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第6話 テアの前世

鳥のさえずりが聞こえ、テアはゆっくりと目を覚ました。

眠ったつもりはなかったのに、気づけば朝になっている。仕方なくのろのろとベッドから起き上がり、憂鬱な思いで身支度を整えた。


……昨夜も夢を見た。


夢の中で、テアはひとりだった。

そしてただひたすら、泣いていた。


深い愛情だけでなく、悲しみや後悔、懺悔といった感情が、目覚めた後もテアを支配していた。

それほどまでの別れとは、一体どんなものだったのか。


(僕が殺したっていうのも、あながち嘘じゃないのかもしれないな)


もしそれが本当なら、ラファエルがテアに会いに来ることなどないだろう。

いや、復讐のためならあるかもしれない。それだけの事を、ラファエルにしてしまった気がする。


テアの見る夢は、どんどん現実味を帯びてきていた。

どちらが夢か現実か分からないほどに。

そのうち明らかになる真実を知るのが、テアは心底怖かった。



「目が覚めたか」


ふと、ドアの方を見るとセラフィムが立っていた。


「……鍵をかけていたんですけど」


「俺は悪魔だ。鍵なんて意味がない」


「ふふっ、そうでした」


確か以前にもこんな会話をしたことがあった。

……大丈夫。こっちが現実。夢に引きずられすぎてはいけない。


「朝ごはんにしましょうか……あれ?」


テアの目が、彼の広げっぱなしの双翼に注がれた。

真っ黒だったはずのその翼に、数本の白い羽根が混じっている。


「……そういえば昨日も」


「ん?」


セラフィムはちらりと自分の羽根を見る。


「気にするな。最近よくあるんだ。天使にでもなるのかな」


「淫魔が天使に? それはさすがにないんじゃないですか」


人間界に長居しているせいかもしれない。

それでもテアは、彼がいなくなるのは堪らなく嫌だった。


「まあいい。それより、ラファエルの夢は見たか?」


「見ましたが、進展はありませんでした」


ただ、よりリアルになっただけだ。


「そうか……まあ、でもゆっくり眠れてよかったよ」


そんな心配をするセラフィムこそ、目の下に酷い隈を作っている。一体何があったのだろう。


「……セラフィムは眠れなかったんですか?」


「……お前に感化されたのか、俺も一晩中夢を見てたんだ」


「え? どんな?」


「……半分くらい忘れたが、俺に恋人がいた。これもお前の言うところの“前世の記憶”ってやつか?」


テアは勢いよく布団を跳ね除け、セラフィムの元に駆け寄った。


「それは! 相手は誰でしたか?!」


もしかしたら……

彼はやはりラファエルで、その相手は自分ではないだろうか。

テアの心臓は期待に早鐘を打った。


「んー……俺と同じ淫魔だったな。職場恋愛ってやつかな」


「淫魔……」


……なんだ。


「……朝食にしましょう」


「あ? ああ……」


馬鹿みたいだ。

テアは心の中で自分を罵倒した。


(そんな都合よくいくわけがない。僕はセラフィムに惹かれていく自分に正当性が欲しいだけだ)


