サボり飯のおかげで恋人が出来た。何を言っているか意味が分からないかもしれないが、とにかくずぼら飯のおかげなのだ。
『美味しくて気を使わないご飯を食べさせてくれるひとっていう印象だったんだけど。なんか居心地が良くて』
恋人である広都が、俺に言った言葉だ。「気を使わないご飯」というのが彼にとっては大事なことだったらしい。
「俺ね、ちゃんとしたご飯って食べるの緊張するんだ」
「ちゃんとしたご飯、ですか?」
「うん。家に包丁がなかったから」
「そうなんですね」
家に包丁がないというのは、貧しくて買えなかったとかそういうことではないだろう。おそらく、危険で家に置いておくことが出来なかったという意味だ。
「菓子パンとか、カップ麺とか、調理しなくて良いものばかり食べてた」
「……包丁は、危ないですからね。怪我などはしなかったんですか」
「平気だよ。突きつけられたことはあるけど、それがきっかけで捨てちゃったし。情けない父親だったからね」
DV家庭では包丁を隠したり、捨てたりすることがあると聞いたことがある。彼は、そういう家で育ったのだ。
息を潜めるようにして生活していたのだろうか。父親の機嫌を伺って、注意深く、神経を尖らせて。俺の一挙手一投足に彼はとても敏感だった。その理由が分かって胸が痛い。
「今はもう、どこにいるのかも分からないけど」
父親以外の家族は、今は平穏に暮らしているという。
「大人になってさ、ご飯を作ってくれるひとが出来て……その、ごめんね。みーくんに、こんな話して」
「元カノの話なら平気ですよ」
本当は平気ではないのだが、今はひとまず置いておく。
「皆さ、ちゃんとしてるんだよね。ちゃんとしたご飯作ってくれるの。でも、何か緊張するし、知らない料理とかあってさ。どうやって食べたらいいか分からないし、その度に、俺って普通じゃないんだなって思って、それを知られるのが怖かった」
彼女たちは、頑張って「ちゃんとしたご飯」を作っていたのかもしれない。彼氏に手抜きを出すのは、長く付き合うか生活を共にするようになってからのような気がする。
でも、俺はそれを広都に言ってやるつもりはない。
「ずぼら料理愛好家だったおかげで、俺はきみと付き合えたんですね」
「きっかけはそうだけど、好きになったのは人柄だよ」
そう言いながら、彼は俺の作ったずぼら飯を頬張っている。
今日のメニューは、明太子バターの卵かけご飯だ。あつあつのご飯に卵黄、明太子、大葉、バターをのせる。醤油を少し垂らして、あとはよくかき混ぜるだけ。明太子とバターの相性は抜群だし、大葉がアクセントになって、どんどん箸が進む。
もぐもぐしている彼の口元に、否応なしに視線が吸い寄せられる。
薄いくちびると、その下にある小さなほくろ。先日、俺は彼とはじめてキスをした。
金曜日の夜だった。駅で待ち合わせて、一緒に福々精肉店へ向かった。その帰り道、人気のない商店街で、俺は生まれて初めて他人のくちびるの感触を知った。
実はキスをする前、若干揉めた。俺がキスの経験すらないことを知ると、広都は「初めては思い出に残る場所がいいよね」と言ってきた。
俺にそんな乙女思考はない。場所はどこでも良かった。それに場所がどこであろうと、思い出に残ることは間違いなかった。三十路になってやっと他人とキスをするという機会に恵まれたのだ。どう考えても死ぬまで覚えているだろう。
「別にどこでもいいですよ」
「ダメだよ。俺が大事にしたいから。この季節だとイルミネーションとか、クリスマスツリーがある場所とか」
「外でするんですか?」
男同士だし、俺はもう若くないし、何というかシンプルに恥ずかしい。
「いや?」
首をかしげるのはかわいいから止めて欲しい。
「別に嫌じゃないですけど……」
あっさり流されてしまう自分に驚く。前から思っていたが、広都は魔性というやつではないかと疑っている。バイト先でもかなりモテているようだし、福々精肉店の店主にもかなり気に入られているのだ。
老若男女からモテる恋人なんて、童貞の俺には荷が重い気がする。職場での様子を想像するだけで、嫉妬で気が狂いそうになる。こうなったら、一刻も早く一線を越えて既成事実を作りたい。
そんなことを考えながら歩いていたら、やたらチカチカ光るものが目に入った。商店街の一角に公園があるのだが、そこに電飾が施されたクリスマスツリーが設置してあった。
「クリスマスツリーとイルミネーション、そこにありますね」
「でも、なんか違う……」
彼の言いたいことは分かる。古い商店街だし、ロマンチックさとはかけ離れた場所だ。
「でも、したいです」
「こ、ここで?」
広都の腕を掴んで、自分のほうに引き寄せる。目が合った。きれいな形の目だと、そう思っていたら、すっとその目が伏せられた。そうだ、キスをするときは目を閉じるんだと思い当たって、俺も慌てて目を閉じた。
「んっ」
どちらの声か分からないくらいの、かすかな吐息のような声が耳をかすめた。やわらかくて、ふにゃふにゃした感触があった。
ふいに、美味しそうなチャーシューの匂いが漂ってきた。広都が大事そうに抱えている福々精肉店の包みが、カサリと音をたてる。
俺は笑いを堪えきれず、吹き出しながら体を離した。
「思い出に残りますね、美味しそうな匂いを嗅ぎながら初めてキスをしたこと」
「やっぱり、なんか違う……」
そう言いながらも、彼の目はとろん、と潤んでいた。あまり見ると、さらに股間が危ない感じになりそうだったので、俺はなるべく彼を視界に入れないようにした。
家に帰って、二人でチャーシュー丼を食べた。最高に美味しいのに、最高にエロい気分にもなって焦る。俺はいつもの半分しか食べることが出来なかった。
「みーくん、食欲ないの?」
「きみが美味しそうに食べるので、それを見ていたら、なんだかお腹が膨れました」
嘘だ。胸がいっぱいで食べられないのだ。たかがファーストキスだろうと思ったが、なかなか侮れない。自分が意外に乙女思考だった事実にも驚いた。
これから、チャーシューの匂いを嗅ぐたびに今日の出来事を思い出すのだろう。恥ずかしいやら嬉しいやら、とにかく遅い初恋が厄介なものだということを、俺は身を持って知った。