さて、パパラッチのことなんてもう忘れよう。
ここからは楽しい夕食だ。
「ただいま~、おおっ、なんかすでに良い匂いがする」
「おかえり。後は具材を入れるだけで食べられるようになるよ」
家に帰ると、初瀬は鍋にすき焼きの汁を準備していた。
俺の家には鍋料理で使うような土鍋はない。
だから、初瀬はカレー鍋にタレを大量に作っていた。
「これって自分で作ったの?」
「藤城の家には売ってるタレはあった?」
「ない。あるわけがない」
すき焼きは高い。
高いものを一人で食べてもおいしくない。
以上の二点から、すき焼きを作るための準備など俺の家にあるはずがない。
汁を小皿にとって少し味見……うまい。何も具材が入っていないのに、すでにすき焼きって感じの味がする。
ここに肉やきのこを入れて出汁が出たら、どんなことになってしまうのだろう?
「すごいな、初瀬ってこんな料理できたのか」
「この前ロケで行ったすき焼きの老舗で、家でもできるおいしい作り方を教えてもらったのよ。しかも私のは、テレビではカットされたコツも使ってるからさらにおいしいよ」
「なんでそんな重要なところカットされたんだ?」
「さあ? 編集の都合なんて知らないよ。教えすぎたから一部カットしてくれ、って店からお願いがあったとかじゃない?」
「ふぅん。とにかくこれうまいな。早く具材入れようぜ」
まずは野菜を取り出し、切った順に鍋に投入していく。
火が通った頃合いを見計らって肉をガバッと一パック一気にぶち込む。
まだ鍋にいくらかスペースがあったため、さらに肉を半パックぶち込む。
「よし、できた」
「できたけどさ……」
カレー鍋にいっぱい詰まったすき焼きは、たしかにうまそうだが、どこかすき焼きという感じがしない。
煮込み料理のような印象を受ける。
やはりすき焼きは平たい鍋で少しずつ作ってこそではないか?
こんな一気に大量に豪快に作ると風情が出ない。
「肉が煮えすぎて固くなるってデメリットはあるけど、これなら食べても食べてもなくならない。満足するまでノンストップで食べ続けられるすき焼きってすごい夢があると思わない?」
まぁ、初瀬がそれで満足そうなので別にいいか。
「ただ食べるだけじゃなく、遊びながら食べようよ」
初瀬はうちのクローゼットを勝手に開けて、そこにあるボードゲームの箱をいくつか取り出した。
「テーブル狭いから、鍋を置いたらもうゲーム広げるスペースはなくなる」
「じゃあ床に座ろう。ここならスペースはたくさんある」
「アイドルが床に座ってすき焼き食べながらボドゲするのか? 品がないなぁ」
「藤城ってアイドルにそんな夢を見るタイプだっけ?」
「いや。姉が家で風呂上がりにパンツ一枚でうろうろしてるのを知ってるから、アイドルに何の夢も見ない。外ではどんなちやほやされてても家ではただの人間だ」
「さすが、よくわかってる。私だってそう。床に座って食べながら遊ぶくらいはするよ。で、どれで遊ぶ?」
公言しているか知らないが、ボードゲームは初瀬の昔からの趣味だ。
しかし、仕事仲間には同じ趣味の仲間はいないそうだ。
以前は学校の昼休みや放課後にクラスメイトと遊んでいたが、卒業してしまった今ではそういう機会もない。
今や初瀬とボドゲで遊ぶ人間は俺しかいないようだ。
だから、初瀬が遊びたいと言った時のために、うちには二人用のボドゲをいくつも用意してある。
「どれにしよっかなぁ……あれ、これ遊んだことないかも。最近買ったやつ?」
「ああ、うん。店に行った時偶然見つけて。結構安かったから買ってみた」
ボドゲの専門店は近くにはないけれど、折を見て足を延ばすようにしている。この前行った時、ちょうど二人でも遊べるゲームが新しく入荷されていて買っておいたのだ。
そのゲームはワンプレイ三十分ほどかかり、運要素強いながらも、しっかり作戦を考えるという醍醐味も味わえる良作だった。
ゲームは三回戦まで行われ、俺の一勝、初瀬の二勝で終わった。
それから別のゲームに変えた。そちらはこれまで何度か遊んだことがあるもので、一本目の手探り状態のゲームとは違い、手の内を知っている者同士だからこその駆け引きを楽しめた。
そのゲームも堪能し終える頃には、だいぶ遅い時間になっていた。
遊びながら食べていたすき焼きはまだ鍋にたくさん残っている。食材もまだまだたくさん残っている。
特に肉……高級な専門店ではなく近所のスーパーで買った肉なため、牛と言えど値段はそこまで高くはない。一万円分となると相当の量だ。たくさん食べたつもりではあるが、まだ半分以上残っている。
「肉はどうする?」
「いいよ、全部藤城にあげる。一人暮らしの大学生には牛肉はなかなか手が届かない高級品でしょ? じっくり味わいなって食べなさい」
「いいのか? ありがたいから、くれると言うなら遠慮なくもらうが」
「まぁ藤城がどうしてもお礼をしたいと言うなら……」
「別にそんなこと言ってないが?」
言ってないが、できる範囲であれば要求に応じようではないか。
あくまでもできる範囲で。
「もうちょい遊びたいのよね。また違うゲームしましょう」
三時間以上はぶっ続けで遊んだはずなのだが、まだ遊び足りないと言うのか?
会見による精神的負荷は相当だったようだ。
帰宅から俺からのメールの返信があるまで何をしていたのかは知らないが、ストレスが解消されることはなかったのだろう。
家族で暮らしていれば、また話も違ったかもしれない。しかし、初瀬の家族は、今は仕事で海外に住んでいる。
こういう時に頼れる相手が俺しかいないというのなら、存分に頼られてやろうではないか。
別のボドゲで遊び、気が付いた時には、夜の二時を過ぎていた。
「遊びすぎたな。まぁ明日は忙しくないから別にいいけど、さすがにそろそろ帰ろっかな」
初瀬は来た時の同じように不審者のような変装をする。
初瀬が家を出るより前に、俺が廊下に出て下見をする。今なら廊下に誰も人がいない。
「オッケー、問題なし」
「うん……今日もありがとうね」
「俺はいつも通りのことしかしてないぞ」
「藤城がいなかったら、今日は一度も笑顔になれないで終わるところだった。ファンを笑顔にするのがアイドルの仕事なのに、自分が一度も笑えない一日を過ごしてたらそんなことできるはずないからね。藤城のおかげで、私は明日もまたアイドルでいられるよ」
「ならよかった」
「ってことで、またね」
初瀬が帰った後、俺はその言葉を何度も噛み締めるように心の中で反芻した。
ありがとう、か。
ごめんなさい、申し訳ありません……会見の中で、初瀬は何度もその言葉を繰り返していた。
でも俺には「ありがとう」か。
その言葉を聞いたのが帰り際でよかった。
だって、顔がにやけてしまうのをどうしても我慢できなくなるから。