その夜、三人で囲む夕食の空気は、とてつもなく重たかった。
ラファエルは昔の話をし、テアは少しずつ、かつての自分を思い出していた。
優しかった。正しかった。すべてを許してくれたラファエル。
そんな彼を自分は心から愛していた。
けれど――
(何かが違う)
だが、テアには、それが何か分からなかった。
⸻
「ラファエル、この部屋を使ってください」
食事が終わると、テアはセラフィムの隣に彼の部屋を用意した。
窓を開け、埃を払い、急いでシーツを整える。
「……テアと同じ部屋では、ダメなのか?」
「……神様の前で不謹慎ですよ。前世、私たちはただの人間でしたが、今世の私は神に仕える身なのです」
「……淫魔と暮らしてるのに?」
「えっ?」
彼は分かっていたのだ。セラフィムの正体を。
「……神は、何人たりとも見捨てません。セラフィムは、闇雲に人を襲うような悪魔ではありませんし」
「そう思ってるのは、テアだけかもよ?」
ラファエルはそう言うと、テアをベッドに押し倒し、両手の自由を奪った。
「ラファエル!一体何を……」
夢の中の彼は、こんな無体な事をする人ではなかった。テアはラファエルの腕から逃れようと、必死に身を捩る。
「君の恋人は僕だ。そうだろう? それなのに、違う男なんか引っ張り込んで」
「違います! 離して!」
暴れても、体格の良いラファエルは一向に動じない。
馬乗りになった彼は、易々とテアのカソックの胸元を引きちぎり、白い喉元をはだけさせた。
「……いい加減にしてください。いくら前世で恋人だったからといって、こんな蛮行許されませんよ」
「でも、ずっと僕に会えるのを待っていたんだろう?」
「それは……」
確かに、そうだけど――。
「あはははは!!」
「ラファエル?」
「テアは面白いな。自分が殺した相手を恋しがって、ずっと待っているなんて。ラファエルがお前を許すはずないだろ」
「……は? どういう意味……」
驚いて見上げると、ラファエルの顔が、見る見るうちに醜悪な悪魔の顔へと変化していく。
「お前!!」
テアはポケットに入れていた十字架を相手の顔に押し付けた。
「うわああっ!!」
押さえつけられていた力が緩んだ隙に、テアは悪魔の下から這い出し、ドアに向かう。
その時、バチン、と音がして、部屋の蝋燭がすべて消えた。
「……おかしいと思った」
この声は――
「セラフィム!」
「テア、床に伏せろ」
テアは言われた通り、その場に蹲って、小さく体を丸める。
「は? なんだよ、お前、同じ悪魔だろ。……うっ?!……ああああああ!!!」
「一緒にするな。胸糞悪いな」
「すまん!! 違うんだ! 俺はただ……うわあああ!!!」
何かが擦り潰されるような音が響き、悪魔の絶叫が響き渡る。それは次第に小さくなり、しばらくして教会は元の静寂を取り戻した。
「もう動いていいぞ」
セラフィムの言葉と同時に部屋に灯りがついた。……けれどさっきの悪魔はもうどこにもいない。
「……セラフィム……」
か細い囁きに、セラフィムは抱擁で応えた。
そして、無惨にも破れてしまったテアの服を見て、不機嫌な顔でため息をつく。
「……悪かった。嫌な匂いがすると思っていたが、言えなかった」
テアがずっと彼を待っていた事を知っていたからだろう。セラフィムは時にとても不器用だ。
「……繕ってください。裁縫、得意なんでしょう?」
そんな風に揶揄ったテアに、セラフィムはようやく笑って、「高くつくぞ」と言った。
「僕に払えるかな……んっ!?」
テアを抱きしめたまま、セラフィムは喰らわんばかりの激しさで、青ざめた唇にキスをした。
「セラ……」
「黙れ」
(どうしよう、息ができない)
テアは、唇を塞がれたまま、ぎゅっとセラフィムの服の裾を握った。
強引で、乱暴で、それなのにどうしようもなく――愛しい。
やがて、セラフィムは息を吐きながら、ようやく唇を離した。
「……っ、何するんですか……」
唇の端が震えるのは怒りか羞恥か、もはや自分でもわからない。
「……ごめん。その格好を見たら怒りで少し取り乱した」
そう言って背を向けようとしたセラフィムの袖を、テアがぎゅっと掴んだ。
「セラフィム……」
その一言に、セラフィムの肩がぴくりと揺れる。
「さっきの悪魔に言われたんです。僕がラファエルを殺したって……」
「……あんな奴の言う事、嘘に決まってる。忘れろ」
「でも……」
(確かに夢の中の僕は、ラファエルに許しを乞いながら泣いていた……)
「寝ろ」
「え?」
「夢に見るんだろ?じゃあひたすら寝てればいつかその場面が見られるんじゃないか?憶測だけで悩んでいても仕方ないだろ」
「……ふふっ」
その一言で嘘のように気持ちが軽くなった。そうだ、寝て待て、だ。
「ありがとうございます」
「……こんな事で礼を言われてもな。本当に感謝してるなら一緒に寝てくれ」
「それはまたいつか」
「……しっかりしてるな。安心した」
それでも以前のテアであれは、もっと剣もほろろにセラフィムの言葉を切り捨てていただろう。
「ありがとうございました。助けていただいたことも含めて」
「まあお礼は言葉より体の方が……痛っ!足を踏むな!」
「あ、失礼しました」
しれっとセラフィムの軽口を中断させたテアは、思ったより落ち着いた気持ちで自分の部屋に戻った。そして早々にベッドに横たわり、今日の事を振り返る。
衝撃ではあった。あんなに会いたかったラファエルが偽物だったのだから。
けれど、自分が考えていたほど傷付いてはいない。
……そもそも会えた時は喜びより戸惑いの方が大きかった。それはどうしてなのか……。
「僕はいつの間にかセラフィムを好きになってしまったんだろうか」
静かな部屋で発した独り言は、思ったより響いて、テアは慌てて口を噤んだ。
もし、本当のラファエルが現れたら。自分はどうするだろう。どうしたいのだろう。
けれど、いくら考えても、その答えは見つかりそうになかった。