あんなに愛した人を忘れてセラフィムを好きになるなんて、許されることじゃない。

しかも、悪魔の言葉が本当なら、僕は彼をこの手にかけたのかもしれないのに。


「それにしても夢の中の淫魔はかなりの美形だった。しかもとんでもなく色っぽかった」


「……は?」


……色気だと? なにを言っている。人が真剣に悩んでる時に。

不機嫌になったテアは、セラフィムを置いて歩き出す。


「そうだ、今日から食事は各自で作りましょう」


「え? なんだよ急に。俺は料理なんてできないぞ」


「頑張ってください」


「テア?!」


セラフィムを置き去りに、テアはさっさと一人で厨房に向かった。



──────────


「昨夜も淫魔の恋人の夢を見たんだけど、これってずっと続くのか?」


「……どうして私に聞くんですか」


あの日以降、セラフィムはほぼ毎晩のように前世の夢を見続けているようだった。


「いや、テアも似たような夢を見てるだろ? 物語みたいに、最後まで見たら終わるもんなのか?」


「……私の場合は、同じ夢を見ることもありますし、時系列もバラバラです」


「そうか……でもな、夢を見るようになってから、他の記憶も少しずつ思い出してきたんだ」


「他の記憶? 貴方は記憶をなくしていたんですか?」


「ああ、ここに来る直前の記憶が曖昧だったんだ。それが少しずつ戻ってきてる」


それは前世の記憶とは違う気がするが……。


「……ここに来る直前って、神父を面白半分で堕としに来ただけでしょう?」


「……まあ、それは否定できない。淫魔の仕事だからな。でも、誰かと賭けをしていた気がするんだ」


「……私を堕とせるかどうか、ですか? 本当に貴方って最低ですね」


「悪かったって。でも、もっと他に何かあった気がするんだよな……」


真剣な顔でパンをかじるセラフィムは、無意識にパンくずをテーブルに落としていた。


「……ちゃんと片付けてくださいよ」


「あ? ああ、悪い」


手の動きに合わせて、背中の羽が小さく揺れる。白い羽根の数は、最初の数本からどんどん増えて、今や黒と白が半々ほどになっていた。


「そろそろ片付けて、寝ましょうか」


「ああ、一緒に寝てもいいか?」


「……ダメに決まってます」


「じゃあ、おやすみのキスだけさせて」


返事を待たず、セラフィムは甘い口づけをテアに降らせた。蕩けるように熱く、何度も唇を重ねながら、長い指でカソックの飾りボタンを弄ぶ。


「……セラフィム、もう……」


「……ああ」


苦しげな表情のまま、ようやくテアを腕の中から解放したセラフィムは、短く挨拶を残して自室へと戻っていった。


──初めてキスをしたあの日から、セラフィムは自然にテアに触れるようになった。その触れ方は、日に日に長く、濃密になっていく。


困るのは、それをテア自身が拒めなくなっているということだった。


「……神父失格だな」


自嘲気味にそう呟き、冷たい水を一杯飲み干すと、テアは静かに目を閉じた。


────


その夜、テアが見た夢は、今までとはまったく違っていた。


自分の背中に羽根が生えていて、空をふわふわと飛んでいるのだ。

見下ろす世界は、どこまでも穏やかで美しかった。


「テア」


どこかから、自分を呼ぶ声がする。

……漠然とだが、これはラファエルに出会う前の出来事だと、テアには分かっていた。


「ねえねえ、テア! 新しい“獲物”任されたんだって?」


そう言ったのは、黒い羽根に黒髪のあどけない顔をした淫魔の少年だ。


(……どうして僕は、淫魔と一緒にいる?)


「すごいなあ! テアなら絶対うまくいくよ。僕たちの中でも一番優秀だしね。あっ、あの人だよ!テアの獲物!」


少年が指をさした先には──金髪に翠の瞳を持つ、美しい天使がいた。


「なんて素敵な人なんだろう……」


少年が吐息を漏らす。テアもまた、その姿に目を奪われていた。


「あっ!そろそろ戻らないと怒られちゃうね」


「……うん」


先ほどの美しい天使を、もう少し見ていたかった。けれど帰らないと魔王様に叱られる。

仕方なくテアは、魔界へ戻る道を急いだ。


魔界の入り口には大きな黒曜石の門がある。そこに顔を映す事で通行証代わりになるのだ。

テアはいつものように、その前に立った。


だが…………


「……え?」


……そこに映っていたテアは、もちろん神父の姿ではなかった。だが、人間でもなかったのだ。

艷やかな髪、鋭い爪、背中から覗く小さな黒い翼。


それは、まぎれもなく──淫魔の姿だった。


(そんな……僕は、人間じゃなかったの……?)


記憶が、心の奥底からじわじわと浮かび上がってくる。

交わした言葉、指先の温もり、愛した想い。


──じゃあ、あの人が?


そのとき。

背後から、やわらかな光が降り注いだ。


振り返ると、そこには──


先ほど見た通りの真っ白な羽根を広げた、美しい大天使、ラファエルの姿があった。


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