「終焉の時代」と名付けられたこの世界で、結衣とアルカインは新たな旅路についた。「嘆きの谷」の「時間の砂時計」を救い、一つの分岐点を乗り越えた二人。砂時計から放たれる温かい光は、疲弊した結衣の心に、確かな安堵と、そして希望を灯した。アルカインの言葉通り、彼の冷たい指先から伝わる温もりは、絆の証のように感じられたのだ。
新たな目覚めと深まる絆
谷を後にした二人は、静寂に包まれた森の中を歩いていた。夜が明け、瑠璃色と深紅の葉が太陽の光を浴びて煌めいている。しかし、結衣の心は、見たこともない色の空よりも、隣を歩くアルカインの存在で満たされていた。
「アルカインさん……疲れてませんか?」
砂時計での激戦を思い出し、結衣は彼を気遣った。彼の額に浮かんだ微かな汗、そして一瞬だけ見せた疲労の色が、結衣の脳裏に焼き付いている。
アルカインは足を止めず、無表情のまま答えた。
「問題ない。お前の光は、回復を早めている」
その言葉に、結衣の胸に温かいものが広がった。(私の力が、彼の役に立ってる……!) 「足手まといになるだけだ」と冷たく言い放たれた時、彼の役に立ちたいと強く願った。その願いが、現実になったのだ。
「その……『時の紡ぎ手』の力って、どうすればもっと使えるようになるんですか?」
自分の中に眠る未知の力に、結衣は好奇心と、かすかな興奮を覚えていた。それは、会社でパッケージデザインに没頭していた時とは全く違う種類の、純粋な探求心だった。
アルカインは、わずかに視線を結衣の方に向けた。
「明確な修練法はない。お前自身の心が、力の根源となる。精霊と深く繋がり、世界の理を理解することで、その力は目覚めていくだろう」
「私の心……」
結衣は、自分の胸にそっと手を当てた。疲労や恐怖だけでなく、この世界を救いたいという強い思い、そしてアルカインを一人にしたくないという感情が、確かにそこにあった。
「『時の紡ぎ手』は、精霊の声を聞くことができると、カインが言っていたわね……」
(どうすれば、精霊の声が聞こえるようになるんだろう?) 結衣は、かつて読んだファンタジー小説のように、精霊が姿を現して話しかけてくれるような幻想を抱きかける。しかし、この世界の精霊は、もっと深遠で、目に見えない存在なのだろう。
「精霊の声は、世界の囁きだ。心の耳を澄ませば、感じ取れる時が来るだろう」
アルカインの言葉は抽象的だったが、結衣は素直に頷いた。
世界の真実と彼の孤独
森の深部へと進むにつれ、空気は一層澄み、柔らかな光が満ちてきた。足元には、見たことのない植物が光を放ち、まるで絵画のような美しさだ。しかし、この美しさの裏に、世界の崩壊という悲しい現実が隠されていることを知っている結衣は、複雑な気持ちだった。
「アルカインさん、この世界の崩壊は……どうして始まったんですか? 時の侵食者は、何が目的なんです?」
昨夜の「嘆きの谷」での戦いを終え、心の距離が少し縮まった今、結衣は素朴な疑問を彼に投げかけた。彼の口から語られるこの世界の真実を、もっと深く知りたいと思ったのだ。
アルカインは立ち止まり、遠く、幻想的な空を見上げた。その銀色の太陽は、どこか悲しげに輝いているように見えた。
「時の侵食者の目的は、私にも完全に理解できていない。だが、彼らは、世界の根源である『時の精霊』の力を吸収し、世界の理を歪ませようとしている。全てを無に帰すことが、彼らの望みなのかもしれない」
彼の声には、感情がないはずなのに、深い諦めと、途方もない疲労が滲んでいるように聞こえた。結衣は、彼の横顔をじっと見つめた。その瞳の奥には、数えきれないほどの時間の重みと、孤独が刻まれているように感じられた。
「世界の全てを無に……そんなことをして、彼らに何のメリットがあるんですか?」
「私には、彼らの思考は理解できない。だが、彼らがこの世界に存在し、破壊を続ける限り、私は戦い続けるだけだ」
アルカインの言葉は、まるで定められた運命を受け入れているかのようだった。彼の使命感は、彼の感情を凍らせた代わりに、彼を突き動かす唯一の原動力となっているかのようだ。
(この人は、一体どれほどの悲しみと孤独を抱えてきたんだろう……?) 結衣は、彼の冷たい仮面の下に隠された、彼の本当の感情を垣間見た気がした。彼の瞳の奥に宿る虚ろな光は、感情が失われたからではなく、あまりにも多くの悲しみを受け止めすぎて、それ以上を抱えられないからなのではないか。
「アルカインさん……一人で、本当にずっと辛かったでしょう?」
結衣は、思わず彼の腕に触れた。ひんやりとした感触は変わらないが、そこに宿る温かさを、結衣は感じていた。
アルカインは、結衣の言葉に微かに顔を動かした。その視線は、結衣の顔から、触れている腕へと移る。
「辛さ……。それは、感情を持つ者が抱く感覚だ。私には、すでにその感覚はない」
彼の言葉は、結衣の心を締め付けた。それでも、結衣は諦めなかった。
「そんなことはない。あの時、『嘆きの谷』で私を助けてくれた時も、あなたが私を気遣ってくれた時も……私には、あなたの中に、確かに優しさが見えました」
