バイオリンが軽やかなワルツを奏でる。華やかなドレスで着飾った大人たちのざわめきが、私たちを包んだ。振り仰いだ天井にはクリスタルのシャンデリアが煌めき、バルコニーから見下ろした庭園には黄色い薔薇が咲いていた。それは私のドレスと同じ色でとても美しかった。
くるくるくるくる。
楽しいね
目が回っちゃう
私は小さな男の子にエスコートされ、ワルツを踊っていた。彼がぎこちなく私の手を引いた。その顔はもう覚えてはいないけれど、左手には光るブレスレットがあった。そして握ったその手の温もりや胸のときめきは、今も忘れない。
ーあれから何年が経ったのだろう
サラ・アナベル、私の朝は早い。
「んはっ!ゆ・・・夢か!」
寝返りを打つとギシギシと音を立てる簡素なベッドの上で、私は飛び起きた。背中が痛い。寝ぼけ眼で時計を見ると、午前五時をすぎていた。
「いけない!寝坊しちゃった!」
カーテンを開けると朝靄がカザエルの街を覆い、白く霞んで見えた。私は慌てて質素なブラウスとスカートに着替え、エプロンの紐を締めた。鏡を覗けば、鳥の巣のようなブロンドの髪。
「ああ!もう!」
私は髪をリボンで一つにまとめ、木靴を履いた。階段を慌てて駆け降りると、木靴がカポカポと音を立てた。
「おはようございます!」
「あぁ、サラ、遅いよ!」
「すみません!」
私に注意したのはこの店の女主のロレッタだ。ロレッタは私にこっそりタルトの切れ端を持たせてくれた。彼女は、遅刻はダメだけど働き者なのは認めるよ。とぶっきらぼうに言った。
「はい、これ」
私はロレッタから、両手で抱えるほどの大きなバスケットを手渡された。
「いいかい?バスケットがいっぱいになるまで戻って来るんじゃないよ!」
「分かりました!」
「魔獣には気をつけな」
そう言ってロレッタは笑った。私はコクリと頷くと、バスケットを持って朽ちかけた木の扉を開けた。
「行ってきます!」
白い月が浮かぶ、誰もいないカザエルの街。私は湿り気を含んだ早朝の空気を、思い切り吸い込んだ。鳥の鳴き声に振り向くと、看板の上で二羽のスズメが仲睦まじく毛繕いをしている。木の看板には”ロレッタ洋菓子店”と彫られていた。ここが私の第二の住まいだ。
(急げ!急げ!遅れちゃう!)
私は石畳を走り、生い茂る枝を掻き分け森に入った。遠くで騎士団の馬の蹄の音が遠くで聞こえる。初めの頃は、ブナの木立の中に魔獣がいるのではないかと恐る恐る足を進めたが、今では慣れたもので、平気な顔で急な傾斜もヒョイヒョイと登れるようになった。
(魔獣の噂は子供騙しだけど、最近は騎士団が森を回っているって・・・なにか探しているのかしら?)
あれこれと考えながら小川の橋を渡ると、樹々の隙間からカザエルの街を見下ろす大きな屋敷が見えた。白亜の城と呼ばれる、アナベル伯爵邸。二ヶ月前まで私はあの屋敷に住んでいた。
私の名前はサラ・アナベル。伯爵令嬢だ。
(あの屋敷の窓から見えた景色はもう私のものじゃないのね・・・)
そんな私が、見窄らしい洋服を着てカザエルの街の片隅で暮らしている。これには訳があった。
おとぎ話でよくある話だ。実の母親が病気で亡くなると、いつの間にか新しい母親と妹が食卓のテーブルに着いている。この役立たず!あっちへお行き!そして義母と義妹たちが屋敷のなかで自由気ままに振る舞い、前妻の娘を虐めるというあのパターンだ。
(そんな暮らしは懲り懲りよ!)
