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第3話 :嘆きの谷の幻影

アルカインに手を引かれ、佐倉結衣は「始まりの里」を出た。背後には、村人たちの感謝と、どこか不安げな眼差しが突き刺さる。彼が握る手は、相変わらず氷のように冷たかったが、その冷たさの中に、確かな頼もしさと、そして微かな温かさを、結衣は確かに感じ取っていた。それは、彼の言葉にはない、行動から伝わる優しさだった。

「嘆きの谷」への道

「次の分岐点とは、一体どこにあるんですか?」

結衣は、一歩も立ち止まらずに、まるで迷いなき羅針盤のように進み続けるアルカインに問いかけた。彼の歩調は一定で、疲れを感じさせない。(本当に、人間なの…?) 疑問は尽きないが、今は彼の言葉だけが頼りだった。

「この先にある**『嘆きの谷』だ。そこには、太古の昔から時を刻む『時間の砂時計』**が存在する。時の侵食者は、その砂時計を破壊し、この時代の時間そのものを狂わせようとしている」

アルカインの声は、昨日と変わらず淡々としていたが、その言葉の端々からは、一刻を争う事態であることが結衣にもひしひしと伝わってくる。彼の瞳の奥に、わずかに焦りのような色が浮かんだのを、結衣は見逃さなかった。

森の中は、夜明けの薄明かりに包まれていた。瑠璃色や深紅に染まった木々の葉が、微かな風に揺れるたび、宝石のようにキラキラと輝く。足元には、淡い光を放つ苔が絨毯のように広がり、見慣れない花々が咲き乱れていて、その全てが幻想的な雰囲気を醸し出していた。しかし、その美しい景色の所々に、黒く枯れ果てた植物や、不自然に歪んだ空間が脈打つように存在しており、時の侵食者の影響が、確実にこの世界に深く広く蝕んでいることを示していた。その光景は、まるで美しい絵画に黒いシミが広がっていくかのようで、結衣の心に静かな危機感を募らせた。

「嘆きの谷には、どうやって行くんですか?」

結衣は、知りたいことが次々と湧き上がる。この世界で生き残るため、そしてアルカインの力になるために、少しでも多くの情報を吸収しようと必死だった。

「谷の入り口には、古くから**『時の番人』と呼ばれる者が住んでいる。彼らが、谷へと続く唯一の道**を知っている」

アルカインはそう言い、速度を緩めることなく森の奥へと足を進めていく。昨日まで東京のオフィスでデザインに没頭していた、ごく普通のOLだった自分が、今、異世界の崩壊を食い止めるための旅をしている。あまりにも非現実的な状況に、まだ戸惑いはあったものの、彼の隣にいることで、不思議と恐怖心は薄れていくのを感じていた。彼の存在が、結衣にとっての確かな錨となっていた。

数時間歩き続けると、森の景色が明確に変わり始めた。木々はまばらになり、地面は岩が多くなり、ひんやりとした空気が肌を刺すようになる。遠くから、風が岩肌を擦るような、奇妙で不気味な音が、低い呻き声のように聞こえてきた。その音は、まるで谷全体が悲鳴を上げているかのようだった。

「ここが、嘆きの谷の入り口だ」

アルカインが立ち止まった。目の前には、巨大な岩壁がそそり立ち、その中央には、黒くぽっかりと口を開けた洞窟があった。洞窟の入り口には、年季の入った木製の看板が立てられており、見慣れない文字で何か書かれている。風が吹き荒れるたび、古びた看板は軋むような音を立て、まるでこの先に待つ困難を警告しているかのようだった。

