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第5話 帰れない夜(中)

 隣人のせいで初瀬が帰れなくなってしまったため、うちでもう少し時間を潰さなければいけなくなってしまった。


「一時間くらいで帰れるかな? じゃあ、もう少し遊べるね」


 初瀬はクローゼットを開けてボドゲの箱をいくつか取り出した。

 その中からこれまで何度も遊んで、どのくらいの時間で終わるかだいたい想像できるゲームを選んだ。

 で、それをワンゲーム遊んだ。決着が着いたところで時計を見ると、一時をとっくに回っていた。さすがにまだ喧嘩してるってことはないだろう。

 初瀬に片付けを任せ、その間に俺は廊下の様子を窺う。

 怒鳴りあいはさすがに終わっていた。

 だが、二人はまだそこにいた。無言でにらみ合っている。熱戦は冷戦になり、まだ継続中のようだ。


「しばらく終わりそうもないぞ」

「まだかかるの? なにをそんなに怒ることがあるんだろ?」

「さぁな。別におもしろい話でもないだろうから知りたくもない」

「はぁ……喧嘩があと一時間続くとして、自分の部屋に帰れるのは二時。そこからお風呂に入って、髪を乾かしたりなんだりしてると三時になっちゃうな。まぁ明日は現場入りが遅いからそれでも大丈夫だけど。それ以上続くと寝不足になっちゃうよ。寝不足はお肌の大敵なのに」

「何して待つ? またゲームするか? それとも仮眠でもとっておく?」

「一時間を覚悟しつつも、三十分で終わってくれないかな? という期待を残して時間がかかる遊びはやめておく。漫画でも読んでようかな。なんかない?」


 初瀬はうちに来るときはスマホを持ち込まない。

 うちにいる時に事務所から電話がかかってきたとする。そうすると、俺の家で初瀬莉莉ではなく、初瀬リリにならなくてはいけない。

 アイドルである自分を少しだけ忘れて、素の自分に戻れる場所が俺の家……ということらしいので、仕事に関わる物は持ち込みたくないらしい。

 まぁさっきは仕事の話を普通にしてたし、あまり厳密なルールではないのかもしれないが。


「基本的に電子書籍しか買わない。さすがにスマホは渡せないからうちに読ませられる漫画はないな」

「別に検索履歴を漁ったりしないからスマホを貸してくれてもいいのよ?」

「いやいや、検索履歴以外にも……」

「ああ、電子書籍の中に、私には見られたくないタイプの漫画がある? ならやめておこうかな」

「そういう理由じゃなくて、いきなり友達からメッセージきたら困るから。フィジークやってる男が、突然上裸の写真を送ってきて筋肉自慢してくることがあるから」

「フィジークって?」

「ボディビルの仲間みたいなやつ。ボディビルが筋肉美を競う大会で、フィジークは筋肉を重視しつつ全体的な美しさを競うものらしい」

「筋肉系イケメンコンテストってこと? 見たいような見たくないような……」

「上裸だけど、下はパンツ一枚だけってこともあるぞ」

「それは別に見たくないかなぁ」

「大会前以外はムダ毛の処理が甘いことがあって、結構汚いんだよな」

「絶対に見たくない。スマホは結構です」


 良かった。なんとかごまかせた。

 初瀬に見られたくない本がスマホに保存されているのは事実なのだ。紙の本を置いていたら、いつ見つかるかわからなくて怖いから、その手のはすべて電子書籍にしている。

 フィジーク選手の友達のおかげで、なんとかこの場を切り抜けることができた。夜中に腋毛の見える裸の写真を送られて頭にきたことが何度かあったが、すべて許してあげよう。


「紙の本だと……小説ならあったな」


 どこに置いたかな? 大学の教科書の間にでも紛れ込んでるのかな?

 ……あったあった。


「読むならどうぞ」

「お、これ!」

「知ってるやつ?」

「知ってるもなにも、私が出演するやつじゃん」

「出演?」

「映画だよ、映画」

「映画化するのか、それ。初耳なんだが」

「……………………やべっ。まだ発表前の情報だったかも」

「気をつけろよ。そういうのってうっかりじゃ済まないんだろ?」

「絶対に黙っててね。ああっ、もう! 夜更かしですでに寝不足の影響が出始めちゃったかな?」


 影響出るの早すぎだろ。数時間の夜更かしでこれなら、徹夜なんかして現場に行ったらとんでもないことになりそうだ。


「それは自分で買った本じゃなくて、この前実家に帰った時に姉から渡されたんだよ。自分で買ったのともらったのとで被っちゃったから、買った方あげるって言われて。……もしかして、姉も出演する?」

「………………ノーコメントで」

「良かったな、人気小説の映画化に出演できて。この前のメンバーの一件で、ガデフラ全体のイメージが悪化して出演取り消し……とかにならないで」

「あの記者会見がうまくいったおかげで、私の株だけはストップ高になったらしくてね。ガデフラの仕事は減っちゃったけど、私の仕事は減るどころか最近はむしろ増えてるの。だから、ここで私がやらかすわけにはいかない。あんなことがあっても変わらずガデフラを応援してくれてるファンたちのために、絶対にこの仕事をちゃんとやり遂げないといけない。絶対に絶対に絶対に! この件は秘密にしてね」

「俺が何か言ったところで、初瀬から聞いたってことにはならないよ。姉から情報が漏れたって思われて責任はそっちにいく」

「それはそれでダメ!」

「だから誰にも言わない。安心していい」

「……わかった。そうだよね、私は藤城のことを疑っちゃダメだよね。あなたは私の困ることは絶対にしない。だから、まだこうしてこの家で遊んでいられるわけだし。言うなって何度も念を押す方が失礼だね」

「そうそう。俺を相手に心配なんか一切いらないから、その本読んで時間潰してろ」

「ページが破れるほど読み込んだから今さら読まなくてもいいんだけど……まぁいいか」


 初瀬はイスに座り、本を開いた。最初のページからではなく、いきなり途中のページを開いて、ある程度読んだらまた何十ページか飛ばして……独特な読み方だ。

 たぶん自分が演じる役が出ているシーンを選んで読んでるんだろうな。

 その間、俺は何度か廊下を見に行った。

 だが、相変わらず冷戦が続いている。終わる気配はない。

 あの人たち、明日の予定とかないんだろうか?

