次に結衣が意識を取り戻した時、身体を包む空気はひどく湿り気を帯びていた。微かに土と植物の匂いがする。ゆっくりと目を開くと、視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。木材を組んで作られた簡素な天井には、ところどころに隙間があり、そこから微かな光が差し込んでいる。外からは、生き生きとした鳥のさえずりが聞こえ、昨日の森で聞いた機械的な音とは全く異なる、穏やかな響きだった。
身体を起こすと、自分が木製の簡素なベッドに寝かされていることに気づいた。室内は薄暗く、泥の壁に囲まれている。壁には、野花を束ねた飾りがさりげなく掛けられ、素朴ながらも温かい生活感が漂っていた。窓からは、青々とした木々が柔らかな緑を見せ、遠くから子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。まるで、時間が遡ったかのような、懐かしい日本の田舎の風景が広がっていた。
「……ここは?」
思わず呟くと、戸口が開き、一人の女性が入ってきた。彼女は、翡翠のような美しい肌を持ち、長い髪を三つ編みにしていた。年齢は結衣と同じくらいだろうか。その瞳は優しく、結衣の顔を見ると、ふわりと微笑んだ。
「お目覚めになられましたか、旅人さん。よかった、意識が戻って」
女性はそう言うと、結衣の額にそっと手を当てた。ひんやりとした掌が心地よい。熱はないようだ。
「旅人さん……? ここは一体、どこですか?」
結衣の問いに、女性は柔らかい声で答えた。
「ここは、『静かなる森』の奥にある小さな村、『始まりの里』です。あなたは、森の入り口で倒れているところを、村の者が見つけました。一体、何があったのですか?」
静かなる森? 始まりの里? そして、倒れていた? アルカインはどこに……。頭の中にいくつもの疑問符が浮かび上がる。彼が「ついて来い」と言ってくれたから、助かったはずなのに。
(まさか、時渡りで飛ばされた場所が違ったの? それとも、彼だけが別の場所に……?)
パニックが結衣の心を襲い始めた。しかし、目の前の女性の優しい眼差しが、わずかながら冷静さを取り戻させてくれた。
「あの……その、私は記憶が曖昧で……。私と一緒にいた男の人は……黒い服を着た、背の高い男の人、知りませんか?」
結衣は必死に尋ねた。女性は首を傾げ、記憶を探るように天井を見上げた。
「黒い服の……? いいえ、そのような方は見ておりませんね。旅人さん以外は、誰も森にはいませんでしたよ。もしかしたら、あなたは一人で旅をしていたのかもしれません」
その言葉に、結衣は愕然とした。アルカインがいない。信じられない気持ちで、胸が締め付けられる。あの冷たいけれど、どこか頼りになる彼の姿が目に浮かぶ。
(置いていかれた……? でも、あの人、私を助けてくれたのに……どうして?)
「あの……その、私は記憶が曖昧で……」
結衣は、どう説明していいか分からず、言葉を濁した。女性は、結衣の困惑した様子を見て、察したように微笑んだ。
「無理に話さなくても大丈夫ですよ。まだ身体が疲れているのでしょう。ゆっくり休んでください。私はリーファ。この村の治癒師をしています」
リーファと名乗る女性は、結衣の隣に座ると、優しく結衣の手を握った。その手から伝わる温もりに、結衣は安堵する。ひどく冷え切っていた心が、少しずつ溶けていくような感覚だった。
「ありがとうございます……リーファさん」
「それにしても、珍しい服ですね。あなたのような装いの旅人は、この村では初めて見ました」
リーファは、結衣のブラウスとスカートを興味深げに眺めた。確かに、この世界の衣服とは全く異なる。結衣の服は、東京のオフィスで着ていたものと全く同じだった。それが、この異世界でどれほど異質であるか、改めて突きつけられる。
「あの、もしよかったら、外の様子を見てもいいですか? 少し、気分転換に……」
結衣は、アルカインを探すために、外に出る許可を求めた。リーファは、少し考える素振りを見せた後、頷いた。
「ええ、構いませんよ。ですが、まだ無理はなさらないでくださいね。もし気分が悪くなったら、すぐに教えてください」
結衣はベッドから起き上がり、リーファに案内されて外に出た。戸外に広がっていたのは、絵本で見たような、昔ながらの日本の農村を思わせる風景だった。
