飾と一緒に県立公園のボート乗り場にやってきた。
ここに来るのは小学校の頃以来。
あの頃は、まさか飾とデートで来るとは思わなかったな。
料金を払ってボートに乗る。
俺がオールを漕ぎ、飾が向かい側に座る。これでのんびり水上散歩なんて、いかにもデートっぽくてカッコいい。
……まぁうまく漕げたらの話なのだが。
「ボートヘタすぎでしょ、るぅ」
飾の呆れ顔が痛い。
しかし、そう言われてしまうのもしかたない。ボートは全然まっすぐ進んでくれないのだ。
右へ行って左へ行って……一応前に進んではいるが、ジクザク運動を繰り返している。
「もっと簡単だと思っていたんだが」
「練習しておきなさいよ。ほら、見なさい、あっちの大学生っぽい男の人。ひとりでまじめな顔でボート漕いでる。あれって彼女を連れてきた時のための練習に違いないわ。るぅもあれくらいやっておかなきゃ」
「だってここって結構遠いし……留守にする時間が長いと、練習してるの気付かれるだろ?」
「まぁたしかに。デートの練習はさりげなくしないとカッコ悪いわね」
しかたのないことだが、一緒に住んでいると隠し事は難しい。
大きな隠し事などは特にないが、こういう小さなことはたまに不便に感じることもある。
「まぁ転覆しなければいいわよ。目的地があって漕いでるわけじゃないものね」
飾は太ももに肘をついた状態で頬杖をして、俺のことを眺めてくる。
たまに風景も見るが、どちらかと言えば俺の方を見ている気がする。
その姿は、彼氏を見つめる彼女のように見えてしまう。
こういう思わせぶりな態度は、以前の飾にはなかったものだ。
やきもちを焼いたりとかも、昔はなかった。
告白以来、俺たちの関係は、以前とは明らかに変わっている。
悪い方向にではなく、きっと良い方向に。
でも、これ以上じっくり待つ必要はないはずだ。
あれから一か月半。
考える時間はもう十分に与えたはずだ。
「ちょっと話をしたいんだけど」
岸からも遠く、他のボートからも離れている場所で漕ぐのをやめ、そう言った。
「さっきからいろいろ話してると思うけど?」
「まじめな話をしたいって意味だ」
「中間テストが近いわね。自信ある?」
「そういう意味のまじめでもない。わかっててはぐらかすのはやめてくれないか?」
「……そうね」
飾はため息を吐き、それから観念したように、まっすぐな目で俺の目を見てきた。
「告白の返事をそろそろ寄越せ、って言いたいのね?」
「そういうことだ」
「そんな話をするために、わざわざボートに乗ったの? ふたりきりの時間なんて、家でいくらでもあるのに。風景が良い場所で返事を聞きたいなんて、ずいぶんロマンチストなのね」
「家だと逃げるだろ? いくらでも用事が作り出せるから、俺がこの話をしようと察した時点でどっか行くだろ?」
「…………長く一緒にいたから、相手の考えてることがよくわかるみたいね。ええ、そうね、もし家でこの話をされたら、あたしは逃げる。逃げ場のないボートに誘い込んだのは大正解。やるわね」
「何年の付き合いだと思ってるんだ。飾のやり口くらい知ってる」
「そんなにあたしのことを理解してくれてて嬉しいわ。でも、そんな相手と恋人になって、楽しいかしら? なんの新鮮味もないわよ?」
なにかを試すような口調。
俺の心を測っているのだろうか?
