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時渡りの恋は、終焉世界の果てに〜異世界転移OLは救世主の賢者様〜
時渡りの恋は、終焉世界の果てに〜異世界転移OLは救世主の賢者様〜
小乃 夜
異世界ファンタジーダークファンタジー
2025年06月24日
公開日
3.3万字
連載中
現代日本でごく普通のOLとして働く佐倉結衣は、ある日突然、見知らぬ異世界へと転移してしまう。そこは、魔法と精霊が息づきながらも、時空の歪みによって緩やかに崩壊へと向かう「終焉の時代」にある「時渡りの世界」だった。 混乱する結衣の前に現れたのは、感情を失った謎めいた青年、アルカイン・ヴェール。彼は、歪められた歴史を修正し、世界の崩壊を阻止する使命を帯びた「時渡りの旅人」だった。結衣は、元の世界に戻る手がかりを探すため、そしてこの世界の危機に巻き込まれる形で、無感情なアルカインと共に、様々な時代を巡る過酷な旅に出る。 旅の途中、二人は過去の歴史を歪ませる元凶である「時の侵食者」と対峙し、彼らが引き起こした「歴史の分岐点」を修正していく。現代の知識と持ち前の行動力でアルカインを支える結衣は、彼の冷徹な心を少しずつ溶かし、失われた感情を呼び覚ましていく。一方で、アルカインもまた、結衣の存在によって、孤独な使命の中で忘れかけていた人間らしさを取り戻していく。 しかし、時空のねじれが深まるにつれて、結衣自身の存在がこの世界の歴史に深く関わっていたことが明らかになる。彼女の転移は偶然ではなかったのか? アルカインの抱える深い悲しみと呪いの真実とは? 壮大な時の流れの中で、世界の崩壊を食い止めるという使命と、異なる世界と時間を越えて芽生えた二人の間に、やがて避けられない選択が迫られる。果たして、彼らは世界の終焉を阻止し、自らの運命を切り開くことができるのか、そして時を超えた二人の恋の行方は――。これは、失われた時と感情を取り戻す、新感覚異世界恋愛ファンタジーである。

第1話 プロローグ

佐倉結衣(さくら ゆい)、二十七歳。東京の片隅にある小さなデザイン事務所に勤める、ごく普通のOLだ。今日の東京の空は、鉛色の雲が重く垂れ込めていた。梅雨の終わりとはいえ、こんな空模様では気分も上がらない。結衣はスマホの天気予報アプリを何度も確認したが、予報は一日中雨。ため息と共に、オフィスビルの自動ドアをくぐり抜けた。

午前九時。まだ蒸し暑さが残るオフィスで、結衣はコーヒーメーカーから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。今日の仕事は、大手飲料メーカーの新商品パッケージデザインの最終調整。繊細な色味の調整と、フォントの微細なサイズ変更が残っていた。クライアントの担当者は細かいことで有名で、ちょっとしたズレも許さない。おかげで、ここ数日は残業続きだった。

「はぁ……終わるかな、今日中に」

独りごちて、結衣は自分のデスクへと向かった。ディスプレイには、鮮やかなフルーツのイラストが描かれたパッケージデザインが映し出されている。何度見ても、もう少し何かが足りない気がしてならない。

午前中、結衣は鬼気迫る表情で作業に没頭した。昼休みもそこそこに、サンドイッチを片手にPCと睨めっこ。隣の席の同僚、田中は「佐倉さん、またゾーン入ってるね」と呆れたように笑いかけてきたが、それに応える余裕もない。この集中力は、学生時代から変わらない結衣の長所であり、時に短所でもあった。一度集中すると、周りの音が聞こえなくなり、時間の感覚も麻痺してしまうのだ。

午後二時過ぎ、ようやく目途が立ったところで、ふと異変に気づいた。

オフィスの空気が、妙に冷たい。設定温度が低すぎるのだろうか。エアコンの設定を確認しようと顔を上げたその時、視界の端で何かが揺らめいた。

ディスプレイの画面が、まるで水面に映る景色のように歪み始めたのだ。

最初は目の錯覚かと思った。残業続きで疲れているせいだろう。目を擦り、もう一度画面を見た。しかし、歪みは消えない。それどころか、デスクの上にあるペン立てやキーボード、マウスまでもが、まるで熱で溶けるかのようにゆらゆらと揺れている。