藁ぶき屋根の家々が立ち並び、壁には木製の農具が立てかけられている。畑には見慣れない作物が植えられ、その間を、村人たちが屈んで手入れをしていた。子供たちが木陰で鬼ごっこをしていて、その笑い声が牧歌的な風景に溶け込む。大人たちは畑仕事に精を出す傍ら、家々の軒先では、色とりどりの糸を紡いだり、木の小物を彫ったりと、手工芸品を作る者もいた。空は、あの時の侵食されたような混沌とした色ではなく、穏やかな水色。清々しい風が頬を撫で、どこからか野花の甘い香りが漂ってくる。
「……ここが、過去の世界?」
結衣は思わず呟いた。リーファが不思議そうに結衣を見たが、結衣はすぐに誤魔化した。
「いえ、なんでもありません。本当に綺麗な場所ですね。こんな穏やかな場所があるなんて……」
「ありがとうございます。ここは、森の恵みに感謝し、静かに暮らす村です。外界との交流はほとんどありませんが、皆、助け合って生きています。最近は少し不穏な噂も耳にしますが、村の中は平和そのものですよ」
リーファは、微笑みながら村の様子を説明してくれた。結衣は、アルカインの姿を探して村の隅々まで見渡したが、どこにも彼の姿は見当たらない。
(やっぱり、置いていかれたんだ……。でも、あの人、私のこと、助けてくれたのに。なぜ、今になって……?)
彼は言っていた。「私が放置した結果、お前が死ぬことになれば、それは新たな時の歪みを生み出す可能性もある。無駄な手間は省きたい」 と。だから彼は、自分を助けてくれたはずだ。しかし、彼がなぜここにいないのか、皆目見当がつかない。彼の言葉は、常に合理的で、感情がないと自分自身で言っていた。だが、あの夜、獣から自分を守ってくれた彼の姿は、結衣には優しさに満ちているように見えたのだ。
その日の午後、結衣はリーファからこの村のことや、この世界の現状について色々と教えてもらった。
「この世界は、古くから『時の精霊』によって守られてきました。精霊たちは、時の流れを司り、世界の均衡を保ってくれる存在です。私たち村人は、彼らの恵みに感謝し、共に生きています」
リーファは、村の広場にある大きな古木を指差した。その古木には、幹に美しい幾何学模様が浮かび上がっており、そこから微かな光が放たれている。その光は、まるで古木そのものが呼吸しているかのようだった。
「あの木には、『始まりの精霊』が宿っています。私たち村人は、毎日、精霊に感謝の祈りを捧げています。この木が、私たちの村の守り神なのです」
しかし、リーファの表情は、どこか曇っていた。
「ですが、最近は精霊の力が弱まっているようです。木に宿る光も、以前より弱々しく感じられますし、森の奥では、不気味な現象が起き始めていると、旅の者が話していました。森の奥の木々が、理由もなく枯れていくとか……」
不気味な現象……それは、やはり「時の侵食者」の仕業なのだろうか。アルカインが言っていた「世界の崩壊」は、すでにこの時代から始まっているのかもしれない。
「あの、リーファさんは、この世界で『時を操る一族』という存在を知っていますか?」
結衣は、アルカインから聞いた言葉を思い出し、尋ねてみた。リーファは、その言葉に目を見開いた。
「時を操る一族……! それは、伝説の存在ですよ。遥か昔、この世界の時空の均衡を守っていたと言われる、特別な一族です。時の精霊と深く結びつき、その力を使いこなしたとか……。ですが、彼らはある時を境に、歴史から姿を消したと伝えられています。詳しい記録は残っていませんが、彼らがいた頃は、世界はもっと穏やかだったと聞きます」
伝説の存在。やはり、ここはアルカインが言っていた、過去の時代なのだろう。そして、この「始まりの里」が、その「時を操る一族」と関係があるのかもしれない。結衣の胸に、一筋の希望が宿る。もしそうなら、アルカインがここにいる手がかりがあるかもしれない。
「彼らが、なぜ姿を消したのか、ご存知ですか?」
結衣の問いに、リーファは悲しげに俯いた。
「詳しいことは、私たち村人には伝わっていません。ただ、彼らが姿を消した後、この世界に少しずつ歪みが生まれていった、と……。まるで、世界の根幹を支えていたものが失われたかのように……」
「歪み……」
「ええ。季節の移り変わりが不規則になったり、植物が枯れたり、動物たちが病になったり……。小さな異変が、少しずつ、私たちの生活を蝕んでいるのです。この村の作物も、以前より収穫量が減っています」
リーファの言葉は、アルカインの言っていた「世界の崩壊」へと繋がるものだった。やはり、彼はこの時代の、この場所を目指して時渡りをしたに違いない。
(アルカインはきっと、この時代の歪みを正すために、私とは別の場所で行動しているんだ。私がここにいるのも、何か意味があるはず。彼と再会するためにも、何か手がかりを見つけないと……!)