「**『嘆きの谷へ、安易に入るべからず。過去の悲鳴が、汝の魂を蝕むだろう』**と書かれている」

アルカインが、看板の文字を読み上げた。彼の声は平坦だが、その言葉の内容に、結衣は思わず身震いした。

「本当に、過去の悲鳴が聞こえるんですか?」

結衣の声は、不安でかすれていた。彼女の心臓は、まるでこれから起こるであろう事態を予感して、激しく脈打っていた。

「ああ。この谷は、時の侵食者によって歪められた歴史の残滓が、色濃く残る場所だ。過去に滅びた魂の嘆きが、こだまとなって響くこともある」

彼の説明に、結衣はごくりと唾を飲み込んだ。全身の毛穴が開き、ゾッとするような悪寒が背筋を走った。(過去の魂の嘆き…そんなものが、本当に聞こえるなんて…)

時の番人、カインとの邂逅

その時、洞窟の中から、微かな光が漏れてきた。そして、確かな人の気配がする。結衣の緊張が、一瞬で最高潮に達した。

「誰か、いる……?」

結衣が思わず身構えると、洞窟の中から、一人の老人がゆっくりと姿を現した。彼は、全身を灰色のローブに包み、顔には深い皺が幾重にも刻まれていた。その目は、まるで夜空の星を映し出したかのように、深く、そして遠い寂寥の光を宿している。彼の存在は、時間そのものを体現しているかのようだった。

「時渡りの旅人よ……ようやく来られたか」

老人は、アルカインを見ると、静かにそう呟いた。彼の声は、風のように穏やかで、しかしその奥には無限の知識が秘められているように感じられた。

「時の番人、カインか」

アルカインが、老人に声をかけた。彼の声には、いつもの冷たさの中に、わずかな敬意が感じられた。

「よくぞ、この場所まで辿り着いた。時の歪みは、すでにこの谷にも及んでいる。砂時計が破壊されるのも、時間の問題であろう」

カインと名乗る老人は、悲しげな眼差しで、洞窟のさらに奥を見つめた。彼の表情からは、世界の行く末を案じる深い憂いが読み取れる。

「そして、その隣の娘は……まさか、**『時の紡ぎ手』**の血を引く者か」

カインは、結衣を見ると、驚いたように目を見開いた。その視線は、結衣の全身を、そしてその内側にある未知の力を見透かすかのようだった。

「時の紡ぎ手……?」

結衣は、戸惑いながら尋ねた。リーファも長老も「時を操る一族」と言っていたが、「時の紡ぎ手」とは何だろうか。頭の中の情報が、線で繋がり始めるような感覚がした。

「時の紡ぎ手とは、古の時代に存在した、歴史を記録し、その流れを導く一族のことだ。彼らは、時の精霊の声を聞き、未来を予見する力も持っていた。お前の中から、その力を感じる」

カインは、結衣をじっと見つめた。その視線は、結衣の心の奥底を全て見透かしているかのようで、隠し事ができないような、畏怖の念を抱かせた。

「私は……普通のOLなんです。特別な力なんて……」

結衣は、謙遜と困惑が入り混じった声で否定しようとした。自分にそんな大それた力があるとは、到底信じられなかったのだ。

結衣が否定しようとすると、カインは静かに首を振った。

「失われた血脈が、この終焉の時代に再び目覚めたのだ。運命とは、時に抗えぬものよ」

彼の言葉は、まるで揺るぎない摂理を語るかのようだった。

「時の砂時計の場所を教えろ。急がなければ、手遅れになる」

アルカインが、カインに促した。彼の声には、かすかな焦りが滲んでいた。時間を無駄にしたくないという、彼の強い使命感が伝わってくる。

「砂時計は、この谷の最深部にある**『時の間』に安置されておる。だが、そこに至る道は、時の侵食者によって封じられている**。彼らは、過去の怨念を操り、道を阻む幻影を生み出している」

カインは、そう言うと、洞窟の奥を指差した。その指先が示す闇の先に、恐ろしい何かが潜んでいることを、結衣は直感した。

「幻影……?」

「ああ。時を歪められ、理不尽に命を奪われた者たちの魂が、幻影となって現れる。彼らは、訪れる者を過去の絶望へと引きずり込もうとするだろう。だが、その幻影に捕らわれてはならぬ。さすれば、お前たちも過去の亡霊となる」

