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第5話 熱々だしのカツ煮

 手に入れたら失うことが怖くなった。


 最近、広都がいつまで自分と付き合ってくれるのだろうかと考えて、不安で眠れないことがある。


 あっさり「バイバイだね」と言われる可能性だってある。恋人関係になる前、彼の恋愛遍歴を聞いたことがあった。


「だいたい半年くらいでダメになっちゃうんだよ」


 酔っ払いながら、彼は確かにそう言っていた。「早ければ3ヶ月くらいかな」とも言っていた気がする。恐怖で体が震える。今、俺たちはちょうど付き合って半年なのだ。


 半年ぐらいすると、相手の嫌な部分が見えたり、恋愛感情が覚めたりするのだろうか。経験がないので分からない。


 別れの気配とか、予感とか、そういうものは感じ取れるのだろうか。もしも感じ取ることが出来たら、なりふり構わず彼に縋るつもりでいる。泣き落としも辞さない考えだ。


 土下座でもなんでもする。そんなみっともないことをしたら、余計に愛想を尽かされそうな気もするが、彼を引き留める方法が他に思い浮かばないので仕方がない。


 とにかく俺は、気配とか予感をすぐに察知できるように、広都を注意深く観察することにした。


 木曜日の夜。


 今日も広都は俺の部屋にいる。俺は仕事帰りにスーパーで半額総菜を買ってカツ煮を作った。それを美味そうに食べている。


「だしが沁みるなぁ」


 変わったところはない。いつも通りの様子だ。カツ煮をアテにしながら酒を飲んでいる。


 俺は腹が減っているので、白米の上にカツ煮をのせてカツ丼にした。スーパーで安く手に入ったときによく作るメニューだ。めんつゆを沸騰させて玉ねぎを入れ、火が通ったら食べやすい大きさに切ったカツを投入する。溶き卵をまわし入れ、半熟の状態で火を止める。


 さくさくのカツはもちろん美味い。でもだしが衣に沁みたカツも最高に美味い。


 夜はもちろん同じベッドで寝る。


 腕枕をすることもあるし、されることもある。どちらかというと、するほうが好きだ。逆だと妙に落ち着かない。


 それから3カ月後。未だに別れの気配はない。それは良いのだが、今日、俺は衝撃的な光景を目にしてしまった。


 休日だったので、買い物をしたり用事を済ませたりして、俺は駅前の商店街近くにいた。広都が勤めるバルに近いことに気づき、こっそり彼が働いているところを覗いてみようと思い立った。


 バルはガラス張りになっていて、表からでも店内の様子が分かる。おしゃれな店内には女性客が大勢いた。


 白シャツと黒のロングエプロンを身に纏った広都は、客によく話しかけられているようだった。にこにこと愛想良く接客をしていた。


「あっ……!」


 思わず声が漏れた。女性客が広都にしなだれかかったのだ。広都の腕に女性の細い腕が絡みつく。慣れているのか、彼は動じる様子がない。心の中で「早く離れろ」と念じる。しばらくすると、女性が広都に抱き着いた。


「何をする……!」


 首に腕をまわして、ぎゅっとしがみついている。離れない。それどころか、女性は広都の頬にキスをした。


「な、な、なにを……!」


 キスをした。キス。頬だけど。したというか、されたけど。でも、キスした……。嘘だろ。頭の中がおかしくなりそうだった。怒りなのか嫉妬なのか、よく分からないが、とにかく体が震えた。


 そんな状態の俺とは違い、広都は「しょうがないなぁ」といった様子で笑っていた。よくあることなのだろうか。飲み屋なのだから、こんなことは当たり前で、動揺する俺が間違っているのだろうか。


 俺はその場を離れ、アパートに帰った。女性に抱き着かれている彼が頭から離れず、何もする気になれなかった。


 冷蔵庫から発泡酒を取り出し、一気にあおる。大したことではないと自分に言い聞かせてみる。大人なのだし、接客業だし、夜の店だし……。


 いや、でもおかしい。いくら何でも店員に抱き着くなんてダメだろ。ましてキスするなんて。


 夜の店といっても、普通のバルだ。ホストクラブではない。それに、広都はも広都だ。やさしく笑ったりして。何で冷たくあしらわないんだよ。仕事だから仕方ないのか? 


