目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第6話「朋子の野心と人情」

 五月の終わり、学園祭本番を一週間後に控え、大学全体が慌ただしく熱を帯び始めていた。

 準備作業が終わった放課後の学生会館。片付けを終えたあとも、朋子は居残って手帳を見つめていた。

「……抜けは、ないわね」

 リーダー気質の朋子は、細かい準備の進捗を毎日チェックしていた。誰よりも計画的に、誰よりも先回りして。そうやって積み重ねた努力が、いつか自分を上へ押し上げてくれると信じている。

 ふと気配を感じて顔を上げると、大知がこちらに歩いてきた。

「朋子さん、まだ残ってたんだ」

「ええ。あなたも、ね」

 自然と二人は隣の椅子に腰を下ろす。

「朋子さんがいてくれるおかげで、準備がスムーズに進んでるよ。すごいなって思う」

 大知はごく自然に言った。お世辞にも聞こえず、ただの事実を伝えているようだった。

「……あなたって、本当に素直に褒めるのね」

「だって、本当にそう思ってるから」

 朋子は少しだけ息を飲んだ。

 彼のこういう言葉が、いつも心の奥に静かに染み込んでくる。その優しさが嬉しくもあり、同時に自分の焦燥感を煽るのだ。

「……私、あなたみたいに自然に人に好かれるタイプじゃないのよ」

 ぽつりと漏れた本音に、大知は静かに耳を傾けた。

「努力してるわ。準備も、人間関係も。いつか役立つと思うから」

「うん。朋子さんの努力、僕はすごいと思うよ。誰もができることじゃない」

 朋子は少し唇を噛んだ。

「でもね……あなたみたいに“素で好かれる人”を見ると、時々、不安になるの」

 初めて吐き出した弱音だった。自分でも驚くほど、胸の奥から自然に出てきた。

 だが大知は変わらぬ柔らかい目で彼女を見つめた。

「僕は、朋子さんみたいに先を見て動けない。目の前のことを一つ一つやるだけで精一杯なんだ」

「それでも、みんなあなたの周りに集まるわ」

「たぶん……不器用だからだよ」

 その言葉に朋子は思わず苦笑した。

「それ、本気で言ってる?」

「うん。本気だよ」

 しばらく沈黙が流れた。朋子は視線を伏せ、そして小さく呟いた。

「……あなた、本当に魔性だわ」

「魔性?」

「ええ。あなたと話してると、無理に強がらなくていい気がしてくる。でも、だからこそ焦るのよ」

 朋子はようやく顔を上げ、大知の目を真っ直ぐに見つめた。

「私、上に行きたいの。キャリアでも人間関係でも、負けたくない。正直、あなたにだって、少し嫉妬してるわ」

 静かな告白だった。大知は一瞬驚いたが、すぐに柔らかな笑みを返した。

「うん。嫉妬してくれるなら、嬉しいな。僕は、朋子さんのそういう強さに憧れてるから」

 朋子の目がわずかに潤んだ。思わず自分の指先を見つめる。

「……憧れるようなもんじゃないわよ。必死に掴もうとしてるだけよ」

「その必死さが、すごいと思う。僕は本当にそう思ってるよ」

 不思議な静けさが二人を包んだ。外では学生たちの喧騒がまだ続いているのに、ここだけ別の時間が流れているようだった。




 やがて朋子は、静かに小さく息を吐いた。

「……こうやって弱音吐くの、なんだか久しぶり」

「話してくれて嬉しいよ」

 大知の答えは、ただ静かに優しかった。相手を包むだけで、決して押しつけがましくない。朋子はふっと笑みを漏らした。

「あなたにだけよ、こんなこと言えるの」

「ありがとう、信頼してくれて」

 照れたように笑う大知の顔を見て、朋子は内心でふっと思う。

(この人の“魔性”って、ほんと厄介ね……)

 正面から嫌味を言う気にはならない。むしろ、吐き出せば吐き出すほど楽になるのが自分でも分かるのだ。

「……ねえ、大知」

「うん?」

「あなたはさ、本当に何も欲しくないの?」

 少しだけ重たい質問だった。だが大知はすぐに、迷いなく答えた。

「今は、こうして皆と笑っていられることが、一番欲しいものかな」

 その答えを聞いて、朋子は胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。

(私とは全然違うのね。私が欲しがってるものと、この人が欲しがってるものは)

 だがその違いが、不思議と心地よく感じられた。自分とは違う生き方が、誰かに許されていると知る安心感。

「……あなた、本当に魔性の男ね」

 朋子は再びそう呟いた。今度は微笑ましさとほんの少しの嫉妬を込めて。

 その時、廊下から悟の陽気な声が響いてきた。

「おーい!まだ残ってんのか二人とも!」

 扉が開き、悟が顔を覗かせる。後ろから将吾と純、亜紀も顔を出した。

「何コソコソ話してんだよ〜?なんかいい雰囲気だったりして?」

「バカ言わないで」朋子がすぐに返す。

 だがその口調も、どこか柔らかかった。

 大知は少しだけはにかみながら皆を迎え入れた。自然と六人が揃う。もはやこの光景も、当たり前のようになっていた。

「よし、そろそろ帰ろうぜ!打ち上げは学園祭終わってからだからな!」

 悟の一声に全員が立ち上がる。帰り道、夜風がそっと頬を撫でた。




 その帰り道、ゆるやかな坂道を下りながら朋子はふと立ち止まった。

「ねえ、大知」

「うん?」

 振り向く大知の顔に、夕暮れの残光が柔らかく当たる。朋子はわずかに口元を緩めた。

「さっきの続きだけど……あなたが“皆と笑っていられるのが一番欲しい”って言ったでしょ?」

「うん」

「だったらさ、もしその“皆”がいなくなったら、あなたはどうするの?」

 他の仲間たちは少し驚いた顔で立ち止まった。だが大知は少しだけ目を細めると、静かに答えた。

「……きっと寂しいと思う。でも、その時はまた誰かと出会って、一緒に笑えるように頑張ると思う」

 迷いのないその言葉に、朋子は思わず苦笑した。

「ほんと、あんたはブレないわね。ずるいくらいに」

 大知は軽く肩をすくめる。

「僕は器用じゃないから、今のことしか考えられないだけだよ」

 そのやりとりに、悟がニヤニヤと割り込んできた。

「おーいおい、シリアスな話はやめようぜ!今は学園祭成功が目標だろ?細かいことはその後だ!」

 純が腕を組んで苦笑し、将吾はやれやれと首を振る。亜紀は静かにクスクスと笑っていた。

 夜風が六人の間をすり抜け、若葉のざわめきが心地よい音を立てていた。

 朋子は心の中で小さく呟く。

(私はきっと、この人には勝てないわ。でも……少しは並んで歩けるかもしれない)

 淡い月が昇り始める中、大知を中心にしたこの不思議な“磁場”は、ますますその強さを増していた。

(第6話 完)


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?