カインの言葉は、恐ろしい響きを持っていた。それは、物理的な危険だけでなく、精神的な危機をも示唆していた。

「そんな……」

結衣は、不安に顔を曇らせた。(過去の亡霊になるなんて、そんなこと…) 想像するだけで、背筋が凍りつく。アルカインは、カインの言葉を聞き終えると、静かに洞窟の中へと足を踏み入れた。彼の表情は変わらないが、その歩みには覚悟が滲んでいた。

「行くぞ、結衣」

アルカインは、結衣に背を向けたまま、低い声で言った。彼の足取りに、迷いは一切ない。結衣に選択の余地はない。

結衣は、意を決して彼の後を追った。洞窟の中は、ひんやりとしていて、地面はじっとりと湿っていた。奥に進むにつれて、闇が深まり、銀色の光をかざしているアルカインの周囲以外は、視界がほとんど利かなくなる。闇が、結衣の心をじわじわと侵食していくような感覚に襲われた。

「どこか、光はありませんか……?」

結衣が不安げに尋ねると、アルカインは無言で手をかざした。すると、彼の掌から、銀色の光が強く放たれ、周囲を照らし出した。その光は、闇を切り裂き、洞窟の壁に幻想的な影を作り出す。結衣の影とアルカインの影が、闇の中で長く伸びた。

洞窟の壁には、複雑な紋様が幾重にも刻まれていた。それは、かつてこの場所に存在した、時を操る一族の歴史を記したものなのだろうか。壁を撫でると、冷たい石の感触が指先に伝わった。

幻影の囁きと「時の紡ぎ手」の覚醒

しばらく進むと、洞窟の奥から、微かな囁き声が聞こえてきた。それは、まるで多くの人々が同時に話しているかのような、しかし何を言っているのか判別できない、奇妙で不気味な声だった。その声は、耳から入るのではなく、直接、結衣の脳髄に響くかのようだった。

「あれが、幻影か……?」

結衣が不安げに呟くと、アルカインは静かに頷いた。彼の表情は変わらないが、その瞳の奥には、微かな緊張が見て取れた。

囁き声は、次第に大きくなり、結衣の頭の中に直接響いてくるかのようだった。それは、苦痛と絶望に満ちた声だった。

『なぜ、私たちを見捨てた……』

『助けてくれ……』

『この苦しみから、解放してくれ……』

頭の中に、悲痛な声が木霊する。結衣は、思わず両手で耳を塞いだ。しかし、声は止まらない。まるで、結衣の心に直接語りかけているかのように、その声は響き続ける。彼女の心臓は、恐怖と悲しみで締め付けられるようだった。

その時、闇の中から、複数の半透明の人影が現れた。それは、曖昧で歪んだ姿をしているが、確かに人間の形をしていた。彼らは、結衣にゆっくりと近づいてくる。その顔には、深い悲しみと、そして底なしの恨みが宿っているように見えた。彼らの目が、結衣を捉えて離さない。

「来るなっ!」

結衣は、恐怖に震えながら叫んだ。しかし、幻影は止まらない。彼らの手が、まるで幽霊のように、結衣に向かってゆっくりと、しかし確実に伸びてくる。

その時、アルカインが、結衣の前に立ち塞がった。彼の剣が、銀色の光を放ち、幻影たちを切り裂く。しかし、幻影は霧散するだけで、すぐに再び姿を現し、再生してしまう。

「無駄だ。幻影は、物理的な攻撃では消滅しない」

アルカインが低い声で呟いた。彼の額には、再び汗が滲んでいる。彼の力でも、幻影は完全に消せないのか。結衣の心に、新たな焦りが生まれた。

「どうすればいいんですか!?」

結衣が焦って尋ねた。幻影は、四方八方から結衣とアルカインを完全に包囲しようとしていた。逃げ場はない。

『お前も、私たちと同じ苦しみを味わうがいい……』

幻影の声が、直接結衣の心に語りかける。その声は、結衣の心を深く揺さぶり、不安と絶望を増幅させる。まるで、彼女自身の心の闇を暴き出すかのようだった。

(私にできること……!)

