしていたんだ」
「ラファエル……」
「ようやく会えた」
彼の白く長い指がテアの手を握る。そしてそのまま、テアの小柄で薄い体を抱きしめた。
「会いたかったテア」
「……私もです」
「……テア?それは誰だ?」
セラフィムの声に、テアはハッと我に返った。そして、罪悪感に似たバツの悪い気持ちでセラフィムの方を振り返る。
「……私の……思い人です」
「……そっか、会えて良かったな。部屋を空けるよ」
「……え?」
「もう『梅雨』は明けたし。世話になったな」
微笑みすら見せずに、セラフィムはそう言って背を向ける。
けれど——
「待ってください、セラフィム」
テアは思わず彼を呼び止めていた。……どうして?そんなこと分からない。ただ、ここで彼を帰してしまったら、もう二度と会えない気がしたのだ。
「……出ていかなくていいです。部屋なら他にもあります」
「……本気で言ってるのか?」
セラフィムの声には、いつもの軽薄さがなかった。
驚きと戸惑い、そして……かすかな希望が滲んでいた。
テアはその目を真っ直ぐに見つめた。
視線の奥にあるものを、探すように。
「はい。……貴方がいないと、この広い教会を掃除出来ないでので」
その瞬間、セラフィムがふわりと笑う。そして、背中に黒い翼が大きく広がった
「ちょ!セラフィム!」
悪魔だと知られたらどんな目に遭わされるか分からないのに!
……だが、ラファエルは何も言わない。恐る恐る彼を見ると、その視線はテアに注がれていた。
(もしかして彼にはセラフィムの翼が見えないのかな)
それなら安心だが。
テアは早く羽根をしまうようセラフィムに目で合図する。
……だが、その時
真っ黒なはずの羽根の中に、白い羽根が混じっているのが見えた。
(え?どうして?……いや、それは後だ)
今はとにかくセラフィムを出て行かせないことの方が先決だ。
「テア?彼は誰だい?……もしかすると僕は会いに来るのが遅かったのかな」
ラファエルの言葉に、テアは慌てて手を振った。けれど、『違う』というただ一言が、喉に引っかかって出て来ない。
「……テア、前世僕たちは共にいた。けれど今、君の隣にいるのは、彼なんだろ?」
ラファエルの声音は穏やかだったが、そこには覚悟があった。
「僕は君を迎えに来た。でも、それが君の望むことでないなら、無理強いはしない。君の中に僕がいないなら、そう言ってくれ。僕はこのまま帰るよ」
「……っ」
心が引き裂かれそうだった。
(私の思い人はラファエル。でも……セラフィムの言葉が、行動が、今の私を支えてくれていた)
テアは、自分の中で混ざり合う感情をどうしていいか分からなかった。
「……ごめん、自分でもよく分からない」
震える声で、テアは言った。
ラファエルもセラフィムも、その言葉にしばらく沈黙する。
けれど——
「いいぜ」
セラフィムが、先にそれを破った。
「答えが出るまで、俺はここにいる。最初から叶わないと思ってたんだから、考えてくれるだけでもラッキーだ」
「僕も、本音を言うと、ようやく会えた君を諦めたくはない」
ラファエルも、静かに同じ言葉を返した。
「では……とりあえず夕食にしましょうか」