五月の新緑が目に鮮やかに映るキャンパスの昼下がり。人気のない図書館の奥、静かな読書スペースに大知は一人で座っていた。机の上には分厚い哲学書が開かれている。
そこに、静かに歩み寄る一人の影があった。亜紀だ。
「……こんにちは」
小さな声が空気を揺らし、大知が顔を上げた。微笑を浮かべる。
「こんにちは。亜紀さんも、ここで読書?」
「ええ。あなたがここにいるのは少し意外だったけど」
大知はゆっくりと本を閉じ、穏やかな声で返した。
「たまには静かな時間もいいなと思って。外では賑やかだから」
亜紀は彼の向かいの席にゆっくり腰を下ろす。その仕草も静かで柔らかいが、どこか探るような気配を帯びている。
「……本当に、あなたは自然体ね」
「そんなことないよ。たぶん、僕は意識して“自然に見せてる”だけかもしれない」
その答えに亜紀の目がわずかに細まる。
(ふふ、やっぱり面白い)
内心そう呟きながら、さらに言葉を重ねた。
「あなた、あまり自分のことは話さないのね」
「そうかな?」
「ええ。皆の話はよく聞くのに、自分の話になるといつもさらっと流す。優しさなのか、警戒なのか」
大知は少し考えた後、柔らかく微笑んだ。
「どちらも、かな。誰かが話したいなら僕は聞きたい。でも、僕の話は、そんなに面白くないから」
「本当にそう思ってる?」
「……思ってるよ」
その答えに、亜紀はまたクスクスと笑った。
「自分を低く言うのも、魔性の技術のうちかしら」
大知は首を傾げる。
「魔性……?」
「ええ。あなた、たぶん自分では気づいてない。あなたのそういう柔らかさが、どれだけ周りを惹きつけてるか」
大知は少しだけ目を伏せた。けれど、すぐにまた微笑む。
「もしそうなら……それで誰かが安心できるなら、僕はそれでいいかな」
その言葉の奥にある微かな孤独を、亜紀は見逃さなかった。
(やっぱり、この人は“無自覚の魔性”なのね)
――
数日後。学内のカフェテリアでのことだった。
悟、将吾、朋子、純、そして亜紀、大知の6人が揃ってテーブルを囲んでいた。自然とできたこのグループは、すでに大学でも小さな注目の的になりつつあった。
「いやー、やっとイベント準備も一段落だな!」
悟が豪快にカレーライスをかき込みながら言う。
「当日までは気を抜けないけどな」将吾が呟く。
その横で朋子は手帳をめくりながら確認している。
「備品リストは私が最終チェックしておくわ」
「さっすが朋子姉さん。頼りにしてます」純がからかうように言った。
そんな和やかな雰囲気の中、亜紀はふと大知に話題を振った。
「ねえ、大知くん。あなたは、例えば“人に嫌われる覚悟”って持ってる?」
唐突な質問に周囲の空気が一瞬止まる。悟が思わず口を挟む。
「お、おい亜紀、急に何の話だよ?」
「少し気になっただけ」亜紀は微笑を崩さない。
大知はわずかに考えてから答えた。
「……嫌われたくないとは思う。でも、自分のせいで誰かが嫌な思いをするくらいなら、僕が嫌われる方がいいのかもしれない」
静かながら、芯の通った言葉だった。亜紀はゆっくりと頷く。
「なるほど……やっぱり手強いわ」
そのつぶやきに、悟が苦笑する。
「ほら出た、亜紀の分析癖」
純がにやりと口元を緩める。
「まあ、確かに大知は普通のタイプじゃねえな」
その晩、亜紀は一人、自室のデスクに向かっていた。窓の外では春の夜風が木々を揺らしている。
テーブルの上には何冊かの心理学の本が積まれていた。静かな照明の下、彼女はページをめくりながら、大知の言葉を反芻していた。
(嫌われる覚悟、か……普通なら“無理していい顔してる”と思うけど、彼は違う)
彼の言葉は作為的ではなかった。だが、それがまた不可解なのだ。無理をしているわけではないのに、自然と人の懐に入り、反発心を吸収してしまう。