夕食時、結衣は村の集会所に招かれた。木製の大きなテーブルが並び、中央には暖炉で燃える薪がパチパチと音を立てている。村人たちは、結衣の珍しい服装に興味津々だったが、皆、温かく結衣を迎え入れてくれた。素朴な料理は、どれも優しい味がした。採れたての野菜を使った煮込み料理や、香ばしい焼き魚など、どれも素材の味が活かされている。子供たちが無邪気に笑い、大人たちが談笑する声が響く。ここが、まさに平穏な過去の時代であるということを実感した。
食事が終わり、結衣がリーファの家に戻ろうとすると、一人の老人が声をかけてきた。白く長い髭を蓄え、深く刻まれた皺が、彼の生きてきた歳月を物語っていた。彼こそが、この村の長老らしき人物だった。
「旅人さん、少々、お話を伺ってもよろしいかな? わしは、この村の長老、ゼノと申します」
長老は、結衣を集会所の片隅へと誘った。静かに座ると、長老は結衣の目をじっと見つめた。その瞳には、深い知恵と、どこか超越したような輝きが宿っていた。
「あなた様は、もしかして、時の狭間から来られた方ではありませぬか?」
長老の言葉に、結衣は息を呑んだ。まるで、心の奥底を見透かされたような感覚に、背筋が凍る。
(なぜ、この人が……? アルカインと同じようなことを言うなんて……!)
「なぜ、そんなことを……」
結衣は震える声で尋ねた。
「わしは、代々この村の長老として、『時の記録』を管理しておる。この村は、『時を操る一族』と深いつながりを持つ場所なのじゃ。かつて、一族の者がこの村に身を寄せていた時代もあったと聞く」
長老はそう言うと、静かに語り始めた。
「我らの祖先は、かつて『時を操る一族』に仕え、彼らの知識と技術を受け継いできた。しかし、ある日、一族は突如として姿を消した。その原因は定かではない。村に残されたのは、彼らが遺した『時の書』のみ……」
長老は、古びた巻物を結衣に見せた。それは、羊皮紙のような素材でできており、表面には埃が積もっていたが、どこか神聖な輝きを放っているように見えた。それは、アルカインが「時の記録庫」で見ていた巻物と同じように見えた。
「その書には、こう記されておる。『時が大きく歪む時、遥か未来より、時の狭間を越えし者が現れ、新たな歴史を紡ぐであろう』と……」
長老は、真っ直ぐに結衣の目を見つめた。その視線は、結衣の過去、現在、そして未来を見通しているかのようだった。
「あなた様は、その『時を越えし者』なのではないかと、わしは思っておる。あなたの纏う空気は、この世界の者とは違う。まるで、遥か遠い未来の香りがするようじゃ」
結衣は、言葉を失った。まさか、自分がこの世界の歴史に、そんな重要な意味を持つ存在だとは。ただ巻き込まれて、偶然ここにいるだけだと思っていたのに。
「ですが、私は……ただの、普通の人間で……」
「嘘をつく必要はない。あなたの身に纏う空気、そしてその瞳。わしには分かる。あなたは、確かにこの世界のものではない。そして、あなたにしかできない役割があるはずじゃ」
長老の言葉は、結衣の胸に重く響いた。彼は、アルカインと同じように、結衣が異世界の人間であることを理解している。
「あの、アルカインという男の人と、一緒にここに来たはずなんですが……彼はどこにいるか、ご存知ありませんか? 黒い服を着て、銀色の剣を使っていた人です」
結衣は、長老にアルカインのことを尋ねた。長老は、しばらく考え込むように黙っていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「アルカイン……その名は、聞いたことがないな。しかし、時の狭間を越えし者が二人いるとすれば、それは……。もしかしたら、時渡りの際に、別の場所に飛ばされたのかもしれないな。時の流れは、我々の想像をはるかに超えるものじゃから……」
長老の言葉が途切れた時、村の外から、けたたましい音が響き渡った。
「――グワアアアアアアアッ!」
それは、あの「時の侵食者」の咆哮に似ていた。村人たちが、パニックに陥り、ざわめき始める。子供たちの楽しげな声は一瞬でかき消され、代わりに恐怖の叫びが響き渡る。
「何事じゃ!?」
