昼の仕事が終わり、私はロレッタに頼まれてカザエルの市場に買い出しに来ていた。市場には色とりどりのテントが並び、香ばしい焼き栗の匂いがした。
「ん〜!いい匂い!これじゃお腹が空いちゃうよ〜!」
そして、行き交う人の騒めきの中に、異国の言葉があちらこちらから聞こえて来た。ロレッタが言うように、隣国からの移民が増えたのだろう。いらっしゃい、いらっしゃい、片言言葉の男性が、露店で装飾品を売っていた。
「こんにちは、見てもいいですか?」
「嬢ちゃん!ドミトリーにしかない、魔獣除けのお守りもあるよ」
「そんなの信じないわ」
私は胡散臭いネックレスを手渡されて眉間にシワを寄せた。
「じゃあ・・・これはどうだい?」
商人はアクセサリーの布を、露店いっぱいに広げて見せた。金や銀の指輪、ネックレス、貴石の埋め込まれたブローチ。どれも美しかった。けれど私の目は引き寄せられるように、ひとつのブレスレットに留まった。
「わぁ、綺麗・・・!」
「着けてみるかい?これはドミトリーで採れた石だよ」
ドミトリーとは隣国の名前だ。私はお言葉に甘えて、銀のブレスレットを手首にはめてみた。全体にあしらわれた透明な貴石は、太陽の陽にかざすと深い湖のようなブルーに変わった。
(・・・・あの人のブレスレットの石とよく似ているわ)
正午ちょうどに店に現れる、グレーの瞳をした彼を思い出した。
(でもあの人の石は・・・もっと深い青だったかしら?)
私は一眼でそのブレスレットが気に入った。値段は5ルクス、買えない値段ではない。けれど硬貨は部屋の布袋の中だ。
「これ、取っておいてもらえますか!?」
「あぁ、いいよ」
「夕方、午後の六時までに来ます!」
「急がなくてもいいよ、うちは夜中までやってるからね」
露天の商人は、待っているよ、と笑顔で手を振った。私は慌てて小麦粉を買いに、石畳を木靴の音を鳴らして走った。市場を走り抜けて店に戻ると、午後の陽が厨房の窓を照らしていた。そして、厨房から漂うタルトの甘い香りが私を迎えた。
「遅かったじゃないか、混んでたのかい?」
「はい、ごめんなさい!」
「いいんだよ、ほら、お駄賃だよ」
ロレッタは1ルクスを私の手に握らせてくれた。さほど儲けもない中から、ロレッタは身寄りのない貧しい娘にこうしてお駄賃をくれる。まさか目の前の雇人が、伯爵令嬢だとは思いも寄らないだろう。
「市場のあのドミトリーの連中、声がデカくて参るよね、まったく」
「でも、面白いものも売っていましたよ」
私はなんだか少し申し訳ないような気がした。そして、ロレッタの温かい手に、かつて母親が握ってくれた手の温もりを思い出した。
カランカラン
「ありがとうございました」
「おいしかったよ、また来るよ」
夕陽が傾く頃、最後の客が席を立った。時計を見ると午後五時をすぎていた。私は慌ててテーブルを片付けようとして、誤って花瓶を返してしまった。ロレッタに見つからないように花を拾い、花瓶に差した。急いでキッチンダスターでテーブルを拭いた。その様子に気付いたロレッタが、腰に手を当てて呆れた顔で言った。
「サラ、なにをそんなに急いでいるんだい?忙しない」
「ごめんなさい!」
「なに、どうしたんだい?」
私はカザエルの市場で出会ったドミトリーの露天商のことを打ち明けた。ロレッタは、それなら早くお言い。行っといで、と厨房を片付け始めた。
「ドミトリーの物は高くて偽物が多いから気をつけなよ?」
「ありがとうございます!」
私は階段を駆け上がると、ベッドのマットレスの下から硬貨の入った布袋を取り出した。布袋の中から4ルクス取り出したが、いつも焼き栗を分けてくれるロレッタに、彼女の好物の焼き栗を買って帰ろうと思い、布袋ごとワンピースのポケットに入れた。
「行って来ます!」
「暗くなる前に帰るんだよ!」
「はい!」
夕方のカザエルの街は昼の様子とは全く違っていた。馬車の音や遠くから聞こえる喧騒。私には初めて見聞きするものばかりだった。
(素敵!素敵だわ!)
