目次
ブックマーク
応援する
7
コメント
シェア
通報

第7話 セラフィムの記憶

◇◇◆◆◇◇



セラフィムは自室のベッドに横になっていた。眠るには早い時間だったが、少しでも早く眠って夢の続きを見たいと思ったのだ。


「それにしても、どうして俺はあんなにテアに執着するんだろう」


悪魔が神父の召使のように教会の掃除をして洗濯や草むしりをしている。……考えられない。


淫魔は相手から精気を奪い、それを糧にする生き物だ。脈のない相手を振り向かそうと躍起にならなくても『魅了』という魔力を持っているので大抵の人間は言いなりにする事が出来る。


「たまに魅了が効かない奴がいるって言うのは本当だったんだな」


淫魔同士はもちろん効かないが、天界人にも効きが悪いと聞いた事がある。

天界人───つまり神や天使達だ。


「もしかしてテアは天使か?あれだけの美貌だ、もしかするとそうなのかも」


陽が当たると透けて金色になる綺麗な茶色の髪や、トパーズのような瞳。神父らしい禁欲的な詰襟から溢れ出る清潔な色気。


忘れてしまった誰かとの賭けのために地上に来たはずだが、今ではそんな事すっかり忘れて彼に夢中になっていた。


「ちゃんとすべてを思い出して、不誠実な態度を謝って、最初からやり直そう」


そうすれば彼は自分と一緒にいてくれるかもしれない。

そんなことを考えているうちに、セラフィムはゆっくりと夢の中に飲み込まれて行った。

眠りが深くなり、夢の世界が広がっていく。


けれどそれは、ただの夢ではなかった。魂に焼きついた、確かな記憶——。


* * *


永遠のように続く白い空。

そこは、感情に乏しく無表情な天使たちが、ただ「正しさ」のために働く世界だった。

その場所でラファエルは、天使として命じられたことを淡々と遂行するだけの日々を過ごしていた。


───そこに、突然彼が現れたのだ。


「はじめまして。名前を教えて?」


その悪魔——テアは、見るからに規律に反した存在だった。

こっそりと天界に忍び込んできた淫魔。最初は度肝を抜かれたラファエルだったが、彼のくるくる変わる表情や、生き生きとした仕草に惹かれ、他の天使たちの目を盗んでは、密かに逢瀬を重ねるようになっていた。


「どうして天使は笑わないの?つまらないね。……でも、こうして僕と隠れて会ってるラファエルは、他の人とは違う気がする」


……ラファエルは気づいていた。

テアは、ラファエルが好きでここにいるわけではない。淫魔たちは人の精気を喰らう。特に天界人の精気は上質で好まれるらしく、それが目当てなのだろうと。


そして、自分は、それを重々承知していながら——それでも、彼に惹かれていた。


悪しき者に近づいてはならない。それが神の律法。

だが、心は抗うことができなかった。


——そんなある日、テアがぽつりとつぶやいた。


「……君と一緒にいると、心が苦しくなる。

それが“好き”ってことなのかな。僕は、本当に君を好きになってしまったみたいだ」


その言葉を聞いたラファエルは、心から喜び、「自分も愛している」と告げた。

そして二人は、嬉しさに涙しながら、初めて心を重ねた。


だが、それは言ってはならない言葉だった。

ラファエルにとって、それは滅びを意味する。


「どうして言ってくれなかったんだ……! 君が消えることになるなら、こんな風にはならなかった!」


それでも構わない、とラファエルは言った。

たとえ消えようとも、それまでの時間を共に過ごせたなら本望だと。


けれど——

テアは、彼を突き放した。


「もう飽きたんだ。……君なんか、もうどうでもいい」


その声は冷たく、乾いていた。

ラファエルが手を伸ばした時、彼の背はすでに遠ざかっていた。


……けれど、ラファエルは知っていた。

その背中が、わずかに震えていたことを。

決してこちらを振り返らなかったことも。


* * *


「私は彼を愛しています」


神の前で、ラファエルはまっすぐに言い放った。


「もしこれが罪だというのなら、どうぞ罰を与えてください。

ですが、私は彼と過ごした日々を悔いてなどいません」


その言葉と共に、ラファエルの白い羽根は黒く染まり、光の国から堕ちていく。


けれど、その瞳には確かな決意が宿っていた。


「テア。もう一度——必ずお前に会いに行くよ」


◇◇◆◆◇◇


——夢から目覚めたセラフィムは、静かに涙を流していた。


(……そうか。あれがテアだったんだ)


天使としての自分。

そして堕とされた記憶。

けれど、一番大切なのは、その感情のすべてを与えてくれたテアの存在。


天から堕ちたセラフィムに、神はひとつだけ加護を与えた。


『いつか再び巡り合い、お互いが愛しい存在だったと思い出せたとき、その時は——』


「……テア」


彼を思って微笑むセラフィムの羽根は、今やすっかり真っ白になっていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?