長老が戸口に駆け寄ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
村の入り口付近の空が、あの時のように歪んでいる。空間にひびが入ったかのように、ねじ曲がっていく。そして、その歪みの中から、黒い影が現れ始めた。それは、昨日の森でアルカインが倒した「時の侵食者」と同じ姿だった。禍々しい黒い靄を纏い、巨大な鎌を携えている。
「時の侵食者……! なぜ、こんな場所に!?」
長老が叫んだ。村人たちは恐怖に震え、逃げ惑う。家々に身を隠そうとする者、森へと駆け出す者もいる。
「長老様! あれを見てください!」
リーファが、震える声で空を指差した。
空には、不気味な黒い亀裂が走っていた。それは、まるで世界の皮膚が裂けたかのようだった。その亀裂からは、黒い粒子が降り注ぎ、村の畑や木々を瞬く間に枯らしていく。青々としていた作物はみるみるうちに茶色く変色し、生命を失っていく。まるで、生きているものを全て死に至らしめるかのような、禍々しい瘴気だった。
「これは……『終焉の瘴気』じゃ! 時の侵食者が、本格的にこの時代を侵食し始めたのだ! このままでは、村が……世界が滅びてしまう!」
長老の声には、絶望が滲んでいた。村の活気が、一瞬にして死の気配に覆われていく。
村人たちが次々と倒れていく。瘴気に触れた者たちは、みるみるうちに力を失い、その場に崩れ落ちていった。彼らの顔からは血の気が失せ、苦しげな呻き声が聞こえる。
「リーファさん! みんなを助けて!」
結衣は叫んだが、リーファもまた、瘴気に侵され、身体から力が抜けていくのが分かった。彼女の顔色も青ざめ、呼吸が荒くなっている。
「駄目です……身体が、動きません……」
リーファが苦しそうに呟く。治癒師である彼女の力も、この瘴気の前では無力だった。
時の侵食者が、ゆっくりと村へと足を踏み入れた。その巨大な身体からは、黒い靄が立ち上り、村全体を覆い尽くそうとしていた。その足音は、村の地面を揺るがし、恐怖を一層煽る。
(どうすればいい……! アルカインは、どこ……!? 私に、何ができるっていうの!?)
結衣は、絶望的な状況の中で、必死に思考を巡らせた。自分には、何の力もない。ただのOLだ。この状況で、どうやって村の人々を救えばいいのか。
その時、一筋の銀色の光が、黒い瘴気を切り裂いた。その光は、暗闇に閉ざされかけた村に、希望の道を開くかのようだった。
「――『時(とき)を穿つ、光(ひかり)の剣(つるぎ)』」
耳慣れた、感情のない声が、村に響き渡った。
結衣が振り返ると、そこにいたのは、漆黒の衣装を纏い、銀色の剣を構えたアルカインの姿だった。彼の瞳は、やはり何の感情も映していないが、その存在は、結衣にとって何よりも心強いものだった。まるで、暗闇に光が差し込んだかのような、圧倒的な安心感に包まれる。
「アルカインさん!」
結衣は、思わず彼の名を叫んだ。喜びと安堵が入り混じった声が、震えながら漏れる。
アルカインは、結衣の声には反応せず、ただ真っ直ぐに時の侵食者を見据えていた。彼の周囲の空間が、歪むように揺らめいている。それは、彼の力が空間を捻じ曲げている証拠だった。
「また、お前の無駄な干渉か」
アルカインが、時の侵食者に向かって低い声で言った。その声には、わずかな苛立ちが感じられた。
時の侵食者は、アルカインの言葉に反応するように、禍々しい咆哮を上げた。その咆哮は、結衣の鼓膜を震わせ、身体の芯まで響く。そして、鎌を振り上げ、アルカインに襲いかかった。
アルカインは、瞬時に剣を振り、時の侵食者の攻撃を弾いた。金属がぶつかり合う激しい音が、村に響き渡る。火花が散り、その光が黒い瘴気を一瞬だけ照らす。
村人たちは、その光景を呆然と見つめていた。彼らにとって、時の侵食者はただの災厄であり、それに立ち向かう存在など、伝説の中にしか存在しないはずだった。
「結衣、下がっていろ」
アルカインは、時折、結衣の様子を窺うように視線を送る。彼の瞳には感情がないが、その行動は、結衣を守ろうとしているかのようだった。その視線は一瞬だったが、結衣の心に彼の優しさが確かに伝わった。
「はい!」
結衣は、倒れているリーファを抱き起こし、長老の近くへと身を隠した。
