「実は昨夜、知人とあの近くで飲んでたんだ。もちろん興味本位で踏み込むのは失礼だし、行く気は本当になかったんだよ。でもちょっと酔ってたし迷ったみたいで……。気づいてすぐ引き返そうとしたところで、佐倉を見掛けて──」
内容が内容なので、南条は見るからに言い難そうだ。
やはり外で、誰がいるかもわからない往来では、あんな話など止めておくべきだったのか? けれどあのまま店内で続けていたら、最悪逃げられなかったかもしれないのだ。
突然の出来事に回らない頭で済んだことをあれこれと考えながら、とにかく瑞貴は南条に見られたことについて言い繕おうとした。
──あれはちょっと、絡まれただけで。俺もそんな場所だって知らなかったんです。地方出身だし、あんまり繁華街とか詳しくないから、だから。……こんなの通じるのか? 地方からって言っても、もう三年目なんだし。
なんとか誤魔化せないかと必死であれこれ考えるが、上手く考えが纏まってくれない。瑞貴は必死で打開策を見出そうとしていたが、どうやらそんな努力も無意味だったとすぐにわかる。
いったいどこから見ていたのか、彼は二人の会話もある程度は聞こえていたらしい。つまり、瑞貴がその場限りの男遊びをするつもりだったこともわかってしまったということだろう。
だが南条があまりのことに立ち竦んでいるうちに、瑞貴が走り去ってしまったのだと言う。
「確かに佐倉はもう成人してるし、ああいうところに行っても別に問題ないと言えばないよ。それにしても、ちょっと、その……、あれはないんじゃない?」
顔を顰めながらの講師の苦言に、瑞貴は素直に頷けなかった。
「大学の……、研究とか課題とかそういうことならなんでも、いくらでも聞きますよ。先生の言うことなら。当然ですけどね」
ここで反論するのは得策ではないと十分わかってはいたが、それでも堰を切ったように溢れた言葉が勝手に口を衝いて出て来てしまう。
「でも、プライベートまで口出しするのは越権行為じゃないですか? 俺は遊んではいても、大学生活に影響するようなことはしてません」
瑞貴は無表情のまま、ただ気持ちの籠らない言葉を並べて行った。
──第一さぁ。俺が遊び過ぎて留年しようが退学しようが、そんなのアンタに関係ないだろ。
「確かに褒められたことじゃないのは否定できません。でもたかが自由恋愛ですよね? 金が絡んだ売り買いをしてるわけでもないですし」
金について細心の注意を払っているのは本当だった。
そういった些細なことから綻びが出るのは避けたかったからだ。僅かな金で拗れたり恨みを買ったりするのは御免だ。そういう揉め事は、決して別世界の出来事ではないとよく知っているからこそ。
昨日の男にあの店の代金を払わせなかったように、瑞貴は基本的に自分が飲み食いした分は自分で負担する。金銭的に余裕などないのは確かだが、それでも金で身体や心を売り渡すことだけはしないのが何も持たない瑞貴の最後のプライドだ。
「俺は今までトラブルなんて起こしたことはありません。こう見えても注意はしてるんです」
実際には脇が甘いにも程があったことを思い知らされたわけだが、あくまでも昨日の出来事こそがイレギュラーだと瑞貴はまだ安易に考えていた。
しかし南条はさすがに超一流大学出身で頭脳明晰、何故この程度の大学にいるのかとさえ囁かれているだけあって瑞貴に言い包められてはくれない。
「自由恋愛、ね。それは恋愛なのかな? 本当に?」
南条が皮肉を込めて発したのかどうかまではわからないし、それ自体はたいした問題ではなかった。
なのに彼のその言葉が、瑞貴は自分でも驚くほど気に障ったのだ。神経を逆撫でされたような気がして。
それはそうだ。心の底では瑞貴自身でさえも、己がしていることが『恋愛』だなんて欠片も思っていない。
ただ必死で見ない振りをしていたかっただけだ。真正面から向き合ったりしたら瑞貴は、自分を保っていられない、かもしれない。八つ当たりだとわかってはいても、南条を責める言葉が身のうちのどこからともなく次から次へと湧き上がって来るのを抑えられなかった。
何故、気づかせるのか。
どうしてわざわざそんなことを南条に、赤の他人に思い知らされなければならないのだ。
「……佐倉。君さ、もっと自分を大切にした方がいいんじゃないか?」
南条の台詞には、特に蔑みは感じられなかった。
──へぇ、さすが真面目で頭の切れる大学のセンセイは言うことが違うよな。こんなこと真顔で面と向かって言えるヤツ、ホントにいるんだ。アンタすげーよ。
南条がそういう人間だというのは、単に研究室の講師と学生というだけの関係でしかない瑞貴でさえ知っている。それでも自分に対して投げ掛けられたその文言は、瑞貴にとっては心に響くものではなかった。
そんなカタチだけの陳腐な言葉に、どれほどの意味があるというのだ?