「生活に新鮮味が欲しくて付き合いたいわけじゃないよ。飾のことが好きだから、付き合いたいんだ」
「るぅは本当にまっすぐ気持ちを伝えて来るのね。そういうタイプだとは思わなかったから、最近結構驚いてる」
「誰かを好きって気持ちは、隠したり誤魔化したりするようなものじゃないだろ?」
「カッコいいこと言うじゃない。そういえば――」
「話を逸らさないで、返事がほしい。俺のことを兄としてしか見えなかった、なんて誤魔化しはもう通じないぞ。一か月半も経ってるんだから、他の見方ができるかどうか考える時間は十分にあったはずだ」
「……そうね。時間はたくさんあった。答えだって、とっくに出てるよ」
「それを聞かせてほしい。どんな内容であっても受け止める」
「ウソつけ。フッたら受け入れないくせに」
「フラれることはないと信じてるから。だって、飾も俺のこと好きだろ? 毎日朝から晩まで一緒にいるんだから、それくらいわかってる」
「まぁそうよね。その辺の恋人よりはるかに長い時間を共に過ごしているものね。嫌いなはずないわよね」
「そんなに一緒にいても、俺は毎日楽しい」
「ええ、あたしも毎日とっても楽しいわよ」
飾が優しく微笑む。これはつまり、オッケーということだろう。
最後の一言を聞くため、さらに一歩踏み込む。
「俺たちが付き合ったら、きっともっと楽しくなる。だから――」
「それはどうかしら」
しかし、飾は突然方向転換した。
「今はとっても楽しい。でも、付き合ってもそれが続くのかしら?」
「どういうことだ?」
「最初は楽しいかもしれないわね。付き合ってしばらくの間……半年とか、一年とか。高校卒業くらいまでは、とても楽しい時間を過ごせるかもしれない。ううん、間違いなく過ごせる。すごく幸せな三年間になるって確信できる。でもね――」
今の言葉から、どうして「でも」なんて言葉が続くのかわからない。
続きを聞くのは怖いが……今さら逃げられない。
水の上なんて逃げ場がないところに誘い出したのは俺だ。
「――こっから先も聞きたい?」
「今さらそんなこと言うのかよ」
「だって、聞きたくないって顔してたから」
「なんでもお見通しか……言いなよ。なりゆきとはいえ、告白した時点で、覚悟はしてたんだ」
じゃあ遠慮はいらないわね。なんて飾が笑う。
やっぱり怖い……けど、遠慮してもらうわけにはいかない。
「あたしたちが付き合ったら、すごく幸せな時間がしばらくは続くと思う。でもね――いつかは必ず終わる」
「終わる? いやいや、そうとは限らないだろ」
「まぁね。でも、恋人って別れるケースの方が多いじゃない? で、別れたから元の関係に戻るのって、きっとすごく大変だと思うんだよね。戻れない人の方がきっと多いよね?」
「……それはそうだろうな」
「るぅと今の関係に戻れないと、あたしはすごく困るんだよね。あんな形で家を出ちゃったから、お母さんとやり直すことは、たぶんかなり難しい。実の父親と一緒に暮らしていたのはずっと昔の話で、今となってはよそのおじさんみたいな感じ。あたしにとって、家族って星宮家だけなんだよ。るぅと付き合って、別れたら……天涯孤独になっちゃう」
そういうことだったのか。
どうして飾が返事をしてくれないのか謎だったけれど……別れた後のことを心配していたからなのか。
あまりにネガティブな考えではあるけれど、考えてみれば当然の心配だったかもしれない。
俺たちの関係は、あまりに特殊で特別だ。
すでに家族なのだから、ダメだったから次の人を探そう――なんてことはできない。
付き合った途端、別れは夫婦の離婚と同じほどの意味を持ってしまう。
「でもそれは、別れたらの話だろ? 俺たちぐらい仲が良ければ――」
「愛は永遠? そんな言葉を信じられない環境で育ってきたのがあたしたちじゃない?」
「……そうだな」
俺の父さんも、飾の母さんも、共に再婚同士。死別ではなく、どちらも離婚。
そして、去年さらに離婚している。
今はふたりともバツ2だ。
俺たちは、離婚の多い親に育てられている。一生をひとりの相手と添い遂げるという話を頭では理解しているし、憧れはするけれど――心では信じきれない。
「昔はさ、ふたりともすごく仲が良かったよね。誰もが憧れるような仲良し夫婦で――でも、終わったんだよ。だから、あたしたちが付き合っても、いつか必ず終わりが来ちゃうんだよ。あたしはそれがすごくイヤ。るぅと離れたくない。だから、付き合わないの。戦わなければ負けることはない。始まらなければ、なにも終わらない――そういうこと」
「でも……それじゃ……」
好きだからこそ付き合いたくないなんて。
あまりに寂しすぎないか?