「なに、これ……」

隣の田中が、驚いた声で叫んだ。

「佐倉さん! 見て、あれ!」

田中の指差す方を見ると、窓の外の景色が、まるで砂嵐が起きているかのように激しく点滅していた。高層ビル群が、一瞬で古い木造家屋に変わり、次の瞬間には見知らぬ森に変わる。空は、青とオレンジ、そして紫の混ざり合った不気味な色に染まっていた。

オフィス内に、悲鳴が響き渡る。電気は消え、フロアは薄暗闇に包まれた。パニック状態の中で、結衣の身体にも異変が起きていた。

身体が、まるで水に溶けていくかのようにふわふわと浮遊する感覚。視界が急速に狭まり、色彩が失われていく。耳鳴りがキンキンと響き、何も聞こえなくなる。

「いや……!」

叫ぼうとしたが、声が出ない。意識が薄れていく中で、最後に感じたのは、底なしの闇に吸い込まれていくような、恐ろしい浮遊感だった。

次に目覚めた時、結衣は硬い土の上に横たわっていた。

ひんやりとした空気が肌を撫で、どこからか、甘く、それでいて少しだけ青臭い花の香りが漂ってくる。身体は痺れていて、すぐに起き上がることができない。

ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、見たこともない風景だった。

高く、高く伸びる木々。その葉は、地球上では見たことのない、鮮やかな瑠璃色や深紅に染まっている。幹には、まるで生きているかのように光る苔がびっしりと生え、幻想的な光を放っていた。木々の間からは、淡い光を放つ小さな光の粒が、蛍のようにふわふわと舞っている。

そして、空。

それは、東京の空とは全く違う色だった。中心に、眩いばかりの銀色の太陽が輝き、その周りを、複数の色彩が複雑に混じり合ったオーロラのような光の帯が取り巻いている。薄紫から深い藍色、そして燃えるような赤。まるで絵画のような、信じられないほど美しい空だった。

「夢……? まさか」

結衣はゆっくりと身体を起こした。身体に痛みはない。着ている服は、オフィスで着ていたブラウスとスカートのままだ。しかし、身体にまとわりつく空気は、明らかに違う。地球の空気とは、粒子一つ一つが異なるような、そんな不思議な感覚がした。

周囲を見渡す。自分が倒れていたのは、木々の根元に広がる苔の絨毯の上だった。見渡す限り、見知らぬ森がどこまでも続いている。

スマホを取り出そうとポケットに手を入れたが、そこには何もなかった。バッグも、オフィスに置いてきてしまったようだ。

どうして、ここに?

パニックが、再び結衣を襲い始める。頭が混乱し、思考がまとまらない。数時間前まで、自分は東京のオフィスでパッケージデザインの最終調整をしていたはずだ。それが、どうしてこんな場所に?

耳を澄ますと、森の奥から、鳥のさえずりのような、しかしどこか機械的な音が聞こえてくる。それは、地球の鳥の鳴き声とは明らかに異質だった。

一歩、踏み出した。足元の苔が、クッションのように柔らかい。見慣れない植物が、足元で蠢いている。よく見ると、植物の葉脈が複雑な幾何学模様を描いていることに気づいた。まるで、誰かが意図的にデザインしたかのような、完璧な模様だ。

「誰か……いませんか!?」

震える声で叫んでみたが、返ってくるのは、木々のざわめきと、遠くで聞こえる奇妙な鳥の鳴き声だけだった。

森の中を、当てもなく歩き始めた。自分がどこから来たのか、どうすれば元の世界に戻れるのか、全く見当がつかない。ただ、この場所に留まっていても仕方がないという漠然とした焦燥感に駆られていた。

どれくらい歩いただろうか。森は深く、太陽の光も届きにくい場所が増えてきた。空を覆う色彩も、次第に暗い色へと変化していく。不安と疲労が、結衣の心を蝕んでいく。

その時だった。

前方から、金属がぶつかり合うような、激しい音が聞こえてきた。そして、何かが爆発したような轟音。

「――ッ!?」

結衣は思わず身をかがめ、近くの大きな木の陰に隠れた。音のする方へと目を凝らすと、そこには信じられない光景が広がっていた。

開けた空間で、二つの影が激しくぶつかり合っていた。

片方は、全身を黒いローブに包んだ、人間とは思えないほど巨大な存在。その身体からは、黒い靄のようなものが常に立ち上り、周囲の植物を枯らしていく。手には、禍々しいオーラを放つ鎌のような武器を携え、もう一方の影に襲いかかっていた。

