翌朝。
いつものように厨房で朝食の準備をしているテアのもとに、セラフィムが現れた。
「テア、話があるんだ」
「……後にしてもらえますか」
テアは振り向きもせず、セラフィムの顔すら見ようとしなかった。
(僕は……精気を吸うために、天使だったラファエルに近づいた。そして、彼を騙して堕天させたんだ)
セラフィムがここへ来たのは、前世の恨みを晴らすためかもしれない。そう思った瞬間、テアは胸を粉々に砕かれるような痛みを感じた。
「じゃあ、テーブルを準備しておくよ」
「はい……お願いします」
足音が遠ざかり、テアはようやく肩の力を抜く。
(こんな自分が、今さら実はセラフィムが好きでした、なんて……烏滸がましくて言えない)
何を言っても、きっと言い訳にしか聞こえないだろう。
諦めるしかないのだ。今この瞬間さえ、抑えきれない恋心を。
彼は、テアに騙されて天界を追われた。そして魔界に堕とされたのだ。
……ここを去ろう。
神父を辞めて、どこか遠くの田舎町でひっそり暮らそう。
けれど、もう二度と彼と会えないと想像しただけで、身を切られるようなつらさがテアを襲った。
⸻
「いただきます」
「はい、……! セラフィム!」
「ん?」
「貴方……髪が……」
黒かった羽根が白く染まりはじめたように、真っ黒だった彼の髪にも、ところどころ淡い金が混ざっている。
やはり――彼は、ラファエルだったのだ。
「……テアのおかげだ」
「な、何がですか?」
まさか、もう前世をすべて思い出したのか?
彼から憎しみの目を向けられるかもしれない。そう思った瞬間、テアはこのまま消えてしまいたくなった。
「俺は前世の最後に、神から加護を与えられた」
「……加護?」
「そう、加護というか……呪いというか」
「呪い……?!」
そんな馬鹿な。
堕天させられ、命を奪われ、淫魔にまで転生させられたというのに? 神は、どこまで非情なのか。
「ここに来て、テアが俺に気づかなければ……俺の命は、もう終わる予定だった。……でも、思い出したんだろ?」
「お、思い出したというか、夢で見たんです……」
「俺もだよ」
――ああ、すべて知られてしまった。
テアは、ぎゅっと目を閉じた。
「神は言った。
テアが俺のことを思い出してくれたら、そのときは……」
「……そのときは?」
テアの喉が、ごくりと緊張の音を鳴らす。
「お前は救われる、と。テアと同じ人間になれるんだ」
「えっ……」
「一緒に暮らそう。今度こそ、誰にも咎められない。俺たちは……もう、許されたんだ」
「セラフィム……でも、僕は淫魔だったから……貴方に魅了をかけただけかもしれない。だから……」
「俺の気持ちは本物だ。なんたって天界人に淫魔の魅了は効かないからな」
「……え?本当に?」
テアの目に溜まっていた涙が、ぽたり、とひと粒頬を伝い落ちた。
けれど、今のそれは悲しみではない。
あたたかな陽の光のように心を包む、柔らかな喜びの涙だった。
セラフィムはその頬に指先を添え、静かに笑う。
「やっと……会えた。ごめんな遅くなって」
「セラフィム……」
言葉はそれ以上いらない。二人はいつまでも抱きしめ合っていた。
◇◇◆◆◇◇
その日の夜、月が高く昇った頃、セラフィムがそっとテアの部屋のドアをノックした。
「……一緒に寝てもいいか?」
「……ええ」
テアはベッドに腰掛けて彼を迎えた。……もう覚悟は出来ている。とうとう彼と夜を迎えることが出来るのだ。
「……テア、キスだけ……いいか?」
「……え?キスだけ?」
何故?晴れて恋人同士となったのに?テアは首を傾げる。
「……だってテアは神父だろ」
「そうですが、明日にでも辞めるつもりです。僕は多分、貴方への贖罪で神父になったんだと思います」
もうその必要はないとばかりに、テアはセラフィムをうるんとした目で見上げた。
「……だが、ここは教会だし」
「セラフィム、いいことを教えてあげましょう」
コホンとひとつ咳払いをしたテアは、敬虔な信者に向けるような微笑みをセラフィムに投げかけた。
「僕が神父でいる最後の夜です。明日からは普通の人なんですよ」
「……?そうだな?」
「どうせなら神父の僕を抱いてみたくないですか」
「……テア?」
……セラフィムは忘れていた。テアは元淫魔なのだ。それも凄腕の。記憶を取り戻した彼に怖いものなど何もない。
「……今世は無垢なのでどうぞお手柔らかに」
