学園祭が近づくにつれ、キャンパスは徐々に浮き足立ち始めていた。準備作業も佳境に入り、夜遅くまで作業に追われる日が続く。
その晩も、学生会館の控え室では片付け作業が続いていた。備品整理を終えた後、自然と皆が解散し始める。
だが、大知は最後まで残って机の隅を黙々と拭いていた。
「……律儀だな、お前は」
背後から聞こえたのは純の声だった。彼も最後まで残っていたらしい。
「もう遅いぞ。今日はこの辺で切り上げろよ」
大知は振り返り、柔らかく笑った。
「あと少しだけ。細かいところ拭いておくと、明日が楽になるから」
「几帳面なのは悪くねえけどさ……」
純は壁にもたれながら腕を組んだ。少しの間、二人の間に静寂が流れる。夜の部室棟は静かで、換気扇の微かな唸りだけが響いていた。
「……なあ、大知」
珍しく、純が真面目な声で切り出した。
「お前、本音って持ってんのか?」
「え?」
「いやさ、いつも思うんだよ。お前、誰にでも柔らかく接するけど、本心の部分をあんまり表に出さねえよな。こう……“俺はこう思う”って感じが希薄っていうかさ」
大知は静かに雑巾をたたみながら答えた。
「本音……。持ってるつもりだけど、それを出すことで誰かが苦しくなるなら、言わなくてもいいかなって思うことが多いんだ」
「……それが優しさだって思ってんのか?」
「うん。でも、もしかしたら逃げてるのかもしれない」
純は鼻を鳴らした。
「だろうな。……オレは、そういうの逆に苦手なんだよ。言わねえで溜め込んでる奴見ると、こっちまで気持ち悪くなる」
大知は少し驚いた顔で純を見た。だが純は続ける。
「オレは礼儀とか気遣いとかあんま興味ねえ。だから言いたいこと言うし、言ってもらわねえと信用できねえ。……けど、お前の場合は不思議と嫌な感じはしねえんだよな」
その言葉に、大知は微かに目を細めた。
「ありがとう。純くんは本当に素直だね」
「褒めてんのか、それ?」
「うん。僕にとっては、とてもありがたい存在だよ。純くんみたいに、正直に本音をぶつけてくれる人がいるから、僕も安心できる」
純は一瞬言葉に詰まり、口元をぴくりと動かした。
「……安心、ねえ。変わってるよ、お前」
そう言いながらも、どこか悪い気はしていなかった。むしろ胸の内側に、静かなあたたかさが広がっていく感覚。
そのまま静かに夜風が吹き抜けた。
翌日。夕暮れのキャンパス。
準備作業が早めに終わり、珍しく純と大知の二人だけで帰ることになった。並んで歩くが、会話はなく、少し気まずいような、けれど心地悪くはない沈黙が流れていた。
やがて純が、ぽつりと口を開いた。
「……なあ、大知」
「うん?」
「オレさ、前からちょっと気になってたんだよ。お前って結局、何が欲しくて人に優しくしてんだ?」
唐突な問いに、大知は少し考え込むように視線を落とした。
「……たぶん、安心感、かな」
「安心感?」
「うん。誰かが自分のそばにいてくれて、その人が無理をしてないって思えると、僕も安心できる。だから、先に相手を安心させようとしちゃうのかもしれない」
純は眉をひそめた。
「それって、ずっと気を使い続けるってことだろ?疲れねえのか?」
大知はふっと笑った。
「疲れる時もあるよ。でも、誰かが本音を言ってくれたとき、それで僕が役に立てたなら、その分だけ嬉しいんだ」
純は立ち止まって大知をじっと見た。
「……じゃあさ。オレが今、愚痴りたくなったら、聞く覚悟あるか?」
「もちろん」
即答だった。純は小さく息を吐く。
「実はさ……最近ちょっと悩んでたんだよ」
普段なら見せない弱音。純の声は少し低かった。
「親がさ、“そろそろ将来考えろ”ってうるさくてよ。資格取れだの公務員目指せだの……正直言って興味ねえし、なんか息苦しくなる」
大知は黙って頷きながら聞いていた。遮ることなく、ただ聞く。純は続ける。
「オレはさ、やりたいこともまだ分かんねえし、今は楽しく生きたいだけなんだよな。でもそれ言うとまた小言くらうしさ……」
しばらくの沈黙の後、大知が静かに口を開いた。
「純くんは、きっと本音を隠すのが苦手なんだね。だからこそ、今こうして話してくれたことは、すごく大事なことだと思う」
純は少しだけ苦笑する。
「……大事、ねぇ。まあ、吐き出したら少しは楽になったけどよ」
「それでいいんだよ。本音を言える場所があるってことが、きっと純くんの支えになるから」
その穏やかな声に、純は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
しばらく沈黙が続いた後、純はぽつりとつぶやいた。
「……今までのお前のやり方、少し分かった気がするわ」
「ありがとう」
「でもな、大知。オレはお前が無理してんのも、見抜いたら言うからな?」
大知はふっと目を細めた。
「うん。純くんがいてくれるなら、僕も無理しすぎずにすむかもしれない」
その答えに純は一瞬、照れ隠しのように視線をそらした。
「……まったく、ズルい奴だわ。そうやって人を安心させやがって」
二人は再び歩き出す。春の夜風が、そっと背中を押すように吹いていた。
数日後の放課後、学園祭準備の合間。控え室の隅で、大知はひとり作業していた。そこへ純がふらりと現れる。
「おう、大知。ちょっと付き合え」
「うん?」
「コーヒーでも飲もうぜ。たまには休憩もしねえと」
いつもなら淡々とした純が、やや照れたような表情で誘ってくるのが新鮮だった。大知は微笑みながら頷いた。
二人は学内の人気の少ないカフェスペースに腰を下ろした。プラスチックのカップから立ちのぼる湯気が、静かな夕暮れの光に揺れている。
「……さ」
純は膝の上で指を組みながら、ゆっくり口を開く。
「前にさ、“誰かの受け皿になれたら嬉しい”って言ってたろ?」
「うん」
「その時は正直、意味わかんなかった。でも最近、ちょっと分かってきた気がするわ」
純は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「誰でも本音ぶつけるのって、実は結構怖いんだよな。だからこそ、そういうの受け止めてくれる奴がいると楽になるんだな、って」
大知は柔らかく目を細めた。
「純くんがそう感じてくれたなら、僕は嬉しいよ」
「でもな」
純は人差し指を軽く突きつけた。
「受け皿になりすぎんな。全部背負って潰れたら意味ねえだろ」
「……そうだね」
「だから、お前も弱音吐きたい時は遠慮すんなよ。オレに愚痴るくらい、いくらでも付き合ってやる」
そのまっすぐな言葉に、大知はふっと柔らかく笑った。
「ありがとう。純くんがそう言ってくれるなら、きっと大丈夫だと思う」
「ったく……ほんと魔性だな、お前」
純は少しだけ口元を緩め、いつもの皮肉混じりの表情に戻っていた。だがその背中からは、これまでよりも少しだけ強い信頼が滲んでいた。
二人の静かな絆が、ゆっくりと固まっていくのを、春の夕暮れがそっと包んでいた。
(第5話 完)