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【第3話】①

 すぐにでも帰れる状態の瑞貴は、とりあえず南条がいったん研究室に戻って帰り支度をしてくるのを旧館の前で待っていた。


「先生の家に行く前に、寄りたいところがあるんですけどいいですか?」

「どこ?」

 大学を出て駅に向かいながら提案する瑞貴に、南条は首を傾げた。


「ドラッグストア。必要なものがあるでしょ?」

 端的に告げると、彼もさすがに理解したようだ。


「……あー」

 普段『遊び』に出掛ける予定がある時は、大抵前もってバッグに避妊具とローションは入れておく。

 もちろん銘柄に拘りさえなければ街中でも簡単に手に入れることはできる。ただ、売っているかどうかではなく、いざというときに買えるタイミングがあるかの方が大事だった。出会った勢いで外でなどは絶対に承諾などできないし、もし相手が望んだとしたらその時点で決裂するのは確実だ。

 そんなケースは論外だとしても、その手のホテルなら大抵用意はあるとはいえ行き当たりばったりでなんとかなるかでは済まない。

 我が身を守るためにも絶対に欠かせない重要なものだからこそ、出来たら自分の納得のいく品を使いたいというのもあった。


 しかし、昨日の今日でそんな用意はしていない。昨日はもちろん持っていたが、嫌な思いをしたこともあってしばらく慎もうかと帰ってからわざわざバッグから出して来たのだ。自分にブレーキを掛ける意味も込めて。

 まさか今日、こんな展開になるなんて想像もしていなかった。それでも絶対に外せないものだから、これから買いに行く以外に選択肢はない。

 南条が家に常備しているとは思えなかった。真面目な大学教員とはいえ「男」なので、避妊具はあるかもしれない。だが、さすがにローションは無理だろう。存在くらいは知っている可能性はあっても、見るからに堅物のこの講師がローションなんて今までに見たことも使ったこともないとしても瑞貴には特に驚きもない。


 南条の自宅近くの店ではない方がいいだろうと、大学の最寄り駅の近くのドラッグストアに入る。

 適当に馴染みの銘柄の商品をカゴに放り込んだ瑞貴に、彼は「支払いは僕が」とカゴを受け取ってレジに向かった。店先でぼんやり立っていた瑞貴の元に、買い物を済ませた南条がやって来る。

 ほとんど口を開かなくなった彼と連れ立って駅へ向かい、その後をついて改札を通った。電車の中でも二人とも無言のままで、唯一南条が「次だから」と呟くのを聞いて電車を降りる。


 駅から少し歩いて、辿り着いた彼の自宅。

 特に高級でも新しくもなさそうな、とはいえ瑞貴の住まいであるアパートとは比べるべくもない、2DKの中層マンション。

 南条は確か三十歳ではなかったか。研究室の自己紹介のときにちょうど瑞貴より十歳年上なのだなと思った覚えがあるが、記憶違いだろうか? 大学の教員なんてもっといい部屋に住んでいるのかと瑞貴は思っていたのに、彼の住まいは庶民的というのかごく普通だった。


「あの、客を通せる部屋がないんだ。寝室と仕事部屋しかなくて」

 ダイニングキッチンで困ったように言う南条に、瑞貴はお構いなくと告げてさり気なく部屋を見回す。開いたドアの向こうがベッドルームらしい。広いわけではないがきちんと片付けられていて、南条の性格が表れている、と感じた。

 いきなり他人を呼べる家にまず驚いた。もちろん単なる学生である瑞貴に気を遣う必要など彼にはないだろう。しかし、常に部屋がこの綺麗な状態を保っているという証左だ。



    ◇  ◇  ◇

「南条先生、先に風呂入ってください」


 ──他人の家に来て、風呂入れって何様だよ。でも、俺が黙ってたら何も動かない気がするからなぁ。


「あ、うん。わかった」

 初めて来た瑞貴に仕切られたことなどまったく気にする素振りもなく、南条は素直にバスルームへ向かった。そんなことに気を回す余裕など、今の彼にはないのかもしれない。

 彼が風呂を使っている間、瑞貴は勧められたダイニングテーブルの椅子に座って待っていた。

 南条が戻って来るなり、瑞貴は彼がテーブルの上に置いたドラッグストアの袋を開けて、中身を取り出す。

 そして家の主に断ってドアが開いたままになっている隣のベッドルームに入り、避妊具の箱をヘッドボードに置いた。落ち着いたトーンで纏められているこぢんまりとした部屋の中で、派手な色合いのパッケージが存在を主張しているようだ。


「俺も風呂に入らせてもらっていいですか?」

 頷く南条に「タオルは出してあるから」と言われ、瑞貴はローションを持ってバスルームへ向かった。

 受ける印象からしても、南条は男相手は初めてなのではないだろうか。だから彼とのセックスは、すべて瑞貴が取り仕切る必要がある。

 もともと瑞貴は、ベッドで相手にすべて委ねてしまう方ではない。逆に何もしようとしない相手に、一方的に『奉仕』するような関わり方も好きではなかった。

 いくらその場限りでもはっきりと心理的な上下関係ができてしまうのは嫌だったから、そういう部分も事前の『品定め』には入っていたのだ。

 本当にその気なのか、できるのかは知らないけれど。


 おそらく、というより間違いなく、南条がこんな愚行を了承したのはその場の勢いでしかなかっただろう。あの時点では、自分が取ることになる行動について深く考えた結果だとは思えなかった。

 一応大学から移動してくる間に考える時間はあったわけだが、有能で鳴らす講師にしては頭が働いていたようには見えなかった。むしろ思考停止状態でここまで来てしまったのではないだろうか。

 だからこそ彼がベッドで瑞貴と、つまり紛れもない男と向かい合うことで、改めて「男を抱くのだ」という現実を直視したらどういう反応を示すかわからない。瑞貴はまったくその気のない相手と寝た経験などはなかったからだ。

 今までいろいろなタイプの男と関係を持ったし、中には「こんな筈じゃなかった」というケースもなくはない。それでもすべて事前の同意が大前提だった。

 そもそも瑞貴自身が乗り気になれないなら誘うこともしない。受け身側であるからには相手がやる気でなければどうしようもないのだから、どちらにしても同意を求めるのは当然なのだが。


 ……どうせ無理に決まっている。今頃後悔して、どう断るかの言い訳でも考えているのではないのか?

 いざその時になって拒絶されたとしてもなるべく傷つかずに済むように、心に予防線を張るのだけは忘れずに。

 瑞貴は洗面所で着ていたものをすべて脱ぎ捨てると、ローションのボトルを掴んでバスルームの戸を開けて狭いスペースに踏み込んだ。特に何の変哲もないと思われる、一般的なマンションのバスルーム。

 いけない。余計なことは考えるな。雑念を払うように頭を一振りして、瑞貴はおもむろにシャワーのコックを捻る。

 頭上から降り注ぐ湯で僅かに残っていた迷いを洗い流すと、瑞貴は淡々と己に下準備を施した。


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