「だったら」
言うつもりなどはない筈の、言ってはならない言葉が瑞貴の口から零れる。
「だったら、先生が俺を愛してくれるんですか?」
──愛されたい。俺は愛されたいんだよ! 一時だけでも、身体だけでも、それでもいいから温もりが欲しい。寂しい、……寂しい。だから、俺は──。
本当は瑞貴にもよくわかっている。自分のしていることが所詮その場凌ぎに過ぎない、何の意味もないことであるくらいは。だからこそ、南条にそこを突かれたのは痛かった。
「できないでしょう? できるわけないですよね。それなら放っておいてください」
言い捨ててソファから立ち上がり歩き去ろうとした瑞貴の肩に、南条が手を掛けて強引に押し留める。「何を……」と言い掛けた瑞貴に、彼の口から出たのは想定外の言葉。
「……わかった。じゃあ僕と付き合おう」
不思議なほど何の色もない声で、静かにそう告げる。
「だからこれからはもうあんな風に、男を漁るような真似は止めなさい」
──いや、この人何言ってんの? 俺をバカにしてんのか? そもそも『じゃあ』ってなんなんだ、話繋がってねぇだろ。売り言葉に買い言葉かよ。
「博愛主義もいい加減にした方がいいですよ。俺と付き合うって意味がわかってないんじゃないですか?」
普段なら決して教員という立場の人間に対しては使わないような、呆れ果てた口調が出てしまった。
「ただ一緒に過ごすだけのお友達が欲しいんじゃない。俺は『愛して』って言ったんです。俺の話、ちゃんと聞いてくれてましたか?」
「もちろん聞いてたし、ちゃんとわかってるよ」
南条が、相変わらず感情の読めない抑揚のない声で言う。
──そんな悲壮な顔してさ。仕方ないから付き合ってやる、抱いてやる、って? それで俺がどんなに惨めな思いをするか、あなたみたいな人にはわからないんだろうね。きっと。
「……なら今からホテルでも行きましょうか。愛してくれるんでしょう?」
それさえもいいよ、と簡単に受け入れる南条に少し呆れて、それでも瑞貴は何ひとつ撤回する気はなかった。
さっきの南条より今の自分の方がよほど『売り言葉に買い言葉』だと理解できないままに、瑞貴はその場の感情だけで続ける。
「先生の家でもいいですよ。俺は今更だけど、先生は男とホテルに入るところなんて万が一誰かに見られたりしたら大変ですもんね」
瑞貴が挑むように試すように吐き出す露悪的な言葉に、南条は微かに狼狽を見せた。
「そう、だね。できたらホテル、じゃない方が──」
「じゃあホントに南条先生の家でいいですか? 俺の家はボロアパートなんで、狭いし音も筒抜けだから」
有無を言わせぬ瑞貴の圧に、彼はゆっくりと頷いた。
「……いいよ、そうしよう」