結衣の言葉に、アルカインは何も答えなかった。ただ、じっと結衣を見つめている。彼の瞳の奥で、何かが揺らいでいるように見えた。それは、凍り付いた湖の表面に、かすかな波紋が広がるような、微細な変化だった。
沈黙が、二人の間に流れる。しかし、それは決して重苦しいものではなかった。むしろ、言葉にならない感情が、二人の間を行き交っているかのようだった。結衣は、彼の冷たい仮面を剥がし、その奥にある彼の本心に触れたいと強く願った。
時を超えた共鳴
再び歩き始めた二人は、深い森を抜け、広大な草原へと出た。風が草を揺らし、心地よい音が響く。空は、ここでも複数の色彩が混じり合い、刻々とその色合いを変えていた。
「この草原の先には、『古き都』がある。次の分岐点は、そこだ」
アルカインが、遠くに見える巨大な建造物の影を指差した。
「都……? 人がたくさんいるんですか?」
「ああ。そこは、かつて『時を操る一族』が暮らしていた場所だ。彼らの末裔も、いまだにその都で暮らしている」
(彼らの末裔……!) 結衣は胸を高鳴らせた。もしかしたら、自分が何者なのか、もっと詳しく知ることができるかもしれない。
草原を歩いていると、突如として、背の高い草むらの中から、奇妙な音が聞こえてきた。
「キィィィィィッ!」
それは、機械と動物の鳴き声が混じったような、不快な音だった。そして、複数の黒い影が、草むらから飛び出してきた。それは、昨日、始まりの里で現れた獣たちとよく似ていたが、より大きく、その身体からは、黒い粒子が常に漏れ出している。
「時の侵食者の眷属か……!」
アルカインが低い声で呟き、剣を構えた。
獣たちは、結衣とアルカインを取り囲むように現れ、その赤い目で二人を威嚇した。
「私に、何かできることはありますか?」
結衣は、恐れることなく、アルカインの隣に立った。自分の光が、彼の助けになることを知っている。
「私の動きを阻むな。それ以外は、好きにしろ」
アルカインはそう言うと、獣の一匹に向かって切りかかった。彼の動きは、これまで以上に速く、正確だった。結衣の光が、彼に力を与えているのが分かる。
結衣は、獣たちの動きを見ながら、自分にできることを探った。彼らの身体から漏れ出す黒い粒子は、周囲の植物を枯らしている。この粒子が、彼らの生命力と関係しているのだろうか。
(癒しの光……あれで、彼らを浄化できないかな?)
結衣は、獣の一匹に狙いを定め、掌から淡い光を放った。光は、獣の身体を包み込む。獣は、苦しそうに鳴き声を上げ、その身体から漏れ出す黒い粒子が、光によって浄化されていくのが見えた。
「グルルル……!」
獣は、力が抜けたようにその場に倒れ込んだ。しかし、完全に消滅したわけではない。まだ、かすかに息をしていた。
「彼らは、完全に消滅させなければ、再び復活する」
アルカインが、獣を切り裂きながら、結衣に助言した。彼の一撃で、獣は黒い灰となって消滅した。
(完全に消滅させるには、もっと強い力が必要……)
結衣は、アルカインの戦闘を邪魔しないように注意しながら、自分にできることを試みた。彼女は、癒しの光を複数の獣に放ち、彼らの動きを鈍らせ、アルカインが確実に仕留められるよう援護した。彼女の光は、獣たちの攻撃を弱め、アルカインへの負担を減らしている。
アルカインは、結衣の援護を受けながら、次々と獣たちを切り裂いていく。彼の無駄のない動きと、結衣の柔軟なサポートが、見事に連携し始めていた。
全ての獣を倒し終えると、アルカインは静かに剣を鞘に収めた。彼の顔には、疲労の色は見えなかった。
「お前の力は、私にとって、想像以上の助けとなる」
アルカインが、結衣の目を見て言った。その声には、微かな驚きと、そしてこれまでになかった、深い信頼の響きが込められているようだった。
「アルカインさん……」
結衣の心は、歓喜で満たされた。彼に認められた。彼の役に立てた。その事実が、何よりも嬉しかった。
「だが、この力は、お前自身の身体にも負担をかける。無闇に使うな」
アルカインが、結衣の顔を覗き込んだ。彼の瞳に、結衣を気遣うような、微かな感情の揺らぎが見えた。
「大丈夫です! アルカインさんがいるから!」
結衣は、満面の笑みで答えた。彼女の笑顔は、アルカインの凍り付いた心を、少しずつ溶かしていく。
アルカインは、何も言わなかった。ただ、結衣の笑顔をじっと見つめている。その瞳の奥で、彼の感情の氷が、ゆっくりと、しかし確実に溶け始めているのが、結衣には分かった。
草原の向こうに、古き都の影がはっきりと見え始めた。その都は、時の流れに耐え、悠久の歴史を刻んできたかのように、荘厳な姿でそびえ立っていた。
(次は何が起こるんだろう……? でも、アルカインさんと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる気がする)
結衣は、隣を歩くアルカインの横顔を見上げた。彼の瞳の奥に宿る、微かな光が、結衣の心を温かく照らしていた。
第五話へ続く