結衣は、全身で感じる恐怖と、幻影たちの悲痛な叫びの中で、必死に思考を巡らせた。あの時、精霊の力を引き出せたのは、この世界を救いたいと強く願ったからだ。この幻影たちも、苦しんでいる。彼らは、本当に救いを求めているのかもしれない。

その時、結衣の脳裏に、リーファの言葉が蘇った。「この世界は、精霊によって生かされている。彼らは、世界の時空の均衡を保つ存在だ」 そして、長老の言葉。「時の紡ぎ手は、時の精霊の声を聞き、未来を予見する力も持っていた」

そうだ。この幻影たちは、時の侵食者によって歪められた過去の悲鳴だ。彼らを癒すことができれば、道は開けるのかもしれない。理不尽に命を奪われた彼らの魂を、安らかに眠らせてあげることができれば。

結衣は、ゆっくりと目を閉じた。そして、心の奥底から、強く、深く願った。

(悲しみを、癒したい……! 苦しみを、終わらせたい……!)

その願いが、結衣の身体から、再び淡い光となって放たれた。それは、前回のような眩いばかりの光ではなく、全てを優しく包み込むような、温かい光だった。光は、結衣を中心に、まるで生き物のように幻影たちへとゆっくりと広がっていく。

幻影たちは、その光に触れると、驚いたように動きを止めた。彼らの顔に宿っていた悲しみと恨みの表情が、ゆっくりと、そして確実に和らいでいく。彼らの目が、安堵と感謝の光を宿した。

『ああ……なんて、温かい光だ……』

幻影の声が、囁きのように響く。その声には、苦痛ではなく、深い安堵が混じっていた。彼らの魂が、長年の苦しみから解放されていくのが、結衣には感覚的に分かった。

光は、幻影たちを完全に包み込み、ゆっくりと昇華させていく。彼らは、光の粒子となって、闇の中に溶けて消えていった。それは、闇に飲まれるのではなく、光へと還っていくような、穏やかな消滅だった。

洞窟の中に、静寂が戻る。囁き声も、幻影の姿も、どこにも見当たらなかった。闇の奥から、清らかな風が吹き抜けていくのを感じた。

アルカインは、その光景を静かに見つめていた。彼の瞳には、これまでの無表情からは考えられないほど、深い驚きの色が宿っていた。彼の口元が、微かに緩んだように見えたが、それはすぐに消えた。

「……お前は、幻影を消滅させたのか?」

アルカインが、信じられないという声で呟いた。その声には、微かな戸惑いが含まれていた。

「消滅させた、というよりは……彼らを、癒したかったんです」

結衣は、正直に答えた。彼女の心にも、まだ残る幻影の悲鳴が、切なく響いていたからだ。

アルカインは、結衣をじっと見つめた。その視線は、まるで初めて結衣の存在を真に認識したかのように、強く、そして探るようなものだった。彼の瞳の奥で、何かが確かに変わったのを、結衣は感じた。

「これは……『時の紡ぎ手』の力……」

彼の言葉には、どこか感嘆のような響きが含まれていた。それは、感情のない彼が、素直に驚きを表現しているようにも聞こえた。

「この先も、幻影は現れる。だが、お前がいれば、この谷を越えられるかもしれない」

アルカインはそう言うと、確信に満ちた足取りで、再び歩き出した。彼の背中が、これまで以上に大きく、頼もしく見えた。

結衣は、彼の言葉に安堵し、そして新たな使命感を抱いた。自分の力が、この世界の助けになる。その事実が、結衣の心を強くした。不安が、確かな希望へと変わっていく瞬間だった。

「時間の砂時計」と最後の希望

洞窟の奥に進むにつれて、幻影はさらに多く現れた。しかし、結衣はもう恐れることなく、その優しい光で幻影たちを次々と癒していく。彼女の光に包まれた幻影たちは、安らかな表情で消滅していった。彼らの最後の声は、結衣への感謝と、そして静かな祈りのようだった。アルカインは、その結衣の姿を、時に横目で確認しながら、黙々と先導した。彼の表情は依然として無表情だったが、その瞳の奥には、結衣に向けられる確かな信頼が宿っていた。