「付き合いはしないけど、でもるぅのことは大好きだよ。だから、やきもち焼いちゃうのも許して。彼女にならないくせに……って思うかもしれないけど。たまにこうして一緒に出かけてあげる。手を繋いで歩いてあげる。キスも……たまにならしてもいいよ。この間みたいな勢い任せじゃなくて、もっとちゃんとしたキスをしてもいいよ」
「それはもう付き合ってるってことじゃないのか?」
「似てるけど違うよ。恋人なのに一緒に出かけなくなったり、キスしなくなったら、終わりの時が来たってことでしょ? でも付き合っていなければ、それは終わりを意味しないんだよ。ただキスしなくなっただけ――それ以上の意味はないんだよ」
「そういうものなのか?」
「そういうものなんだよ。そういうのでいいなら、あたしたちの関係をちょっと変えてみてもいい。今の元兄妹と、親友の他に、そういう……名前をつけにくい関係を足してみるのはどうかな?」
「………………」
「いやならいいよ。でも、今の関係は続けたいな。付き合えないからサヨナラ、なんていうのは一番イヤだな。またひとりぼっちになっちゃう」
「俺だってそんなことはイヤだ。飾がどこからも孤立しないように、去年一緒にがんばってきたんじゃないか。俺のせいで飾がひとりになるなんて、そんなのはダメだ!」
「るぅならそう言ってくれると思ってたよ」
さて――飾はそう言い、視線を俺から景色に移した。
まるで話はすべて終わったと言うように。
「今日の晩ご飯はなににする? お料理部でこの前パエリア作ったんだけど、それにしてみる?」
そして、突然、話題をまったく違うものに変えた。これ以上この話を続けるのはやめよう、と無言で言っている。
だが、まだ俺は言いたいことがある。
ここで話を変えたら、またこの話をできるのはいつになるかわからない。
だから続ける。
「なぁ、飾」
「なにかリクエストある?」
「キスしよう」
「…………え?」
「さっきしてもいいって言っただろ?」
「言ったけど……今すぐ? たまにならって言ったよね?」
「この前したのが一か月半前なんだから、今日したっていいだろ?」
「いや、それはそう…………か? っていうか、その提案を受け入れるってことは、付き合わないのを納得したってことだからね」
「わかってる」
「本当に?」
「今は付き合わないのを納得する。でも、今後もそうかはわからない。キスしていたら、飾の気持ちが変わるかもしれない。恋人としてキスしたいって思うようになるかも。俺はそれに賭ける」
「そんなことないと思うけど。まぁそれでいいよ。キスしよっか」
「じゃあこっちに来て」
飾の手を引き、ボートの対面から俺の隣に移動させる。
「こっちばっかり重くなって危なくない?」
「大丈夫、安定してる」
ボートの座席は狭くて、ふたりで並ぶと窮屈だ。
そこで向かい合うと、すぐにいつでもキスできる距離にお互いの顔があった。
「……これは結構恥ずかしいね。っていうか、今さらだけど、ここ外なんだけど」
「岸から遠いから誰も見てないって」
「一回目が突然で、二回目が外って――はぁ、るぅって本当にこういうことには積極的だね」
「ダメか?」
「そうは言ってないけど」
お互いの吐息がかかる程度の距離で見つめ合い、話していると、だんだんリズムが一致してくるのがわかった。
呼吸やまばたきのタイミングが合い、心臓の鼓動まで重なっているような気がしてきた。
俺は飾の肩に手を回し、飾も俺の体に手を回す。
そのままどちらからというわけでもなく、顔を近づけ――キスをした。
一度唇を離してから、でもお互いを抱きしめた腕は離れず――またキスをした
そのまま何度も、何度もキスをした。
「まったく……るぅったら自分を制御できなさすぎ。ちょっとするだけならともかく、あんなに長い時間してたら絶対に見られた。いろんな人にキスしてるの見られちゃった!」
ボートから降りた飾は、さっきのことを振り返って怒っていた。
顔を真っ赤にしてるのは、怒りか、いつもの赤面症か。
でも、そんな姿もかわいくて愛おしい。
だからその手を握った。
「調子に乗るな」
だが、すぐに振り解かれた。
「あれ? 家に帰るまでがデートでは?」
「そうやってずるずると範囲を広げられると困る。たまには手も握ってあげるし、キスもしてあげる。でも、付き合ってるわけじゃないんだから、そこは忘れないで」
結局のところ、今の俺たちの関係がなんなのかはわからない。
元兄妹で、親友で、今はキスもするようになった。これを表す適切な日本語はきっとないだろう。
今のところは。
だけど、いずれはもっとわかりやすい名前を付けられるはずだ。
たしかに、飾の言うことは一理ある。
どんなに仲が良い恋人でも、夫婦でも、終わりの時は来る。そうじゃない人たちもいるけど……親の離婚を二度も経験している俺たちは、永遠の愛を信じられない。
だからと言って、なにも始めないという道は選びたくない。
いつか飾のことが好きではなくなる日が来る――なんて思えない。でも、思ってもみないことが起きるのが人生だ。
もしかしたら、そんな時が来てしまうかもしれない。
でも、それは今をないがしろにしていい理由にはならない。
未来がわからないからこそ、飾のことが好きだという“今”の気持ちを大事にしたい。
幸せな“今”を積み重ねていったら、別れの日は少しずつ遠くに行くかもしれない。百年後……俺たちの寿命が尽きる後まで、その日を先送りできるかもしれない。
そういう話をしても、きっと飾はまだ聞く耳を持ってくれないだろう。
だから、しばらくは今の関係でいい。
たまにキスをする元兄妹というよくわからない関係で。
こんな形であっても、前よりは先に進んでいるはずだから。
ゆっくりでも、ジグザクでも、進み続ければ、きっと目的地にたどり着ける。
だから、今はとりあえず、
「そういえば、今日の晩ご飯だけど、パエリアがいいな」
「じゃあ材料買って帰ろう。まぁ一回作っただけだから、あんまり自信ないんだけどね」
「っていうか、パエリアって食べたことないんだけど」
「じゃあちょっとくらい失敗してもバレないかな」
「おいおい」
「あははっ」
今はとりあえず、日常に戻ろう――。