そして、もう一方の影。それは、人間だった。

いや、人間にしては、あまりにも速い。漆黒の髪を風になびかせ、全身に纏う黒い衣装が、彼の動きに合わせて翻る。その手には、まるで夜空の星屑を集めたかのような、透き通った光を放つ長剣が握られていた。

彼は、信じられないほどの速さで、黒いローブの存在の攻撃を捌き、時には鋭い剣撃を繰り出していく。彼の動きは、舞うように優雅でありながら、一切の無駄がない。

剣が、黒いローブの存在の身体を切り裂く。しかし、傷口からは黒い靄が噴き出すだけで、すぐに塞がってしまう。ローブの存在は、まるで実体がないかのようだった。

「チッ……しつこい」

青年が低い声で呟いた。その声には、苛立ちと、わずかな疲労が滲んでいる。

彼の顔には、表情というものが一切なかった。人形のように整った顔立ちだが、その瞳の奥には、何の感情も読み取れない。まるで、世界の全てに無関心であるかのような、そんな虚ろな光を宿している。

(な、何……? あれは、一体……?)

結衣は息を潜めて、その光景を見守った。映画やゲームの世界でしかありえないような戦闘が、目の前で繰り広げられている。これは、夢ではない。紛れもない現実だ。

黒いローブの存在が、鎌を振り上げ、空間を引き裂くような斬撃を繰り出した。しかし、青年はそれを冷静に見極め、紙一重でかわす。彼の周囲の空間が、歪むように揺らめいた。

次の瞬間、青年は剣を天に掲げた。すると、彼の身体から、銀色の粒子が溢れ出し、剣へと吸い込まれていく。剣は、眩いばかりの光を放ち始め、周囲の闇を払いのけた。

「――『時(とき)を穿つ、光(ひかり)の剣(つるぎ)』」

感情のない声で、青年が呪文のような言葉を呟いた。

彼の剣が、一筋の光の奔流となって、黒いローブの存在に突き刺さった。

「グアァァァァァァァッ!!」

ローブの存在が、断末魔の叫びを上げた。その身体から噴き出す黒い靄が、凄まじい勢いで拡散し、周囲の木々を枯らしていく。そして、靄は次第に薄まり、最後には完全に消滅した。

空間に、静寂が戻る。

青年は、剣をゆっくりと下ろした。その表情は、相変わらず何も変わらない。まるで、今しがた激しい戦闘を繰り広げたばかりだとは信じられないほどだった。

彼は剣を鞘に収めると、ふと、結衣が隠れていた木の陰に視線を向けた。

「そこにいるのか」

心臓が跳ね上がった。見つかった。

結衣は意を決して、木の陰から姿を現した。

青年は、何の感情も含まない瞳で、結衣を見つめた。その視線は、まるでそこに石ころが転がっているかのように、何の関心も示さない。

「貴方は……」

結衣は、どう言葉を繋いでいいか分からなかった。

青年は、何の返答もせず、ただ結衣を見つめている。彼の纏う空気は、ひんやりとしていて、近づきがたい。

「あの、ここはどこですか? 私は、どうしてここに……」

結衣は、震える声で尋ねた。

青年は、数秒の沈黙の後、ようやく口を開いた。

「ここは、『時渡りの世界(ときわたり の せかい)』。そして、貴方は……『時の歪み』によって、この世界に引き込まれた存在か」

その言葉に、結衣は衝撃を受けた。時の歪み?

「時の歪み……って、どういうことですか?」

「言葉の通りだ。お前がいた世界と、この世界の時空の間に生じた、予期せぬ歪み。それによって、お前はここに転移した」

青年は淡々と告げた。その口調には、何の感情も籠っていない。まるで、教科書を読み上げるかのように。

「私は、元の世界に戻れますか?」

結衣の問いに、青年は首を横に振った。

「不可能だ。一度生じた時の歪みは、簡単に修正できるものではない。まして、世界の根幹が歪み始めている今、個人の転移など、些細な現象に過ぎない」

世界の根幹が歪み始めている?