アルカインと時の侵食者の戦いは、激しさを増していく。彼の剣は、銀色の光を放ち、時の侵食者の身体を何度も切り裂く。しかし、時の侵食者は、傷口から黒い靄を噴き出し、すぐに回復してしまう。その再生能力は、まるで無限かのようだった。
「こいつは、以前よりも厄介だな……」
アルカインが、珍しく疲労の色を滲ませた声で呟いた。彼の額には、微かに汗が滲んでいる。彼の動きも、先ほどよりわずかに鈍くなっているように見えた。
長老が、その様子を見て、結衣に語りかけた。
「彼は……『時渡りの旅人』なのか?」
「はい。彼は、この世界の歪みを正すために、過去の時代を旅しているんです。私をこの世界に導いてくれた人です」
結衣は、長老にアルカインの使命を伝えた。長老は、その言葉に深く頷いた。
「やはりそうか……。わしは、彼のような『時渡りの旅人』の存在を、古の書物でしか知らなかった。伝説の存在が、今、目の前で戦っているとは……」
その時、時の侵食者が、これまでとは違う、強力な攻撃を繰り出した。全身から黒い瘴気を噴き出し、それを巨大な塊としてアルカインに放ったのだ。それは、村全体を覆い尽くすほどの大きさだった。
「ぐっ……!」
アルカインは、辛うじてそれを剣で受け止めたが、その衝撃で身体が大きく吹き飛ばされた。彼は地面に叩きつけられ、苦しそうに呻く。銀色の剣が、彼の傍らに転がった。
「アルカインさん!」
結衣は、思わず駆け寄ろうとした。しかし、長老が結衣の腕を掴んだ。
「待つのじゃ! 今、近づけば、あなたも瘴気に侵される! 彼の邪魔になるだけじゃ!」
時の侵食者は、倒れたアルカインに向かって、ゆっくりと歩み寄っていく。その巨大な鎌が、アルカインの頭上に振り上げられた。
「やめて!」
結衣は叫んだ。しかし、声は届かない。その光景は、あまりにも絶望的だった。
(どうしよう、どうすればいいの!? このままじゃ、アルカインさんが……!)
その時、結衣の脳裏に、あの「時の記録庫」でのアルカインの言葉が蘇った。
「時の侵食者が過去に介入したことで、歴史の『分岐点』が生まれた。その分岐点において、正しい選択を促すことが、歴史を修正する鍵となる」
この状況が、分岐点なのか? だが、自分に何ができる? 役立たずの私に、何の力も持たない私に、一体何ができるんだ……!
その時、結衣の視線が、長老が持っていた「時の書」に吸い寄せられた。巻物から、微かな光が放たれているように見えた。それは、まるで結衣に「私を見て」と語りかけているかのようだった。
(これだ……! 私にできること、もしかしたら……!)
結衣は、長老から「時の書」をひったくるように奪い取った。
「何をするのじゃ、旅人さん!?」
長老が驚いた声を上げたが、結衣はもう止まらなかった。彼女の心には、アルカインを救いたい、この村を救いたいという強い衝動だけがあった。
「アルカインさん! 見てください!」
結衣は、「時の書」を広げ、アルカインに向かって掲げた。巻物から放たれる光が、弱々しく輝いている。
アルカインは、その光景に僅かに目を見開いた。感情のない彼の瞳に、かすかな変化が見られた。驚きか、困惑か、それとも……。
「これは……『時の書』……」
時の侵食者が、アルカインに鎌を振り下ろそうとした、その時だった。鎌の切っ先が、アルカインの身体に触れる直前だった。
結衣の身体から、一筋の光が放たれた。それは、巻物から放たれる光と共鳴し、次第に強くなっていく。
「な、何だ……?」
時の侵食者が、その光に怯むように後ずさりした。瘴気を纏う彼の身体が、僅かに揺らいでいる。
結衣の頭の中に、言葉が、知識が、まるで流れ込んでくるかのように溢れ出した。それは、この世界の歴史、時の精霊、そして「時を操る一族」の力……。忘却の彼方にあった知識が、細胞の隅々にまで染み渡るような感覚。
「時を操る一族は、時の精霊と契約し、時空の力を使いこなした」
アルカインの言葉が、結衣の脳裏に響く。そうだ、この世界の歴史を修正するためには、時の精霊の力が必要なのだ。
結衣は、無意識のうちに、大きく息を吸い込んだ。そして、心の中で、強く願った。
(力を……! 私に、この世界を救う力を……! アルカインさんを助けたい、みんなを助けたい……!)