私は伯爵家を抜け出し、街の掲示板で寝泊まり可能な仕事を探した。伯爵家では義母の言いつけで、皿洗いやジャガイモの皮剥きをさせられた。仕事では、その経験を活かそうと考えた。
(働くならやっぱりカフェかレストランよね・・・)
私は伯爵令嬢とは書かずに雇い主へ手紙を書いた。そしてロレッタの店で働くことになった。
これまで着ていた豪華なドレスや宝石は街の質屋に持ち込んだ。質屋の主人は、こんなドレスは初めて見た!と目を輝かせた。私は手にした金貨で街娘が着るワンピースや木靴を買った。そして、母親の形見の指輪を手に、意気揚々と伯爵家を後にした。
(あー!気分晴れ晴れ!次よ、次!)
私は自由な鳥になった。
ロレッタの店には森の木の実をふんだんに使ったタルトが並ぶ。私の毎朝の仕事は森で木の実を集めることから始まる。こんな時は、義母から受けた辛い仕打ちを思い出すこともある。低く屈んでの仕事は辛い。けれど私は鼻歌混じりでカシスの実を集めた。なぜそんなに機嫌が良いのか?その理由は、毎日のように窓辺のテーブルでカシスのタルトと紅茶を注文する男性がいるからだ。プラチナブロンドの髪、グレーの瞳。私は髪を掻き上げる姿に釘付けになった。
(あの人は、新聞屋さん?牛乳屋さんなのかしら?)
私が木の葉だらけで森から帰る時、朝靄の中で彼と出くわすことが度々あった。店員と客という顔見知り程度で、軽く会釈をすることはあっても話し掛ける間柄でもなかった。
そしてロレッタの店の時計が正午を打つと、木の扉が開きウィンドゥチャイムが彼の来店を報せる。私の心臓は跳ねた。彼はいつも、カザエルの市場が見渡せる窓辺の席に座る。私が震える手でメニューとグラスを運ぶと、彼は目を細め、いつものタルトと紅茶を下さい、そう言って微笑むのだ。彼の微笑みに触れる度、私は胸に温かいものが広がるのを感じた。
「カシスのタルトと、ミルクティーでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
不意に、二人の視線が絡まった。彼のグレーの瞳に私が映った。時間が止まったような気がした。すると厨房からロレッタが、いつまでオーダー取ってるんだい!と声を大にした。私は小さく舌を鳴らしたが、それを彼に気取られないように最高の笑顔を作った。
「サラ、またあの男が来てるね」
「そうですね」
勝手に屋敷を抜け出したとはいえ、私は伯爵令嬢だ。庶民とは身分が違いすぎる。この恋はどう足掻いても成就することはない。ああ、残念・・・・ミルクティーを淹れながらチラリと見ると、彼は肘をついて窓の外を物憂げに眺めていた。グレーの瞳が光に透けて美しかった。
(なにを考えているんだろう)
ロレッタはタルトを温めながら、カザエルの市場は最近、隣の国の商人が増えて賑やかだけど、よそ者が増えるのはちょっとねぇ・・・・と、他の客に愚痴っていた。確かに、色々な肌や髪の人が増えた。
(あのグレーの瞳も珍しいわよね)
私が彼を見つめていると、ロレッタが急かすように背中を叩いた。
「はい、カシスのタルト出来上がったよ」
「はい!」
「よそ見してこぼすんじゃないよ」
ロレッタは、なにか言いたそうな含み笑いでトレーを私に持たせた。私はカシスのタルトとミルクティーをゆっくりとテーブルに運んだ。
「お待たせしました」
「あぁ、ありがとう」
彼の言葉使いは丁寧で、流れるような動きでフォークとナイフを握った。そして彼はタルトを食べる時、いつもフォークを置いて私を見上げて微笑むのだ。
「このタルト、森の味がするね」
「森の味、ですか?」
「あなたが森で摘んできたのでしょう?」
彼は、私が森で木の実を集めていることを知っていた。私は嬉しさで胸がいっぱいになった。ふとその時、彼の袖口から貴石が嵌った銀色のブレスレットが見えた。そのブレスレットには見覚えがあった。私の視線に気づいた彼は、ブレスレットをさりげなく隠した。
(この人、新聞屋さんじゃないの?)
その輝きに心がざわついたが、なぜだか思い出せなかった