「あの、あなたは何者なんですか? さっきの、あの黒いのは……」

結衣の質問に、青年は僅かに眉を顰めた。感情のない表情の中にも、わずかな不快感が読み取れた。

「私は、アルカイン・ヴェール。この世界の時空の均衡を守る、『時渡りの旅人』だ」

「時渡りの旅人……?」

「先ほど倒したものは、『時の侵食者』。この世界の時空に穴を開け、過去の歴史を歪ませる存在だ。それが、世界の崩壊を引き起こしている」

青年、アルカイン・ヴェールの言葉に、結衣の頭は混乱の極みに達した。時渡りの世界、時渡りの旅人、時の侵食者、そして世界の崩壊。あまりにも現実離れした言葉が、次々と彼の口から紡ぎ出される。

「世界の崩壊……って、どういうことですか?」

「言葉の通りだ。この世界は、緩やかに滅びに向かっている。『終焉の時代』と呼ばれる、最後の時が近づいている」

アルカインは、森の奥に広がる、異常な色彩の空を指差した。

「あの空を見ろ。本来、この世界の空は、これほど混沌とした色ではない。時空のねじれが深まるにつれて、世界の理が崩れ、あらゆるものが変容し始めている」

確かに、彼の言う通り、空の色は、地球では見たことのない不穏な色彩を放っていた。銀色の太陽も、どこか不気味に見える。

「なぜ、そんなことに……」

「過去の歴史が歪められたからだ。些細な出来事から、世界の運命を左右する重大な事象まで、あらゆる過去が時の侵食者によって書き換えられようとしている。その歪みが、今、この世界の全てに影響を及ぼしている」

アルカインの言葉は、淡々としていながらも、どこか重苦しさを伴っていた。

「私の使命は、歪められた歴史を修正し、時の侵食者を排除すること。それが、この世界の崩壊を食い止める唯一の手段だ」

彼の瞳の奥には、揺るぎない決意のようなものが宿っているように見えた。感情はないが、強い使命感が彼の行動を突き動かしているのだと結衣は感じた。

「でも、どうやって……」

「時を遡る。過去に飛び、歪められた歴史を正す」

アルカインはそう言い放つと、再び森の奥へと視線を向けた。

「私は急がなければならない。次の時の歪みが、すでに発生している」

彼は、結衣に背を向け、歩き出そうとした。

「待ってください!」

結衣は慌てて、アルカインの腕を掴んだ。彼の腕は、氷のように冷たかった。

「私を、置いていくんですか!? こんな場所で、一人で……!」

結衣の声には、恐怖と絶望が滲んでいた。見知らぬ世界で、一人取り残されるのは、あまりにも恐ろしい。

アルカインは、結衣の腕を掴んだまま、振り返った。その瞳は、相変わらず何も映していない。

「お前は、この世界の住人ではない。私の使命に、何の関わりもない」

「でも、私はここにいる! あなたしか、この世界のことを教えてくれる人はいない! お願い、私も連れて行ってください!」

結衣は必死に訴えた。ここで彼と別れてしまえば、自分は一人で、この未知の、そして崩壊に向かっている世界に取り残されてしまう。そんなこと、耐えられない。

アルカインは、結衣の訴えに、再び沈黙した。まるで、言葉の意味を理解しようとしているかのようだった。その間、森の空気が、さらに重くなったように感じられた。

やがて、彼は掴まれた腕をゆっくりと引き抜いた。

「……私の旅は、常に危険を伴う。お前を連れて行く理由はない」

「危険でも構いません! 私、足手まといにはなりませんから! 何でもします! 元の世界に戻る手がかりを探すためにも、あなたについて行きたいんです!」

結衣は、彼に縋りつくように言った。彼の顔には感情がないが、その言葉にはどこか冷たい拒絶が感じられた。

アルカインは、再び空を見上げた。銀色の太陽は、既に地平線に近づき、空の色彩はより一層濃くなっていた。

「……この森を出れば、人の集落があるはずだ。そこで身を隠せ。それが、お前ができる唯一のことだ」

そう言い残すと、アルカインは再び歩き出した。その足取りは、迷いなく、そして速い。

「待って! お願い! 置いていかないで!」

結衣は、彼の後を追いかけた。しかし、彼の足は速く、すぐに距離が離れていく。

「アルカインさん! あなただって、一人で世界の全てを救えるわけじゃない! 私に何かできることがあるかもしれない!」

必死に叫んだ。彼は、立ち止まることなく、森の奥へと消えていく。

結衣は、その場に立ち尽くした。心臓が、まるでマラソンを終えたかのように激しく脈打っている。息が苦しい。

絶望が、全身を支配した。この広い世界で、自分は一人だ。どうすればいい? どこへ行けばいい?

