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『パンがなければお菓子を――悪役令嬢、飢えと革命の記憶』
『パンがなければお菓子を――悪役令嬢、飢えと革命の記憶』
ゆる
異世界恋愛悪役令嬢
2025年06月24日
公開日
3,768字
連載中
飢饉に揺れる王国。貴族たちは硬質小麦を買い占め、民衆は飢えに苦しんでいた。 そんな中、ひとりの令嬢が静かに立ち上がる。 名門フォーマルハウト家の令嬢、アルキオーネ。 彼女は言い放つ。 「パンがないなら、お菓子を食べればよろしいのですわ」 その日から、彼女は“悪役令嬢”と呼ばれた。 だが、彼女の本当の目的は——民を飢えから救うこと。 軟質小麦を買い占め、貴族の特権を封じ、民にクラッカーを支給し続ける彼女は、やがて革命の中心へと躍り出る。 冷酷と呼ばれながらも、密かにパンも菓子も断って民と苦しみを分かち合った令嬢。 彼女が最後に選ぶのは、剣でも権力でもなく、紅茶と恋文。 これは、「悪役令嬢」としての仮面をかぶり、国家を救ったひとりの少女の、革命と再生の物語。

第1話 悪役令嬢、飢餓を知る

 冷たい風が王都の街を吹き抜ける。冬はまだ先だというのに、人々の服装はすでに厚手のマントやコートに変わっていた。


 だが、それでも寒さは肌を刺し、何より彼らの胃袋を苛んでいた。


 この王国は今、未曾有の飢饉に襲われていた。


 長雨と冷害によって主食用の硬質小麦が壊滅的な被害を受け、市場からはパンの香りが消えた。代わりに並ぶのは干からびた芋や高騰した豆類ばかり。庶民たちは口々に嘆き、飢えを抱えて日々を過ごしている。


「パンがないんだって……」

「貴族様たちは、きっとお腹いっぱい食べてるに決まってるよな……」


 そんな声が、あちこちで囁かれるようになっていた。


 実際、わずかに流通している硬質小麦は、王侯貴族たちの手によって買い占められていた。

 それを使って作られる白パンやパスタは、庶民の口には決して届かない。権力者たちは相変わらず豪勢な食卓を囲みながら、庶民の飢えに心を寄せることはなかった。


 だが、そんな王都の片隅で――ある令嬢は、違う視線を持っていた。


「……これは、国家の怠慢ですわね。民が飢え、貴族が太るなどという構図が、今なおまかり通っているとは」


 美しく、冷ややかな声が、静まり返った書斎に響いた。


 フォーマルハウト公爵令嬢、アルキオーネ・フォーマルハウト。

 雪のように白い髪と、氷のような瞳。王都の貴族たちの間では“氷の薔薇”と呼ばれ、恐れられている存在である。


「クラリス。市中の小麦価格の推移と、流通ルートの確保状況は?」


「はい。硬質小麦の市場在庫はもはや壊滅的です。貴族商会が先回りして押さえており、庶民に渡る分はほとんどありません。一方で、軟質小麦は今のところ通常通り流通しております」


「ふふ……それなら話は早いですわね」


 アルキオーネはゆったりとティーカップを手に取り、笑みを浮かべた。


「パンがなければ――お菓子を食べればいいのですわ」


 使用人たちが一斉に凍りつくような沈黙を落とす。


 それはかつて、どこかの王妃が言ったとされる最も傲慢な言葉。

 民の苦しみを嘲笑う愚かなセリフとして伝わるその一言を、アルキオーネは、あろうことか真顔で口にしたのだ。


「……お嬢様、それは……皮肉でございますか?」


「皮肉ではありません。方針ですわ」


 そう言って、アルキオーネは机上の地図を広げる。


 軟質小麦。それは本来、パンには不向きで、焼き菓子やケーキといったスイーツに使われる穀物だ。

 だが、それを薄焼きにして乾燥させれば、栄養価は低いながらも保存が効くクラッカーや乾パンとなる。少なくとも、何も食べられずに餓死するよりはよほど良い。


「幸い、フォーマルハウト家には製粉場も、菓子工房もございます。わたくしが直接、製造と配給を指示します。クラリス、軟質小麦の買い付けを開始して。目標は、王都の在庫の七割ですわ」


「七割……!? それは、上級貴族たちに知られれば、何を言われるか……!」


「何を言われようと構いませんわ。どうせこの身、すでに“悪役令嬢”と蔑まれているのですもの」


 アルキオーネの視線は冷たいままだった。


 王侯貴族が独占した硬質小麦は、もはや庶民に届かない。

 ならば自分が、代用品をもってその命を守る。


「パンがないので、お菓子を食べさせます――それが、わたくしのやり方ですわ」


 その日から、フォーマルハウト家は本格的な軟質小麦の買い占めに動き始めた。


 そして数日後、王都のあちこちで、不思議な現象が起こる。


 あるスラムの片隅。

 毛布にくるまりながらぐったりしていた子どもが、配給された乾パンを頬張って、笑った。


「おいしい……! ……これ、ほんとに食べていいの……?」


 ある日雇いの職人が言った。


「公爵家の馬車が粉袋を大量に運んでたの、あれ、全部スイーツ用の粉だったのか……!」


 そして噂が広がる。


「なあ、フォーマルハウト家が軟質小麦を使って、クラッカーを配ってるらしいぜ」

「本気かよ……あの“氷の薔薇”が?」


 一方で、上級貴族の社交界では、奇妙な空気が流れ始めていた。


「ねえ聞いた? 最近、アルキオーネ様、妙に軟質小麦を買い漁ってるって」

「スイーツでも作るつもりかしら? こんな時期に? ふふ、まさかね……」


 彼女が“本当の敵”に目を向け始めたことに、まだ誰も気づいていなかった。





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