母さんは離婚する理由やこれからの生活について話をしたけれど、ショックが大きくて俺は何も話せず、黙ってただ聞き続けた。
話が終わっても頭は真っ白のまま。
とにかく少し落ち着く必要があったから、俺も飾も自分の部屋に戻り、しばらく呆然とひとりで過ごした。
夕食をどうやって食べたのかは覚えていない。いつものようにみんなで食べたのか、それとも各自で食べたのか……それさえ記憶にない。
夜中になって、飾が俺の部屋に入って来た。
「いくら考えても、お母さんの説明は納得できない」
勢いよくベッドに座り、足を組んでからそう言う。
どうやらショックな時期を乗り越えて、怒りの時期に入っているらしかった。
「俺も納得できない。あんな理由を言われてもな」
「お父さんがいるのに、外に男がいたっていうのがまず許せない。そいつと結婚するために離婚する――なんて言われて、誰が納得できる?」
「母さんが浮気してたってことだもんな……」
「お父さんとの仲が悪くなって離婚して、独身として過ごすうちに相手が見つかったっていうなら、話は別だけどさ」
「うん……」
再婚の話がなく、単に離婚したいと言われたのなら、俺の受け取り方はまったく違っていただろう。
俺はきっと母さんを止めるためにいろいろがんばっていたと思う。
でも、離婚と再婚がセットになっているのではダメだ。父さんが思っているのと同じように、俺も裏切られたという感覚が強い。
もはや母さんと今まで通りやっていける自信はない。
母さんが出て行くのはしかたない――それはすでに納得している。
だが、飾を連れて行こうというのは納得できない。
「新しいお父さんは良い人だから、飾も絶対に気に入るから――そんなこと言われてもさ、一度も会ったことない人をお父さんとして認められるわけないでしょ。っていうか、既婚者を口説く時点で良い人のはずないよね? うちの家族を壊そうとしてる極悪人じゃん」
「だよな。もともとは飾が高校を卒業するまでは結婚を待つつもりだった、って言うけど」
「そいつが四月から県外に転勤になって引っ越す。そしたら簡単に会えなくなるから、前倒しで離婚と再婚をすることにした……あまりに勝手すぎるよ! そんなに勝手に物事を決めたいなら、お母さんだけが勝手に出て行けばいいじゃん。なんであたしまで行かなくちゃいけないの?」
飾は私が産んだ子だから、私が連れて行きます。
母さんはそう言っていた。恋に溺れても、母親であることを忘れていない――なんて感動話ではない。
自分勝手な離婚話に、わがままをトッピングしているだけだ。
あの人は飾の……俺たちのことなんて、何も考えちゃいないんだ。
「しかも相手にも連れ子がいるっていうしさ……あたしより一個上の男だって。ふざけんな! 昼間にファミレスで聞いた話と一緒じゃん。地獄だよ、地獄。この年で今さら兄貴なんているかって。るぅがいれば十分だよ」
これは本当に心配な話だ。
俺が言うのもなんだが、飾はなかなかかわいい。
目元が大きくくりっとしているし、髪はサラサラのツヤツヤで、風になびいている時などは思わず見惚れてしまう。
こんな女子がいきなり妹として家にやってきたら、変な気持ちになってしまっても不思議ではない。
家の中は一番安全で、落ち着ける場所でなくてはいけないはずだ。
その男が、飾の平穏を邪魔しないか――とにかく不安だ。
「……家出するか」
思い詰めた顔で、飾がぼそりと呟く。
「現実的に考えて、何日も逃げられやしないだろ? そんな金もないし」
「そうなのよねぇ。でも、たとえ数日だとしても、どれだけイヤかって意志表明にはなるでしょ。それで、あたしをこの家に置いて行こうと考えたり」
「母さんのことだから、その程度の反抗だと、余計強引に連れて行こうとするぞ」
「だよねぇ。あ~あ、諦めるしかないのかなぁ」
飾はベッドに倒れ、顔を手で覆った。
長い付き合いだから知っている。飾がこういう姿勢を取る時は、泣く寸前だ。
その頭をゆっくり撫でる。俺とケンカして泣く時以外は、これで少しは落ち着いてくれる。
「いつでも連絡してきていいぞ。飾がいなくなったら、学校から帰って来てからなにをしたらいいのか、俺もわからなくなる。スマホで通話しながら、ネット対戦でゲームしよう。今まで通りとはいかないけど、結構近い感覚で遊べるんじゃないかな」
「うん……毎日でもいい?」
「むしろ毎日にしてくれ」
「迷惑じゃない?」
「なるもんか。俺たちは兄妹じゃなくなっても親友だろ」
「そうだね……へへっ、今のるぅ、なんかカッコ良かったよ」
飾は顔を覆っていた手をどけた。まだ目元に少し涙をためてはいたけれど、口元には笑みがあった。
翌日から引っ越しの準備が始まり、二日後には母さんと飾は家を出て行った。
そして、二週間が経過した。
俺は学校から帰ると、スマホのアプリを開き、
【今帰って来たぞ】
というテキストメッセージを飾に送った。すると、すぐにビデオ通話がかかってきた。