その時、遠くから、狼の遠吠えのような、しかしどこか人間らしい響きを持った声が聞こえてきた。そして、ガサガサと茂みが揺れる音がする。

(何……?)

振り返ると、暗くなった森の奥から、複数の光る目がこちらに向かってくるのが見えた。それは、森の動物とは明らかに違う、不気味な光だった。

獣の唸り声が聞こえる。それは、あの時の侵食者のような禍々しい気配ではない。もっと、生き物らしい、しかし飢えた獣の咆哮だった。

「ひっ……!」

結衣は、恐怖で身体が硬直した。手足が震え、動かない。

光る目が、どんどん近づいてくる。暗闇の中で、その輪郭が少しずつ見えてきた。それは、狼のような形をしているが、身体には異様な模様が浮かび上がり、背中からは骨のような棘が生えていた。

「グルルルル……」

数匹の獣が、結衣を取り囲むように現れた。その目が、ぎらぎらと結衣を捕らえている。飢えた獣の、紛れもない視線だ。

(ダメだ……)

もう、逃げられない。そう思った瞬間だった。

一筋の銀色の光が、暗闇を切り裂いた。

「――っ!?」

光は、結衣を取り囲んでいた獣の一匹を貫いた。獣は、苦しげな鳴き声を上げ、身体が黒い灰となって崩れ落ちた。

驚いて振り返ると、そこにいたのは、アルカインだった。

彼は、無表情のまま、剣を構えて立っていた。その瞳は、やはり何の感情も宿していない。しかし、その姿は、結衣にとってはまるで救世主のように見えた。

「なぜ、戻って来たんですか……?」

結衣は、震える声で尋ねた。

アルカインは、残りの獣たちを一瞥すると、冷たい声で言った。

「私が放置した結果、お前が死ぬことになれば、それは新たな時の歪みを生み出す可能性もある。無駄な手間は省きたい」

彼の言葉は、結衣を助けるためではないと言っているかのようだった。しかし、その口調とは裏腹に、彼は結衣の前に立ち、獣たちから彼女を守るように剣を構えている。

「お前に、この世界の常識はない。身を守る術もなき者が、この終焉の森を一人で生き抜くことは不可能だ」

彼は、獣たちに向かって一歩踏み出した。

「ついて来い」

感情のない声で、彼は言った。それは命令であり、同時に、結衣にとっては絶望の淵から差し伸べられた唯一の光だった。

結衣は、無言で頷いた。その目には、安堵の涙が滲んでいた。

アルカインは、再び銀色の光を放つ剣を振り、獣たちを次々と切り裂いていく。彼の動きは、先ほどと変わらず淀みない。獣たちは、彼の剣に触れると、瞬く間に黒い灰と化して消滅していく。

あっという間に、獣たちは一掃された。

アルカインは、血の付いていない剣を鞘に収めると、結衣に背を向けた。

「行くぞ」

彼はそう言い、森のさらに奥へと歩き出した。

結衣は、彼の背中を追いかけた。彼の冷たさの中に見え隠れする、わずかな優しさに、結衣は一縷の希望を見出していた。

アルカインは、話すこともなく、ただひたすらに歩き続けた。結衣も、彼に質問を投げかける気力もなく、ただ黙って彼の後を追う。森の木々は、ますます異様な姿を見せ始めた。地面からは、淡い光を放つキノコが生え、まるで星空が足元に広がっているかのようだ。幹には、宝石のような実が成っている木もあった。

どれくらい歩いたか、結衣の足は限界に近づいていた。運動不足の身体には、森の中を歩き続けることは、想像以上に過酷だった。

「あの……アルカインさん……少し、休めませんか……」

結衣は、掠れた声で言った。

アルカインは、立ち止まると、結衣の方を振り返った。その顔には、やはり何の表情もなかったが、結衣の疲労困憊の様子を、無言で確認しているようだった。

「……仕方ない。ここから数刻歩けば、開けた場所に出る。そこで野営する」

彼の言葉に、結衣はわずかな希望を見出した。彼が、自分を慮ってくれている。そう思うだけで、少しだけ心が温かくなった。

さらに数十分歩くと、森が開け、小川のせせらぎが聞こえてきた。月光のような淡い光を放つ植物が群生する、小さな開けた場所だった。空には、先ほどよりもさらに濃い色のオーロラが揺らめいている。