どれくらい歩いただろうか。感覚が麻痺するほどの長い時間だった。洞窟の闇の先に、微かな、しかし確かな光が見えてきた。その光は、闇を打ち消すように、神聖な輝きを放っていた。

「……ここだ」

アルカインが立ち止まった。彼の声には、かすかな緊張感が混じっている。

光が漏れる場所へと足を踏み出すと、そこは巨大な空間だった。洞窟の天井は遥か高く、その広さに結衣は息を呑んだ。空間の中央には、巨大な砂時計が荘厳に鎮座している。それは、まるで星屑を集めて作られたかのように輝く砂が、ゆっくりと、しかし確実に流れ落ちていた。砂時計の周りには、複雑な紋様が刻まれた巨大な柱が何本もそびえ立ち、その全てが神聖な雰囲気を醸し出していた。時間の流れそのものが、形になったかのような、畏敬の念を抱かせる光景だった。

「あれが、『時間の砂時計』……」

結衣は、その壮大な光景に息を呑んだ。感動と、畏怖が入り混じった感情が、彼女の心を支配した。

しかし、その荘厳な砂時計の周りには、禍々しい黒い靄が渦巻いていた。砂時計のガラスには、無数のひび割れが深く入り込み、そこから黒い粒子が不吉に漏れ出している。まるで、命が蝕まれているかのようだ。

「時の侵食者が、すでに砂時計を深く侵食している……」

アルカインが、低い声で呟いた。彼の瞳に、再び緊迫した色が宿る。彼の表情には焦りはないものの、その声からは、事態の深刻さがひしひしと伝わってきた。

その時、砂時計の奥から、これまでよりもはるかに巨大な影が現れた。それは、紛れもない**「時の侵食者」だった。その身体からは、禍々しい黒いオーラが立ち上り、周囲の空間を文字通り歪ませている**。その存在そのものが、世界の理を破壊しようとしているかのようだった。

「グルルルルル……」

時の侵食者は、地を揺るがすような咆哮を上げ、アルカインたちに向かってゆっくりと、しかし容赦なく歩み寄ってきた。その足音は、地面を揺るがすほど重く、結衣の心臓を直接叩いているかのようだった。

「手強い相手になりそうだ」

アルカインが、銀色の剣を構え、時の侵食者に向かって一歩踏み出した。彼の表情は、相変わらず無表情だったが、その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っている。

「私も、戦います!」

結衣は、迷うことなくアルカインの隣に立ち、両手を広げた。彼女の身体からは、淡い光が放たれ、その光は、アルカインを優しく包み込んだ。

「何をしている?」

アルカインが、僅かに驚いたように結衣を見た。彼の瞳の奥に、微かな動揺が走ったのを、結衣は見逃さなかった。

「この光は、あなたを癒し、力を高めるはずです。私も、あなたと一緒に戦いたい!」

結衣は、真っ直ぐにアルカインの目を見つめ、強い意志を込めて言った。彼の表情は変わらなかったが、その瞳の奥に、微かな動揺が確かに見えた。彼の心の中に、彼女の言葉が波紋を広げているのが分かった。

「お前は、私の足手まといになるだけだ」

アルカインが、いつものように冷たく言い放った。しかし、彼の言葉とは裏腹に、彼は結衣の光を拒絶しようとはしなかった。その瞬間、結衣は、彼の真意が、自分を危険に晒したくないという、彼なりの優しさなのだと悟った。

「足手まといにはなりません! 私も、この世界を救いたいんです! そして、あなたを一人にしたくない!」

結衣の言葉が、アルカインの心を深く揺さぶった。彼の瞳に、これまで見たことのない、感情の波が大きく生まれた。それは、孤独の中で、誰かに共に歩むことを望まれた者だけが持つ、微かな希望と戸惑いの光だった。