「おかえり~」
と、いつものように飾が笑顔で出迎えてくれる。
ここだけ見ると元気そうだが、俺と通話していない時間も笑顔でいるのかどうかはわからない。
いや、俺からの連絡を待ち構えているというのが答えか……。
背景として映っている飾の今の部屋は、どこか殺風景な印象を受ける。うちにある飾の部屋と比べると、小物が圧倒的に少ない。
引っ越しの際、飾は必要最低限の物以外はほとんどうちに置いて行った。ここから完全に出て行くわけではない――という無言の意思表示だ。
「今日の学校はどうだった?」
「普通だったけど」
「いやいや、なんかあったでしょ?」
「なんかねぇ…………ああ、そう言えば。尊がさ、驚くことに」
「尊くんがどうしたの?」
吉岡尊は、俺たちと幼稚園から中学校までずっと一緒で、いわゆる幼馴染というやつだ。
小学校の頃は、飾も加えて三人でよく遊んでいた。
「あいつに彼女ができたみたいで」
「え、本当に!? いつの間に」
「詳しいことはまだわからないんだけど、放課後に女子と手を繋いで歩いているのを見た、って目撃情報がいくつかあるんだ」
「あたしらに隠してるなんて水臭いねぇ」
「その女子のことを知っている人がいないっぽいから、他校の生徒なんじゃないかって」
「ほうほう。それは気になるね。ぜひ本人に直接聞いて根掘り葉掘り調べたいところだけど、その役目はるぅに譲ってあげるよ。明日までによろしく」
「明日までできるかわからないけど、聞いておく」
「他には? るぅの今年の担任ってまゆちゃんでしょ」
「ああ、去年の飾のクラスの担任のまゆ先生」
まだ新卒二年目で、中学生と並んでも違和感がないくらいに身長が低く、しかも童顔。
そんなまゆ先生は、一部の生徒からは親しみを込めて「まゆちゃん」と呼ばれている。
「去年は右も左もわからないって感じであたふたしてたけど、二年目の今年は落ち着いてきた?」
「受験生の担任なんでまだ早いのに、ってネガってたよ」
「あはは、まゆちゃんらしいなぁ」
うちの学校の話をする時、飾の様子は以前と変わらない。
しかし、
「そっちの学校はどう?」
この質問をすると、表情が曇る。
「別に。特に何もないよ。普通につまんない」
「友達はできた?」
「こっちでの友達なんていらないよ。ここはあたしの町じゃないから。っていうか、その質問はやめてってこの前言ったよね?」
「ああ、うん……ごめん」
そうなのだ。これまで何度か同じことを聞いてきた。
そして、いつもこの答えが返ってくる。
ここはあたしの町じゃない――飾は、新しい環境になじむのを拒否しているようだった。
今の学校で友達を作らず、前の学校の友達の話をしたがる。
「飾、ご飯よ。出てきなさい」
「いらない」
後ろから聞こえて来た母さんの声に対し、飾はそう返事をする。
そして、ガサゴソとビニール袋を広げ、そこからサンドイッチを取り出す。
俺からすれば、すでに見慣れた光景だ。
飾は学校から家に帰る途中、近所のスーパーによって弁当やサンドイッチなどを買っている。そして、鍵をかけた自分の部屋で食べるのだ。
画面越しではあるが俺と一緒なので、ひとりではない。
しかし……。
飾は、学校だけでなく、新しい家や家族に対しても拒絶の意志をはっきりと示している。
飾は口に出して言わないけれど、母さんと我慢比べをしているのだろう。
向こうでの生活を失敗させることによって、母さんに同居を諦めさせるつもりなのだ。
それだけこっちに戻ってきたいんだ……と嬉しく思う反面、その覚悟に胸が苦しくなる。
飾の思い描く作戦は、日々負け続けることによって最後に一回だけ勝つというものだ。そのストレスは、相当のものだろう。
こうして話し相手になる意外で、俺にしてあげられることはないだろうか?
「ねぇ、るぅ。これは極秘の計画なんだけど」
サンドイッチをかじりながら、飾が何か企んでいる悪い顔をする。
「なに?」
「ゴールデンウイークに家出しようと思ってるの」
「家出って……どこに?」
「この偽物の家を出て、あたしの本当の家に帰るんだよ」
「ここに帰って来るってことだな」
「その通り」
「母さんに一発でバレるだろ」
「いいのよ、バレても。ううん、逆にバレた方がいい。本当に私を見失ったら、警察に連絡しちゃうでしょ。でも、その家にいるなら警察沙汰にはしないはず」
「なるほど、たしかにそうだな」
「ってことで、ゴールデンウイークの予定を空けておいてね」
「もちろん」
そう返事をして、俺はカレンダーに〇印をつけた。
ここに戻って来たら、飾は向こうでのツラさを忘れることができるだろう。
だけど、俺の心に芽生えた嬉しさは、飾への心配からくるものだけではなかった。
もっと単純に、飾にまた会えるのが嬉しい――という意味合いも十分に大きかった。
きっと、飾がこっちに戻って来たいと思っているのと同じくらい、俺も戻って来てほしいと思っているのだ。