噴水広場には大道芸人が樽の上に乗って逆立ちをしていた。テントの上にはランタンが仄かに明かりを灯し、幻想的な光景が広がっていた。
(えーと、どこだったっけ)
私が背伸びして見回すと、ドミトリーの露天商のテントが見えた。ワンピースのポケットの中でジャラジャラと音を立てる硬貨。私の目には、あのブレスレットしか見えていなかった。いきなり、ひとりの男が私にぶつかり、あぁ、ごめんよ。と言ってすれ違った。私は失礼な人だな、と思い立ち止まった瞬間、ポケットの重みが消えていることに気が付いた。
(・・・・え!?)
私が戸惑っていると、露天商が慌てて立ち上がった。
「お嬢ちゃん!あんた金を盗られたんだよ!」
「・・・えっ!」
確かに、ワンピースのポケットの中の布袋がなくなっていた。私は踵を返した。石畳で木靴が滑り転びそうになった。
「待って!お金!お金を返して!」
私は顔色を変えてその背中を追った。けれど誰も彼もが知らんふりで、商人の呼び声や子供の笑い声が耳に響き、男の背中を隠すように人波が動いた。男は人混みに紛れ、私はとうとうその姿を見失ってしまった。
(どうしよう、私の全財産・・・)
布袋の中には、豪華なドレスを質屋に入れた時に換金した金貨も入っていた。
(質屋で手放したドレスの金貨まで失ったなんて、自由を選んだ私が馬鹿だったの?)
漂って来る香ばしい焼き栗の匂いにロレッタの顔を思い出した。目頭が熱くなり、私はその場に立ち尽くした。頬に涙が伝った。膝から崩れ落ちそうになった時、どこかで耳にした声が私の名前を呼んだ。人混みから飛び出すように現れた彼は、肩で息をしていた。彼の手の甲に小さな擦り傷があった。
「サラ、さん・・・これ」
目の前で、肩で息をしていたのはグレーの瞳の彼だった。額に汗をかき、吐く息は荒く、頬は紅潮していた。白いシャツはシワだらけで、ズボンの膝は泥だらけだった。その手には、私の布袋を握っていた。
「これ、サラさんのですよね?」
彼は少し照れたように髪をかき上げ、グレーの瞳をそらした。
「・・・・あ、はい」
それは、しばらく前にポケットから盗られた私の布袋だった。
「そうです。でもなんで私の名前・・・知って・・・・」
「いつもお店でそう呼ばれていたから・・・覚えました」
その言葉には、ドミトリーの国の訛りといつもの丁寧さが混ざり合っていた。
「そ、そうなんですね」
「はい」
私は、彼のグレーの瞳に映る自分の姿に、胸が締め付けられた。
「ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして。お役に立ててなによりです」
布袋を手渡される瞬間、シルバーのブレスレットがシャツの袖に見え隠れした。深い青の貴石はランタンの明かりに浮かび上がった。その時、なぜか私の頭の中に子どもの頃の舞踏会の光景が広がった。
「あの、あなたの名前を教えてくださいませんか?」
「・・・・名前」
「はい」
舞踏会で少年がぎこちなく手を引いたあの夜、ブレスレットの輝きがシャンデリアに映えた瞬間が甦った。そして、グレーの瞳が目を細めて微笑んだ。市場の商人の呼び声や馬車の音が、まるで遠くに消えるように感じられた。
「テイラーです」
彼は軽く頭を下げ、まるで舞踏会の礼儀のような仕草を見せた。
「テイラーさん」
「はい」
こうして私は、カザエルの市場でグレーの瞳のテイラーと出会った。その時、騎士団の蹄の音が石畳に響いた。その音に気付いたテイラーは鋭い目付きになり、じゃあまた。と踵を返し、私に手を振った。彼の背中が人混みに消える瞬間、ブレスレットがランタンの光に最後にきらめいた。