時の侵食者が、巨大な鎌を振り上げ、二人に向かって容赦なく攻撃を仕掛けてきた。その鎌は、空間を切り裂くかのように迫る。

アルカインは、結衣を庇うように一歩前に出た。彼の剣が、銀色の光を放ち、時の侵食者の重い一撃を弾き返す。結衣の光が、アルカインの力を明かに増幅させているのが分かった。彼の剣は、これまで以上に鋭く、そして重い一撃を繰り出す。その一撃は、まるで時間の流れそのものを切り裂くかのようだった。

「ぐ、ぐぅ……!」

時の侵食者が、苦しそうに呻き、大きく後ずさりした。その巨体が揺れるたび、空間が微かに歪む。

「いける……!」

結衣は、確信した。自分の光が、アルカインの秘められた力を最大限に引き出し、彼の戦闘能力を格段に高めている。二人の力が共鳴し合っているのだ。

アルカインは、時の侵食者の隙を突き、怒涛の攻撃を仕掛けた。彼の動きは、舞うように優雅でありながら、その全ての一撃が重く、そして正確だった。結衣の光が彼を包み込むことで、彼の動きはさらに加速し、時の侵食者は防戦一方になる。彼は、まるで時を自在に操る舞人のようだった。

「――『時(とき)を穿つ、光(ひかり)の剣(つるぎ)』」

アルカインの剣が、再び銀色の光の奔流となって、時の侵食者の身体を完全に貫いた。その光は、闇を打ち払い、希望を告げるかのようだった。

「グアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!」

時の侵食者が、断末魔の叫びを上げた。その身体から噴き出す黒い靄が、止めどなく砂時計へと向かって勢いよく流れ込む。砂時計は、その靄に激しく反応し、きしみ音を立てた。

「砂時計を守れ!」

アルカインが、普段の彼からは考えられないほど強く、そして焦りの滲んだ声で叫んだ。彼の声が、結衣の耳に響き渡った。

結衣は、すぐさま砂時計に向かって駆け出した。黒い靄が、砂時計のひび割れから渦を巻くように中に侵入しようとしている。もし、この靄が完全に侵入すれば、砂時計は破壊され、この時代の時間そのものが完全に狂ってしまうだろう。それは、取り返しのつかない事態を意味していた。

「駄目! 入らせない!」

結衣は、砂時計に両手をかざし、全身から最後の力を振り絞るように光を放った。結衣の優しく、しかし確かな光が、砂時計を包み込み、黒い靄の侵入を必死に防ごうとする。しかし、靄の勢いは強く、結衣の光は押し負けそうになっていた。彼女の身体からは、汗が噴き出し、限界が近いことを知らせる。

(もっと……もっと力を!)

結衣は、力の限りを尽くし、強く、深く願った。この世界を救うために。アルカインの助けになるために。

その時、結衣の脳裏に、遙か昔の記憶が、幻影のように鮮明に蘇った。それは、この**「嘆きの谷」の奥深く**、まだ砂時計が無傷で、輝いていた頃の光景だった。人々が、この砂時計の周りで祈りを捧げ、時の精霊の恵みに感謝している。そこに、結衣とよく似た顔立ちの女性がいた。彼女もまた、光を放ち、砂時計を守っていた。その女性の姿は、まるで結衣自身の遠い過去の姿を見ているかのようだった。

(これが……『時の紡ぎ手』の記憶……?)