「ここで、休む」

アルカインはそう言うと、小川のほとりに座り込んだ。彼に疲労の色は全く見えない。

結衣も、その場にどかっと座り込んだ。疲労で、身体中の力が抜けていく。リュックもないため、水も食料もない。

「アルカインさん、何か、食べ物とか……ありますか?」

結衣は、恐る恐る尋ねた。

アルカインは、無言で立ち上がると、周囲の木々に目を向けた。そして、一本の木に近づき、そこになっている果実をもぎ取った。

それは、地球上では見たことのない、透き通った青色の果実だった。手のひらサイズで、表面には微細な光の粒が瞬いている。

「これを食え。この世界の果実だ。飢えを満たし、疲労を回復させる」

彼は、その果実を結衣に差し出した。

結衣は、半信半疑でそれを受け取った。冷たく、手のひらに吸い付くような感触がした。一口かじってみると、口の中に広がるのは、甘く、それでいて爽やかな風味。まるで、宝石を食べているかのような、不思議な感覚だった。疲労で重かった身体が、少しずつ軽くなっていく。

「すごい……」

結衣は、感動しながら果実を食べ続けた。確かに、疲労が回復していくのが分かる。

アルカインは、再び小川のほとりに座り込んだ。彼の瞳は、虚空を見つめている。

「アルカインさん、あなたは……一体、何歳なんですか?」

結衣は、思い切って尋ねてみた。彼の纏う雰囲気は、若々しいが、どこか計り知れない年月の重みを感じさせる。

アルカインは、僅かに視線を結衣に戻した。

「……数えきれない。私は、何度も時を遡り、異なる時代を生きてきた。肉体は変わっても、この魂と記憶だけは、時を越えて存在し続けている」

彼の言葉に、結衣は驚きを隠せない。

「何度も時を遡るって……どうやって?」

「それは、私の持つ特殊な能力だ。この身には、時空を操る力が宿っている。だからこそ、私は時の旅人として、この世界の理を修正する使命を負っている」

彼の言葉には、どこか悲壮感が漂っていた。それは、感情がないはずの彼から感じられる、唯一の感情のように思えた。

「時を遡るって、危険じゃないんですか? 過去を変えることって……」

「危険だ。歴史を変えることは、常に新たな歪みを生む可能性を孕んでいる。だが、この世界の崩壊を食い止めるためには、それしか道はない」

アルカインは、淡々と答えた。その瞳には、深い諦めのようなものが見えた。

「あなたは……ずっと一人で、この使命を負ってきたんですか?」

結衣の問いに、アルカインは初めて、わずかに表情を揺らがせた。

「……過去には、私と共に時を旅した者もいた。だが、彼らは皆、時の流れの中で消え去ったか、あるいは、私の使命に耐え切れず、自ら時渡りをやめた」

彼の言葉から、途方もない孤独感が伝わってきた。彼は、感情を失っているというが、その言葉の端々には、深く刻まれた悲しみのようなものが見え隠れする。

「あなたは……辛くないんですか? ずっと、一人で、こんな重い使命を負って……」

結衣の言葉に、アルカインは再び無表情に戻った。

「感情は、すでに失われた。辛さも、喜びも、私には理解できない」

彼はそう言ったが、結衣には、それが嘘偽りない言葉だとは思えなかった。彼の瞳の奥には、確かに何かを深く封じ込めているかのような、そんな影があった。

「でも……私には、そうは見えません。あなたには、ちゃんと感情があるように見えます」

結衣の言葉に、アルカインは何も答えなかった。ただ、じっと結衣を見つめている。その視線は、結衣の心の奥底を見透かしているかのようだった。

沈黙が、二人の間に流れる。しかし、それは決して不快なものではなかった。むしろ、言葉にならない感情が、二人の間を行き交っているかのようだった。

夜空のオーロラが、さらに輝きを増した。その光は、まるで二人の間に生まれた、小さな絆を照らしているかのようだった。

「眠れ。明日から、また時を旅する」

アルカインはそう言うと、目を閉じ、静かに瞑想を始めた。その姿は、まるでこの世界の根源と一体化しているかのようだった。

結衣は、小川のせせらぎを聞きながら、アルカインの横に横たわった。身体は疲れていたが、心は不思議と穏やかだった。

(この人は、本当に感情を失ってるのかな……?)

