冷たい風が王都の街を吹き抜ける。冬はまだ先だというのに、人々の服装はすでに厚手のマントやコートに変わっていた。
だが、それでも寒さは肌を刺し、何より彼らの胃袋を苛んでいた。
この王国は今、未曾有の飢饉に襲われていた。
長雨と冷害によって主食用の硬質小麦が壊滅的な被害を受け、市場からはパンの香りが消えた。代わりに並ぶのは干からびた芋や高騰した豆類ばかり。庶民たちは口々に嘆き、飢えを抱えて日々を過ごしている。
「パンがないんだって……」
「貴族様たちは、きっとお腹いっぱい食べてるに決まってるよな……」
そんな声が、あちこちで囁かれるようになっていた。
実際、わずかに流通している硬質小麦は、王侯貴族たちの手によって買い占められていた。
それを使って作られる白パンやパスタは、庶民の口には決して届かない。権力者たちは相変わらず豪勢な食卓を囲みながら、庶民の飢えに心を寄せることはなかった。
だが、そんな王都の片隅で――ある令嬢は、違う視線を持っていた。
「……これは、国家の怠慢ですわね。民が飢え、貴族が太るなどという構図が、今なおまかり通っているとは」
美しく、冷ややかな声が、静まり返った書斎に響いた。
フォーマルハウト公爵令嬢、アルキオーネ・フォーマルハウト。
雪のように白い髪と、氷のような瞳。王都の貴族たちの間では“氷の薔薇”と呼ばれ、恐れられている存在である。
「クラリス。市中の小麦価格の推移と、流通ルートの確保状況は?」
「はい。硬質小麦の市場在庫はもはや壊滅的です。貴族商会が先回りして押さえており、庶民に渡る分はほとんどありません。一方で、軟質小麦は今のところ通常通り流通しております」
「ふふ……それなら話は早いですわね」
アルキオーネはゆったりとティーカップを手に取り、笑みを浮かべた。
「パンがなければ――お菓子を食べればいいのですわ」
使用人たちが一斉に凍りつくような沈黙を落とす。
それはかつて、どこかの王妃が言ったとされる最も傲慢な言葉。
民の苦しみを嘲笑う愚かなセリフとして伝わるその一言を、アルキオーネは、あろうことか真顔で口にしたのだ。
「……お嬢様、それは……皮肉でございますか?」
「皮肉ではありません。方針ですわ」
そう言って、アルキオーネは机上の地図を広げる。
軟質小麦。それは本来、パンには不向きで、焼き菓子やケーキといったスイーツに使われる穀物だ。
だが、それを薄焼きにして乾燥させれば、栄養価は低いながらも保存が効くクラッカーや乾パンとなる。少なくとも、何も食べられずに餓死するよりはよほど良い。
「幸い、フォーマルハウト家には製粉場も、菓子工房もございます。わたくしが直接、製造と配給を指示します。クラリス、軟質小麦の買い付けを開始して。目標は、王都の在庫の七割ですわ」
「七割……!? それは、上級貴族たちに知られれば、何を言われるか……!」
「何を言われようと構いませんわ。どうせこの身、すでに“悪役令嬢”と蔑まれているのですもの」
アルキオーネの視線は冷たいままだった。
王侯貴族が独占した硬質小麦は、もはや庶民に届かない。
ならば自分が、代用品をもってその命を守る。
「パンがないので、お菓子を食べさせます――それが、わたくしのやり方ですわ」
その日から、フォーマルハウト家は本格的な軟質小麦の買い占めに動き始めた。
そして数日後、王都のあちこちで、不思議な現象が起こる。
あるスラムの片隅。
毛布にくるまりながらぐったりしていた子どもが、配給された乾パンを頬張って、笑った。
「おいしい……! ……これ、ほんとに食べていいの……?」
ある日雇いの職人が言った。
「公爵家の馬車が粉袋を大量に運んでたの、あれ、全部スイーツ用の粉だったのか……!」
そして噂が広がる。
「なあ、フォーマルハウト家が軟質小麦を使って、クラッカーを配ってるらしいぜ」
「本気かよ……あの“氷の薔薇”が?」
一方で、上級貴族の社交界では、奇妙な空気が流れ始めていた。
「ねえ聞いた? 最近、アルキオーネ様、妙に軟質小麦を買い漁ってるって」
「スイーツでも作るつもりかしら? こんな時期に? ふふ、まさかね……」
彼女が“本当の敵”に目を向け始めたことに、まだ誰も気づいていなかった。