結衣は、自分の血の中に、確かにその力が宿っていることを悟った。それは、知識としてではなく、魂に刻まれた記憶として、彼女の中に深く根付いていた。

「時の精霊よ……我(われ)に力を……!」

結衣は、意識せず、この世界の古の、そして神聖な言葉を紡ぎ出し、より強い光を放った。彼女の身体から溢れ出す光は、砂時計を完全に包み込み、ひび割れから侵入しようとしていた黒い靄を完全に浄化していく。それは、まるで淀んだ水を清らかな泉に戻すかのようだった。

黒い靄は、まるで水に溶けるかのように跡形もなく消え去った。

時の侵食者は、アルカインの最後の攻撃を受けて、最後の断末魔の叫びを上げた後、黒い灰となって完全に消滅した。その存在は、この世界から完全に消え去った。

空間に、再び静寂が訪れる。それは、長く苦しい戦いの終わりを告げる、穏やかな静寂だった。

砂時計のひび割れは、完全に塞がっていた。そして、砂時計から、温かい、生命力に満ちた光が放たれ、空間全体を優しく照らし出した。その光は、希望の象徴のように、結衣の心に深く響いた。

アルカインは、剣を鞘に収めると、結衣の元へとゆっくりと歩み寄ってきた。彼は、無言で砂時計の奇跡的な回復を見つめている。彼の瞳の奥には、微かな感動のようなものが読み取れた。

「これで……大丈夫なんですか?」

結衣が不安げに尋ねた。まだ、全てが夢のようだった。

アルカインは、砂時計から目を離し、結衣の顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、初めてはっきりと、安堵の色が浮かんでいた。それは、彼がどれほどの重圧を抱えていたのかを物語っていた。

「ああ。お前が、歴史の分岐点において、正しい選択を促し、そして歪みを修正した」

彼の言葉に、結衣は胸を撫で下ろした。全身の緊張が解け、安堵の溜息が漏れる。

「お前は、本当に……『時の紡ぎ手』の血を引いているようだ。その力がなければ、砂時計は破壊され、この時代の歴史は完全に歪んでいただろう」

アルカインの声には、これまでになかった、感謝と、そして微かな尊敬の念が込められているようだった。彼の評価が、結衣にとっては何よりも嬉しい報酬だった。

「私……本当に、良かった……」

結衣は、全身から力が抜けていくのを感じた。緊張の糸が切れたように、その場に力なくへたり込んだ。疲労と安堵が、同時に彼女を襲った。

アルカインは、そんな結衣の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。彼の瞳は、虚空を見つめているが、その表情は、どこか穏やかに見えた。まるで、長年の重荷が、少しだけ軽くなったかのようだった。

「この力は、お前を危険に晒すだろう。だが、同時に、この世界を救う希望でもある」

アルカインが、静かに、そして深く語り始めた。彼の声には、決意と、そして微かな温かさが混じっていた。

「私は、これまで多くの時を旅してきた。だが、一人では、全てを修正することはできなかった。時の侵食者の活動は、想像以上に速く、そして狡猾だった」

彼の言葉には、途方もない孤独と、そして深く蓄積された疲労が滲んでいた。それは、感情を失った彼の、唯一残された本心のように聞こえた。結衣の胸が、締め付けられる。

「だが、お前がいる。お前が持つ**『紡ぎ手』の力は、私の『旅人』の力**と共鳴し、新たな可能性を生み出す」

アルカインは、結衣の手をそっと取った。彼の指先は、まだ冷たかったが、そこには確かな温もりと、そして二人の間に新たに生まれた絆が、確かな形で存在しているのを感じた。それは、言葉以上の意味を持つ、深い繋がりだった。

「共に、この終焉の時代を越えよう、結衣。お前が、私の最後の希望だ」

彼の瞳に、結衣は、微かな光を見た。それは、これまで感情を失っていた彼が、初めて見せた、紛れもない希望の光だった。その光は、結衣の心に深く、温かく響き渡った。

結衣は、アルカインの言葉に、ゆっくりと、そして力強く頷いた。彼女の瞳には、決意の光が宿っていた。

「はい……! 私も、あなたと共に、この世界を救いたいです!」

二人の手と手が、強く、そして確かな重みを持って握り合わされた。それは、単なる約束ではなく、未来への誓いのようだった。

砂時計から放たれる温かい光が、二人を優しく包み込む。それは、過去から未来へと紡がれる、新たな希望の光のように、空間を照らし、二人の行く末を祝福しているかのようだった。


第四話へ続く


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