テアはカソックのボタンをひとつだけ外してセラフィムに向かって微笑んだ。
たったそれだけで、全裸より淫靡な雰囲気がテアを包む。その姿はセラフィムにとって、とんでもない破壊力があった。
「高潔で崇高な存在。テアはその自分を穢せと言っているのか?とんだ魔性の神父だ」
セラフィムの声は欲望に掠れている。テアは喉の奥で小さく笑った。
「今夜は……貴方を僕のものにしたい」
そう言って、テアはセラフィムの太ももに腰をかけ、ゆっくりと距離を詰める。
その手は軽やかにセラフィムの胸元をなぞり、彼の鼓動を探るようにぴたりと重なった。
「……おかしいな。俺も今は淫魔なんだけど」
「なに? やめてって言えば、やめるよ?」
悪戯な声。穏やかで、甘やかで、でも逃がさない声。
ふいに、セラフィムの耳元に唇が触れた。
ぞくりと、背筋に何かが走る。
柔らかな笑みの下に隠していたのは、誰よりも深い執着と、揺るぎない自信。
まるで自分がどれほど魅力的かを知り尽くしているかのように、テアはセラフィムの唇に触れ──
「……あ」
触れるだけの口付けのつもりだったのに。
舌先が触れた瞬間、セラフィムの身体は熱を帯びて動けなくなった。
「……やめてなんて言うわけない。もっとテアが欲しい」
セラフィムが、ぼそりとこぼしたその瞬間、テアは花が咲くように綺麗に笑った。
その夜、セラフィムは彼を抱きしめ、何度もその名を呼びながら深い深い快楽に堕ちていったのだ。
──翌朝。
「……なあ、テア。昨日のあれ、ずるくないか?」
「どれのことですか?」
とぼける声も、からかうような瞳も、どこまでも優しくて意地悪だ。
「……あーもう、お前が好きだよ」
「知ってます。僕も好きです」
朝の光の中、テアの笑顔はやっぱり魔性そのものだった。
その後、——ある街にて
人通りもまばらな石畳の小道が続く、どこか懐かしい風情を残した地方都市。
古い屋根の並ぶレンガ造りの街並みに、教会の鐘がやさしく響く。
テアとセラフィムは、その街のはずれにある小さな一軒家でもう随分と長いこと一緒に暮らしていた。
赤い屋根に、白い壁。
裏には手入れの行き届いた小さな菜園。仕事を引退してからは、テアは毎朝そこに出て、ハーブやトマトを摘むのが日課だった。
「……コーヒー入ったよ」
テアがカップを手にリビングに入ると、セラフィムはソファに座って新聞を読んでいた。——今はもうすっかり、歳をとってしまったが、ちゃんと人間の姿だ。
「ああ、ありがとう」
「今日の市場は鯖が安いみたいだよ。晩ごはんは煮魚でいいかな」
「魚も好きだけど……できればテアが作るミートパイがいいな」
「仕方ないな。少しだけね?お医者さんに怒られちゃう」
「うん」
本当は好きなものを何でも食べさせてあげたい。教会を出てからもう五十年。セラフィムは深刻な病に冒されていて、寿命は残り僅かしかない。
それを聞いた時は絶望に打ちひしがれたテアだが、それも人間になれた証だと、そう思うことにした。
「テアはもっと食べた方がいい。俺に付き合って粗食でいる必要はないんだから」
「うん、わかった。ちゃんと食べるよ」
後少し……。
見た目よりずっと繊細で寂しがりなセラフィムのために、テアは彼より少しでも長く生きるつもりでいた。
一日、そう、たった一日でいい。
セラフィムを失ったら自分だってもう生きている意味はないのだから。
「じゃあ買い物に行って来るよ」
「俺も行く。テアは人気者だから心配だ」
「こんな爺さんに何の心配をしてるの?」
「テアだって、幾つになっても妬きもちやくだろ」
「それはそうだけど!」
ふたりは声をあげて笑い合う。
そこには、かつての葛藤も、悲しみもない。ただ、心からの幸せがあるだけ。
小さな台所に立ち並んで、野菜の皮をむき、食卓を囲み、夜にはふたりで古い映画を観ながら眠ってしまう。
そんな何でもない日常が、どれほど愛おしいものかを、ふたりはもう知っている。
ときどき昔の夢を見ることもある。
けれど、今ではそれすら、過去を思い出すやさしい記憶として心に溶け込んでいた。
「セラフィム?」
「ん?」
「今度、生まれ変わっても……また僕を探してくれる?」
「当然だろ?……絶対に見つける。たとえ記憶がなくても、何度でも惚れるよ」
「……かっこいいな」
「なんせ淫魔を虜にした大天使様だからな」
赤く染まる夕暮れの窓の向こう、ふたりの笑い声がいつまでも静かな街にこだましていた。