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【第4話】①

 すべてが終わったあと。

 繋がりを解いて身体を離した瑞貴は、まるで魂が抜けたかのようにどさりとベッドの南条の隣に身体を投げ出した。

 仰向けのままでというよりは、身体を伸ばしている気分ではないのかもしれない。片側の腕を下にした姿勢で手足を縮めるようにして丸くなり、何かに耐えているかのような表情でぎゅっと目を閉じている。


 解放されて両肘をつきながらのろのろと上体を起こした南条は、そんな彼に目をやって口を開きかけたが言うべきことが何も見つけられずに唇を引き結んだ。

 とりあえずはそのままになっていた避妊具を外して始末する。機械的にティッシュに包んで、南条はそれをベッド脇のゴミ箱に投げ入れた。そして自分もまたベッドに横たわると、無意識のうちにすぐ傍で黙って目を閉じている瑞貴と向かい合う姿勢で手を伸ばして、髪をそっと撫でた。

 途端に、まるで何らかのスイッチが入ったかのように彼が目を見開く。いきなり至近距離でバチっと目が合って、南条は思わず息を呑んだ。さらに。


「なんで。何してるんですか?」

 見るからに動揺している瑞貴の問い掛けに、南条はわけもわからず混乱してしまう。

 ただの手遊てすさびで、何も考えずにやってしまっただけだった。目の前の、つい今しがた身体の関係を持った相手の髪を撫でた、ただそれだけのこと。


 もしかして、こういうことはよくなかったのか?

 男同士には特別な流儀がある、とか? いや、たとえそうだったとしてもこれくらい普通のことではないだろうか。

 わからないなりに考えてはみるが、そもそも自分がそんな大層なことをしたとも思えないので瑞貴の反応の意味はまったく想像もつかなかった。セックスに纏わる習慣や価値観など、まさに人それぞれだろうし『普通』も何もないのかもしれないけれど。

 仮定するにしても瑞貴が一体何にそんなに驚いているのか、それ以前に本当にこれが驚きなのかも判別できていない状態では考えようにも無理がある。

 触られるのが嫌というわけではないだろう。そんなことを言っていたらセックスなどできない。キスは嫌、という人間がいるのはたまに聞いていたし、それはまだなんとなくわかる気もするのだが。

 南条には一切そんなつもりはなかったものの、例えば「女扱いするな」という怒りならそれはそれで理解もできる。それにしても、ここまで驚いたり狼狽えたりするようなことではないはずなのに。


 もしかしたら。

 南条は今までとはまったく別の角度から思い当たった『理由』に、頭の芯が冷えて行くのを感じた。


 ──この程度のことさえ知らなかったのか? この子はいったい、今までどういう関係を、どんな、男と。


 正直なところその瞬間まで南条は、この行為について『抱いた』というより『何かさせられた』に近い感情を抱いていた。まるでこの教え子に勝手に身体を使われたかのような。自分が確かに承諾しておきながら、被害者かのように振る舞うのはお門違いだとわかってはいる。

 それでも自分の中にそういう感情があったのは否定できなかった。それが今の瑞貴の様子を見たことで、すべてがひっくり返された気がしたのだ。


 ──僕は、何か読み間違えていたのか?


 偉そうに「自分を大切に」などと説教じみたことを口にしておきながら、南条は心のどこかで瑞貴は好んでそういう刹那的な生き方をしていると感じていたような気がする。

 別に同性愛者でなくとも、決まったひとりに縛られたくない、自由気儘に遊んでいたいという男は確実にいる。瑞貴もその部類なのかと。彼がまだ大学生で、二十歳という若さなのもその考えを後押しした。

 そういった思考や行動は南条の倫理観では決して許容できるものではない。だからと言って自分の物差しに合わないものを無条件で否定するほど狭量ではないつもりだった。正直まったく理解はできないが、見下す気もまたない。


 ただし行き摺りの不特定多数相手というのだけは、野放しにするわけには行かなかった。万に一つも公になってしまった場合に、瑞貴単独の問題で済むとは思えないからだ。彼がいくら「金は介在しない」と言っても、そしてそれが真実であるとしても。

 瑞貴がどこまで意識しているかはわからないが、彼の身分はあくまでも『青和大学の学生』なのだ。いまの時代、センセーショナルな事象が起これば「一学生がしたことで、大学は無関係」という正論が通るとは限らない。

 もちろん大学主体での余程のやらかしでもない限り、表立って大学そのものにペナルティが課されることなどはないだろう。しかし現実に怖いのは、そんな正式な処遇などではないのだ。「あの大学の学生が」と引き合いに出されれば、無関係の他の学生をも巻き込む可能性も高い。場合によっては、この先もずっと長く引き摺ることにもなりかねないのだから。

 南条自身にしても、苦しかった非常勤講師の掛け持ち時代を経て専任講師として採用してくれた大学を守りたい気持ちも強かった。


「研究さえできればそれでいい。収入より研究環境が大事」

 そう本心から断言できる南条でさえ、最低限の収入がなければ生活が安定せず研究に専念すること自体ができなかったのだ。まだ若く目立った実績があるわけでもない自分を拾ってくれた青和大学に対して、南条は感謝と愛着を抱いている。

 母校でもないのに母校愛的な、と表現するのもそれはそれでおかしいのかもしれないが。

 ああいうことはなんとかして止めさせなければ、と佐倉の挑発に乗るようにこんなことをしてしまった。南条自身、あの程度のことをどうして受け流せなかったのか今思い返してもわからないくらいだ。


 ──僕はまるで大学を一人で背負って立っているみたいな顔をして、大学を守るために我が身を呈した気分にでもなっていたのか。……そんな自分に酔って、いたんだろうか。


 南条は学生時代からリーダーになることも多かったし、今は実際に教員として研究の傍ら学生を教え導く立場にいる。自分とは相容れない考え方や価値観の人間と接することも珍しくなかったし、そういう相手を力で押さえつけることなくあしらうことなどそこまで難しくもなかった筈なのに。

 ああ、そうか。今ようやく、何かがわかったような気がする。南条は自分でも意外なくらい、落ち着いた凪のような気持ちで、瑞貴のことを考えていた。

 意識しないようにしていたのだと今ならわかるが、瑞貴に対して自分が確かに覚えていた筈の、苛立ちや怒りにも似たその類のマイナスの感情も綺麗に消え去っている。

 瑞貴があんな危うい真似をしてまで欲しがっていたもの。そんなことで手に入るわけがないと、おそらく彼自身わかっていながらも止められずに追い求めていたもの。それらを南条が与えてやることができる、のかもしれない?

 南条の中で、輪郭さえもあやふやだったものが少しずつ形を作って行くその過程。


 ──いや違う。してやるとかそういうことじゃない。僕が、そうしたいんだ。佐倉の喜ぶ顔が見てみたい。佐倉が笑ったら僕は、きっと嬉しい。そう、なんだ。


 自分の心にあったとは思えない感情とそこから導き出された結論に、南条は思わず起き上がりそうになったが、すぐ傍らでいまだ放心状態でいるらしい瑞貴を驚かせてしまいそうでなんとか耐えた。

 ──僕は、……この子が、このなんとも困った学生が可愛い。愛しい、んだ。なんてこった。

 まるで一夜にして、どころかほんの数時間で人生観ががらりと変わってしまったかのような状況に、南条は茫然としてしまう。

 それでも、傍らの瑞貴が愛しいという気持ちだけは偽りではないとわかっていた。


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