アルカインの冷たさの裏に隠された、彼の本当の姿を探したい。そう強く思った。

明日から始まる旅は、きっと想像を絶する困難を伴うだろう。しかし、この謎めいた青年と共に、この世界の真実を、そして彼の心の奥底に隠されたものを知りたい。

結衣は、明日への希望を胸に、ゆっくりと意識を手放した。

翌朝、夜明けと共に、アルカインは結衣を起こした。空の色彩は、まだ薄暗い青色だが、銀色の太陽が地平線から顔を覗かせ始めていた。

「行くぞ」

アルカインは簡潔に告げた。

結衣は、昨日よりも少しは慣れた足取りで、彼の後を追った。森の中を進むうちに、次第に周囲の風景が変わっていく。木々はさらに大きく、そして幻想的になり、地面には光る花々が咲き乱れていた。

「アルカインさん、この世界には、他にも人が住んでいるんですか?」

結衣が尋ねた。

「ああ。この世界の住人は、時の流れの中で、様々な姿に分化していった。だが、基本的には、人間と同じような生活を送っている」

「どんな人たちがいるんですか?」

「時に、精霊と対話する『詠い手(うたいびと)』。時に、歴史の管理者として、過去の出来事を記録する『紡ぎ手(つむぎて)』。そして、時空の歪みに適応し、特殊な力を得る者たち……様々だ」

アルカインは、淡々と説明した。彼の言葉から、この世界がどれほど広大で、そして複雑な歴史を持っているのかが伝わってくる。

「精霊、ですか……」

「この世界は、精霊によって生かされている。彼らは、世界の時空の均衡を保つ存在だ。だが、時の侵食者の活動により、精霊たちも力を失い、姿を隠している」

精霊……。結衣は、以前読んだファンタジー小説を思い出した。しかし、目の前の現実の精霊は、小説の中の可愛らしい存在とは、きっと違うのだろう。

数時間歩き続け、森を抜けると、目の前に広がる光景に、結衣は息を呑んだ。

そこには、巨大な樹木が立ち並ぶ、壮大な集落があった。木々の幹には、いくつもの住居が彫り込まれ、まるで巨木の都のようだ。樹木の葉は、太陽の光を浴びてキラキラと輝き、まるで宝石が散りばめられているかのように見える。

そして、集落の中には、様々な姿の住民たちがいた。

耳の尖った人々、背中に透明な羽を持つ人々、肌の色が翡翠のように美しい人々。彼らは、それぞれが異なる衣装を身につけ、活発に動き回っていた。彼らの纏う空気は、森の神秘とは異なり、生命の活気に満ちていた。

「ここは……」

「精霊の森の入り口にある、古き集落の一つだ。ここで情報収集をする」

アルカインは、そう言うと、集落の中へと足を踏み入れた。

結衣も、彼に続いて集落の中へと入っていく。住民たちの視線が、結衣に注がれる。彼らは、結衣の姿を見て、不思議そうに、しかし敵意なく見つめている。中には、好奇心に満ちた目で、結衣の現代的な服装を観察している者もいた。

「珍しい服装だね、旅人さん」

一人の少年が、好奇心いっぱいの目で結衣に近づいてきた。少年は、透き通るような肌と、鮮やかな緑色の瞳を持っていた。

「あ、はい……」

結衣が困惑していると、アルカインが少年の前に立ち塞がった。

「失せろ。邪魔だ」

アルカインの冷たい声に、少年は怯むように後ずさりした。

「アルカインさん、そんな言い方しなくても……」

結衣は、思わずアルカインを窘めた。しかし、彼は結衣の言葉に何の反応も示さない。

集落の広場には、大きな古木があり、その根元には、石でできた小さな祠のような建物があった。

アルカインは、その祠の中へと入っていった。結衣も、彼に続いて中に入ると、そこには、古びた巻物や、奇妙な形をした石版などが所狭しと並べられていた。

「ここは、『時の記録庫』だ。過去の出来事が、ここに刻まれている」

アルカインは、そう言うと、壁に飾られた一枚の大きな石版を指差した。

石版には、複雑な紋様と、見慣れない文字が刻まれている。

「これは、数百年前に起きた、ある王国の滅亡の記録だ。時の侵食者が、その歴史に介入し、本来なら救われるはずだった人々を死に追いやった。その結果、この世界の時空に、新たな歪みが生まれた」

