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第4話 帰れない夜(上)

 ある日の夜、バイト終わりに近所のスーパーに寄ると、目もくらむような美人に遭遇した。

 深くかぶった帽子と眼鏡、さらにはマスクのせいで顔ははっきり見えないのに、店内の光がスポットライトに思えてしまうくらいまばゆく輝いている。

 こんなに目立つのに、どうして他の客たちは彼女に注目しないのだろう?

 俺が彼女をよく知っているから目立って見えるだけで、他の人たちからすれば意外とオーラは感じないのだろうか?

 その美人、初瀬莉莉は俺の姿をちらっと視界の端で捉え、しかし近づいてくるでもなく離れるでもなくそのままの距離を保っている。

 リスク回避のため、外では絶対に会話をしない。これは俺たちが絶対に守らなければいけないルールだ。

 初瀬は店内をうろうろし、鮮魚コーナーで足を止めた。何をそこまで考えることがあるのか、そこで数分に渡って足を止めている。

 ……ああ、そうか。俺が近づいてくるのを待っているのか。

 一緒に店を回ればおかしいが、たまたま同じ棚の前で足を止めたというだけならおかしくない。幸い、他の客は今鮮魚コーナーにいない。

 俺が近づくと、初瀬はサーモンの刺身を手に取った。


「お刺身食べたいけど、一人だとちょっと多いわね」


 とぽつりと呟き、サーモンを棚に戻し、別の棚に移動した。

 一緒にこれを食べようって意味か?

 今日は用事はないので別にいいが……。

 十日ぶりくらいに顔を合わせたのに、打ち合わせもなしにいきなり暗号みたいなことされると困惑する。後で文句を言っておかないと。





「お、今日はヘルシーなメニューになってるね。結構結構」


 俺の家に入ってきた初瀬は、テーブルに並べられた料理を見てうんうんと頷いた。


「ヘルシーじゃないと文句言うだろ?」

「私のことよくわかってる。さすがさすが」


 今日のラインナップは、初瀬ご希望のサーモンの刺身をメインに、レタスとブロッコリーとカイワレ大根のサラダ、もやしのおひたし、わかめときくらげのスープ、素焼きのアーモンド。さらに、デザートとしてリンゴが加わる。

 びっくりするくらいヘルシーだ。男子大学生が用意したメニューだと言っても、きっと誰も信じてくれない。

 俺だって普段はこんなヘルシーな食事はしない。初瀬が来るからこういうメニューになったのだ。

 体はジムではなくキッチンで作られる。というのが言葉がある。大勢の人の視線に晒されるにふさわしいアイドルとして体を作るため、初瀬の体作りには余念がない。


「毎度のことながら、本当に野菜をたくさん食べるよな」

「野菜はコスト的に優秀だからね」

「結構高いだろ?」

「ある程度お金を持ちますとね、コストって値段じゃなくてカロリーのことになるんですよ。同じカロリーを摂取するのにどれだけ量を食べられるか……みたいになるんですよ。揚げ物とかスイーツって一瞬で百キロカロリー超えちゃうから、食事がすぐに終わってつまらないんだよね。だけど、野菜中心ならたっくさん食べられる。コスパ最高!」


 一理ある……ような気はするが、おそらく初瀬ほどストイックな価値観の人間はめったにいない。金を持てば、高くてもいいから美味い物(カロリーは気にしない)になるのが普通だろう。

 まぁ初瀬の場合、痩せているのも仕事のうち、みたいなところがあるからこういう考えになるのかもしれない。


「それにジャンクフードやお菓子は美容に悪いしね」

「この前テレビ見てたら、お菓子のCMに初瀬が出てるの見たんだが。あれはいいのか?」

「…………そういう闇にさらっと踏み込むんじゃないよ」

「言えないようなことか?」

「藤城に話したところでどこにも漏れないから別にいいんだけどさ。お仕事をいただけば、普段は食べない物も食べますよ」

「おいしそうな顔して食べてたけど、まずいって思ってたの?」

「そんなことは思ってない。おいしいとは思ってる。わざわざ食べようとは思わないだけで」

「なんでメーカーはそんな奴にCMさせようとするの? 俺が初瀬のことを知ってるからたまたま思ったわけじゃなくて、誰でも思うじゃん。こんな細い体の女がお菓子食べてるわけないよな? って」