その願いが、光となって結衣の身体から噴き出した。光は、空に走る黒い亀裂へと向かって伸びていく。同時に、足元から、これまで感じたことのない、しかし確かな力が湧き上がってくるのを感じた。
「――『精霊(せいれい)よ、我(われ)に力を……! 時の理(ことわり)よ、今ここに顕現(けんげん)せよ!』」
結衣の口から、自然と、この世界の古の言葉が紡ぎ出された。それは、アルカインの呪文と同じように、感情を持たない、しかし力強い響きを持っていた。
その言葉が響き渡ると、村の広場にある古木が、眩いばかりの光を放ち始めた。それは、リーファが言っていた「始まりの精霊」が宿る木だった。古木の幹に刻まれた紋様が、光を放ちながら脈動する。
古木から放たれる光が、結衣の身体へと流れ込む。結衣の全身が、温かい光に包まれた。それは、安心感と、同時に強大な力を与えてくれる感覚だった。
時の侵食者は、その光景に恐怖したかのように、後ずさりする。彼の身体から立ち上る黒い瘴気が、光によって浄化されていく。瘴気が霧散するたびに、彼の身体が僅かに縮んでいくように見えた。
アルカインは、その光景を静かに見つめていた。彼の瞳に、驚きと、そして微かな戸惑いの色が宿っていた。感情がないはずの彼の顔に、確かに感情の揺らぎが読み取れた。
光に包まれた結衣は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、時の侵食者へと向かっていった。彼女の心は、恐怖ではなく、この世界を救いたいという強い意志に満たされていた。
「これ以上、この世界を傷つけさせない! あなたたちの企みは、ここで終わらせる!」
結衣は、そう叫ぶと、両手を広げた。すると、彼女の掌から、無数の光の粒が放たれ、時の侵食者を包み込んだ。それは、蛍のように幻想的でありながら、力強い光の奔流だった。
時の侵食者は、苦悶の叫びを上げた。その身体が、光によって分解されていく。黒い靄が薄まり、やがて、完全に消滅した。まるで、最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去った。
空間に、静寂が訪れる。
空を覆っていた黒い亀裂が、ゆっくりと閉じていく。降り注いでいた瘴気も消え去り、枯れていた畑の作物や、倒れていた村人たちが、ゆっくりと回復していくのが見えた。彼らの顔に血の気が戻り、息を吹き返す。
「これは……精霊の加護……。いや、それだけではない。これは、『時を越えし者』の力……!」
長老が、驚きと畏敬の念を込めた声で呟いた。
光を放っていた古木も、再び静かに佇んでいる。結衣の身体を包んでいた光も消え、彼女は、その場に力なく膝をついた。どっと疲れが押し寄せ、身体が重い。
「大丈夫ですか、旅人さん!」
リーファが、駆け寄って結衣を抱き起こした。彼女の顔には、安堵と、そして結衣に対する驚きと感謝の念が入り混じっていた。
結衣は、疲労困憊だったが、心は満たされていた。自分にも、この世界で役立つことができた。アルカインの助けになれた。その事実に、深く安堵する。
その時、アルカインが、ゆっくりと結衣の前に歩み寄ってきた。彼は、いつもの無表情な顔で、結衣を見下ろした。しかし、その瞳には、かつてなかった感情の光が宿っていた。
「なぜ、お前にそのような力が……」
彼の声には、僅かながら、動揺の色が混じっていた。それは、結衣が彼から初めて引き出した、明確な「感情」だった。
第三話へ続く