(だからこそ、気になる)
亜紀はゆっくりとペンを回しながら考えた。
(どこまでが意図的で、どこまでが無自覚なのか。少し揺さぶってみようかしら)
翌日、亜紀は静かに仕掛けを始めた。
昼休み、学食でまた全員が集まっていたときのこと。話題は週末のイベント準備についてだった。
「ところでさ、大知くん」
亜紀がわざと皆の前で声をかけた。
「あなた、意見がぶつかった時に本音でぶつかり合ったことって、ある?」
「え?」
急な質問に一瞬だけ大知の眉が動く。周囲も微妙に静まり返った。
「本音ってぶつかり合うときもあるでしょ?誰もが納得する調整ばかりじゃ、逆に不満が溜まることもある。……それでも、誰にでも優しくしていればいいと思う?」
純がやや目を細め、将吾は腕を組み、悟は慌てたように周りを見渡していた。だが大知は、まっすぐに亜紀の目を見た。
「……たしかに、全部が丸く収まるわけじゃない。でも、僕はぶつかり合うことで傷つく人が増えるのが怖いんだ。だからできる限り、違う方法を探したいって思う」
「違う方法?」
「うん。“譲れない”じゃなく、“譲っても大丈夫”って思える落としどころを探す、みたいな感じかな」
それはまるで、相手の痛みを先回りして代わりに背負おうとするような発想だった。
亜紀はゆっくりと頷いた。
「なるほど……つまりあなたは、皆の“安心できる場所”になろうとしてるのね」
大知は少しだけ驚いたように目を見開き、すぐにまた微笑んだ。
「そう言われると、少し照れるけど……そうかもしれない」
亜紀はそこでクスクスと笑った。
「やっぱり、あなたは手強いわ。……でも、嫌いじゃないわよ、その優しさ」
場の緊張がふっと和らぎ、悟がほっと息を吐いた。
「いやー、今日も亜紀の心理ゲームが発動したかと思って焦ったぜ!」
「大知なら大丈夫だと思ったからよ」
亜紀が柔らかく微笑むと、朋子がやれやれと肩をすくめた。
「……こういうやりとりも、また“魔性”って呼ばれる所以ね」
大知は苦笑しつつ、皆の笑顔を眺めた。そこには敵意はなく、むしろ妙な安心感があった。
その後も学園祭の準備は順調に進んでいった。夕暮れ時の屋外テラスでは、亜紀が偶然帰り支度をする大知に声をかけた。
「ねえ、大知くん。もう少しだけ時間、いい?」
「もちろん」
二人は並んでキャンパスの小道を歩き出した。人通りは少なく、風が新緑の木々を揺らしている。
「さっきはちょっと意地悪だったかもしれないわね」
亜紀はふと前を見たまま言った。大知は静かに微笑む。
「ううん。むしろ、ありがたかったよ。僕の考え方を言葉に整理できたから」
「あなたは自分の考えをあまり主張しないのに、相手にそう思わせるのが上手いのよね。だから、みんな自然とあなたを中心に据えていく」
少しだけ沈黙が流れる。
「それって、怖くない?」
亜紀の問いは、優しさに包まれた鋭さを持っていた。大知はわずかに目を細めた。
「怖いときもあるよ。自分がどう見られているのか、時々わからなくなる。でも……それでも皆と一緒にいられるなら、それが嬉しいとも思う」
「……あなた、本当に面白いわ」
亜紀は足を止め、大知をじっと見つめた。春の夕陽が彼女の横顔を淡く染める。
「もし私が、わざとあなたに意地悪してみたら、どうする?」
唐突な問いに、大知は一瞬目を見開き、やがて柔らかく微笑んだ。
「そのときは、亜紀さんが何を考えてるのか、静かに教えてくれるまで待つよ」
亜紀は思わず吹き出してしまった。
「……本当に手強いわね、あなた」
そして小さく付け加えた。
「きっと、これからもっと面白いわよ」
二人は再び歩き出した。緩やかな風が若葉の隙間を抜け、柔らかな黄昏がキャンパスを包んでいく。
亜紀の挑戦は、確かな敬意と好奇心を含んだまま、静かに終わった。
(第4話 完)