 そんな仕事はやめて欲しい。でも、それは言えないし、言ってはいけないと思う。今日見た光景は、たまたまで、あんなことは滅多にない。


 そう思い込むことにする。そう思うしかない。酔いたいのに酔えなくて、俺はまた次の発泡酒に手を伸ばした。


「みーくん、大丈夫?」


 体をわずかに揺さぶられて、目が覚めた。広都が心配そうに俺を覗き込んでいる。


「あれ、きみ、どうしたんですか……?」


「バイトが終わったから来たんだよ。それより、どうしたの? こんなに飲んで」


 キッチンで飲みながら寝落ちしてしまったらしい。コップに水を入れて、俺に手渡してくれる。ふいに甘い香水の匂いがして、フラッシュバックみたいに恋人のキスシーンが頭に浮かんだ。


 考えてみれば、仕事終わりの彼から、甘い匂いがするのはめずらしくないことだった。今までは何とも思わなかった。それが女性の香水だと気づかなかったからだ。「大丈夫?」とやさしい顔で広都が覗き込んでくる。


 客にもやさしい顔で笑っていた。抱き着かれて、キスされて、笑っていた。自分だけが許されていると思っていたのに。胸の奥がもやもやして、俺は彼の腕を振り払った。


「みーくん?」


 立ち上がると、酔いで足元がふらついた。広都に背中を向ける。どんな顔をすればいいか分からない。何かとんでもないことを口走ってしまいそうだった。


「みーくん……」


 広都が俺を呼ぶ。何度も、何度も。

 彼の声は、少しずつ頼りないものになっていった。


「みーくん、もしかして、俺なにかした……?」


 こんなときどうすればいいのか分からない。そういえば、彼と喧嘩のひとつもしたことがなかった。


「みぃくん……。こっち向いてよ……俺がなにかしたなら謝るから」


「…………」


「みぃくん……」


 小さな声が震えている。 

 背後で、ガタッと音がした。振り返ると広都が床に突っ伏していた。


「ごめんなさい」


 涙がぼたぼたと落ちる様を見て、ぎょっとする。


「広都……」


「おねがい、別れないで……!」


 何がどうしたら「別れないで」という台詞が彼の口から出てくるのか分からない。それを言うのは俺のはずではないのか。


「いつも、なんか……ダメになっちゃうけど。仕方ないかなって、そう思ってきたけど……! みーくんとはダメになりたくない……! おねがい、すてないで。おれ、みーくんと離れるのやだ……やだよ……」


 泣いて縋るのも土下座するのも俺のはずだった。そう思っていた。


 ふいに、彼が俺の一挙手一投足に敏感だったことを思い出した。笑っているように見えて、本心では笑っていないことが多い。俺よりも実は怖がりで、臆病で、傷つきやすい広都。


 俺は腕を掴んで彼を立たせた。俯いて泣いている広都から、ふわりと甘い匂いがした。俺は彼を風呂場に連れて行き、頭の先からつま先まで念入りに洗った。


 向かい合い、ぎゅっと抱きしめる。ぱしゃんと湯が跳ねる音にも、彼はビクリと体を震わせた。


「嫉妬して、どうしたらいいのか分からなかったんです。何か、きみに酷いことを言ってしまいそうで、冷静になりたくて……。すみません、泣かせるつもりはなかったんです。傷つけるつもりも」


「わかれない……?」


 子供が母親に確認するみたいな口調だった。


「別れません。何があっても」


 強張っていた彼の体から、ゆっくりと力が抜けていく。その日は、俺が腕枕をして眠った。泣き止まない彼は、いつまでも俺にしがみついていた。


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