「だから……デブにCMさせたら、この商品食べたらこうなるって思われちゃうじゃん。そしたら誰も買わなくなるじゃん。私みたいなのがCMしてたら、これを食べても大丈夫なんだ。って思ってもらえるし……」

「ただのウソじゃねぇか!」

「絶対にこの話漏らさないでよ。こんなの知られたら今度は私が消える番になっちゃうかもしれない」

「しないよ。しかし、ウソをつくのも仕事のうちか」

「このくらいのことはどの仕事の人でもするでしょ。他社製品の方が良いと思ってても、自社製品をプッシュするのは当然でしょ?」

「まぁそうだな」

「だからこの程度はウソにカウントしないでおくれ~。さ、仕事関連の話はもうなしにして、ご飯食べよ食べよ。それからボドゲしようよ。なにか新作買った?」

「買ってない」

「ったく……まぁそういう時のために、前に品定めしておいたスマホアプリのボドゲがあるからそれやろうか。本当は実際に手で触りながら遊ぶ方が好きなんだけど」


 文句を言いながらも初瀬はワクワクとした表情を抑えきれずに口元を緩めている。

 普段は仕事として笑顔を作ってるくせに、プライベートでこうした裏表のない笑みを見せてくるのはズルい。

 どうしたって意識してしまうではないか。


「おっと、もうこんな時間か。そろそろ帰らないと」


 ゲームを十分に楽しんだら、いつの間にか日付が変わっていた。

 初瀬がうち来るのは、早い時間に仕事が終わったか、翌日のスケジュールに余裕がある時だ。初瀬は睡眠をとても重要視しているため、寝る時間を削ってまで遊んだりはしない。

 夜更かししても支障がないくらい翌日の始動が遅い時でないとうちには来ないのだ。

 帰宅時間はまちまちだが、基本的には日付が変わればお開きとなる。

 誰にも知られないとしても、ずるずると長居したり、間違っても朝帰りなどしたりしない。

 それが初瀬なりのルールであり、守るべきラインなのだ。

 この日も同じで、帰るべき時間になれば自分が使ったコップを洗って帰る支度を始めた。

 初瀬がそうしている間、俺は廊下に出て他の住人がいないかをチェックする。

 いつもなら、この時間にはほとんど人はいない。終電で帰って来た人が家に入ってしまえば、朝まで廊下は誰もいない場所になる。

 ……はずなのだが。

 この日は違った。

 廊下に人がいた。

 しかも二人。男女。

 大きな声で何かを話している。いや、話しているというよりは怒鳴っていると言った方が正確だろう。

 痴話喧嘩? 別れ話? なんにせよ、絶対に関わりたくない。

 厄介なことに、俺の部屋のすぐ近くで話している。これでは初瀬が俺の部屋から出れば、絶対に姿を見られてしまう。

 一応帽子やマスクで顔を隠すわけだが、それで十分という保証はない。結局、見られないこと以上に安全な方法はない。

 誰かが警察やマンションの管理会社に連絡してくれればいいのだが、あまり期待できないだろう。

 このマンションは防音がかなりしっかりしているので、廊下で大きな声を出しても各部屋にはまず聞こえない。実際、俺も廊下の様子を窺うまで気付かなかった。

 自室にいる限り迷惑には思わないので、わざわざ通報して関わろうという人はいないだろう。

 なら自分でやる? それはできない。

 もし俺が通報したと知られてしまったら、顔を覚えられて、恨まれて、つきまとわれるかもしれない。そこから初瀬について気付かれてしまう可能性だってある。

 大人しく……。

 知られたくない秘密がある人間は、身を潜めて目立たないようにするのが鉄則だ。


「しばらく待っていた方が良いな」

「どれくらいで終わるかな?」

「さぁ……でも、あんな激しい怒り方がいつまでも続くとは思えない。そのうち疲れて終わるんじゃないかな?」


 と、気軽に少し待ってみることにした。

 だがこれは大きな見込み違いだった。

 まさかこの夜があんなに長いものになるなんて、この時は思いもしなかった。

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