アルカインは、淡々と説明した。彼の声には、感情がない。しかし、その説明は、結衣の心に重く響いた。

「時の侵食者は、どうしてそんなことをするんですか?」

結衣の問いに、アルカインは僅かに沈黙した。

「彼らの目的は、定かではない。ただ、世界の均衡を乱し、終焉へと導くこと。それが、彼らの存在意義であるかのようだ」

彼の言葉には、どこか諦めのような響きがあった。

アルカインは、石版から目を離し、祠の中を歩き回った。彼は、まるで何かを探しているかのように、巻物や石版を手に取り、内容を確認している。その動きは、無駄がなく、流れるようだった。

結衣は、アルカインの邪魔にならないよう、壁際に立っていた。祠の中は、ひんやりとしていて、どこか神秘的な空気が漂っている。

しばらくして、アルカインは一つの巻物を手に取った。それは、他の巻物よりも古く、表面には埃が積もっていた。

「……これだ」

アルカインは、そう呟くと、巻物を広げた。巻物には、繊細な筆致で、この世界の古の歴史が記されているようだった。

「これは、太古の時代に存在した、『時を操る一族』の記録だ。彼らは、時の精霊と契約し、時空の力を使いこなした。だが、ある時を境に、彼らは歴史から姿を消した」

アルカインは、巻物の内容を読み上げながら、結衣に説明した。

「彼らは、時の侵食者と戦い、この世界を守っていた者たちだ。しかし、時の侵食者の策略により、一族は滅ぼされた。それが、この世界の崩壊の始まりとなった」

結衣は、アルカインの言葉に衝撃を受けた。この世界の歴史は、想像以上に深く、そして悲劇的なものだった。

「では、私たちが今から向かうのは……その、時を操る一族がいた時代、ということですか?」

結衣が尋ねると、アルカインは頷いた。

「そうだ。彼らが滅ぼされた時代に遡り、その歴史を修正する。それが、今回の使命だ」

アルカインの言葉には、確固たる決意が感じられた。感情はなくても、彼は自分の使命を全うしようとしている。

「でも、どうやって過去の歴史を修正するんですか? 時の侵食者と戦うってことですか?」

「それだけではない。時の侵食者が過去に介入したことで、歴史の『分岐点』が生まれた。その分岐点において、正しい選択を促すことが、歴史を修正する鍵となる」

アルカインは、巻物から目を離さずに言った。彼の言葉は、結衣にはまだ理解できない部分が多かった。

「分岐点……?」

「歴史は、常に無数の選択によって紡がれる。時の侵食者は、その選択を歪め、望ましくない未来へと導こうとする。我々は、その歪みを正し、本来あるべき歴史の道筋へと戻す」

アルカインは、そう説明すると、巻物を畳んだ。彼の瞳は、遠い過去の、そして遥か未来の時を見据えているかのようだった。

「準備はいいか。ここから、過去へと跳躍する」

彼の言葉に、結衣は息を呑んだ。ついに、過去への旅が始まる。

「はい……!」

結衣は、覚悟を決めて頷いた。この旅が、自分にとって、そしてこの世界にとって、どんな意味を持つのか。まだ何も分からない。しかし、アルカインと共に、この世界の真実を知りたい。そして、彼が抱える孤独を、少しでも癒してあげたい。

そんな、漠然とした思いが、結衣の心に芽生えていた。

アルカインは、祠の中央に立ち、巻物を胸に抱いた。彼の身体から、銀色の光が放たれ始める。光は徐々に強くなり、祠の中を眩いばかりに照らし出した。

結衣の身体が、再び浮遊するような感覚に襲われる。

「これが、『時渡り』だ」

アルカインの言葉が、脳裏に響く。

視界が、光に包まれていく。そして、結衣は、再び底なしの闇に吸い込まれていくような感覚に陥った。

次に目覚める時、自分は一体、どんな時代にいるのだろうか。


(第二話へ続く)

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