 明日は平日のはずなんだけど。




 二時を過ぎ、ついに二時半になった。

 それでもまだ廊下には出られない。


「ふわぁぁ……」


 初瀬が大きなあくびをした。


「ヤバい、このままだと明日寝不足で仕事に行かなきゃいけなくなる」

「いっそうちで寝るか? そこのベッド使っていいよ。俺は床で寝るから」

「いやいやいや、それはさすがにムリ」

「まぁイヤなのはわかるが……もう少しオブラートに包んでくれ」

「違う違う、今の“いや”は“嫌”の字じゃないの。待った待った、的な意味であって強い拒絶ではないのよ。ほら、私ってアイドルじゃん? ただゲームで遊ぶためとはいえ、こうして男性の家に来ることも本来アウトなのよ。ましてやお泊りなんてダメ。最後まで起きてないと」

「へたしたらこのまま朝まで待たされるぞ。だったら起きてようが寝てようが、何も変わらないだろ」

「だとしても。これは理屈じゃなくて気持ちの問題だから。とにかく、私は男性の部屋で寝たりしません」

「そうですか……と言うか、俺のこと男と言う意識があったんだな」

「え、そりゃそうでしょ。というか、男以外の何なの?」

「別に他に何ってことではないが、性別を気にしない友達扱いをされてるのかと思ってた」

「ちょっと何を言ってるかわかんないんだけど? 思いっきり性別を気にしてるから、ものすごいこそこそしてここに遊びに来てるし、今ここから出られなくて困ってるんだけど」

「ああ……うん。言われてみればそうだな」

「まったく。ケンカするなら家の中に入ってやってほしいわ。なんで廊下でするのかしら? もう自分の家に入れたくないとかなのかな?」


 隣の部屋の人について考えている初瀬の横で、俺は別のことを考えていた。

 初瀬から異性として意識されている……それは考えないようにしていたことだった。

 アイドルはプライベートで異性とあまり関わらない方がいい。意識が高い初瀬ならば、それをかなり徹底して守っているはずだ。

 逆に言えば、接点のある俺は、異性という枠には入っていない。だからここに遊びにきてもらえるのだ。だから俺も性別を意識してはならない。

 そう思っていた。

 だけど、実は初瀬は俺を異性として思いっきり意識していたとは……。

 いや、たぶん恋愛対象という意味での意識ではないのだろうが。

 それでも嬉しい。

 笑みが我慢できなくなってしまいそうなほどに。

 だが、必死にその表情を嚙み殺す。下心があると知られたら、初瀬がここに来られなくなってしまう。

 初瀬の大事な遊び場を奪ってしまう。

 俺が何よりも大事にしなければいけないのは、初瀬がリラックスできるこの場所を守ることだ。

 それは俺の秘めた恋心よりもはるかに優先されるべきことなのだ。




 午前三時。

 外の様子は相変わらず。

 静かな戦いではあるが、ここまで続くとよく体力や気力が続くものだと逆に感心してしまう。

 ……まさか朝まで続けたりしないだろうな?

 初瀬はすでにうとうととし始めている。

 姿勢良く椅子に座っているが、時折まぶたを重そうに持ち上げている。

 意地で我慢しているようだが、限界は近い。いつ椅子から転げ落ちてもおかしくない。

 しかし、これ以上起きていたら起きていたで、明日の仕事に支障をきたしそうだ。


「そうだ、初瀬が俺の家から出るのを目撃されたらまずいんだから、俺が出る分には問題ないんだ」

「……うぇ?」


 初瀬は半分夢の中にいたのか、返事の声はぼんやりしていた。


「だからさ、俺がいると初瀬は眠れないわけだろ。だったら俺が出かけてくる。朝まで帰ってこないから、気にせずベッドを使ってくれ」

「……その気遣いはありがとう。でも、さすがに家主を追い出すようなことをして自分だけ寝るのは気が引ける」

「あ、じゃあこういうのはどうだ? 初瀬が俺の部屋を使う代わりに、俺が初瀬の部屋を使う」

「論外」

「そうだよな。でも徹夜するわけにはいかない」

「そうね」

「ってことで、俺が出て行くしかないな」


 初瀬はしばらく無言で考えた。

 しかし、寝ないという道を選ぶことはできないはずなので、「俺が出て行き初瀬が眠る」という結論に行きつくはずだ。


「…………わかった。ベッドを使わせてもらうわ。でも、外には行かなくていい」


 と思っていたのだが、想定外の第三の選択肢が選ばれた。


「初瀬が寝てるのと同じ部屋にいろってことか? それはそれでまずくないか?」

「良くないのはわかってる。でも、藤城を追い出すようなことはしたくない。だって、それは私があなたを信じていないという意味になるでしょう?」

「だからって……信じられすぎても困るんだが」

「過剰な信頼はしてない。だから同じベッドで寝ていいなんて言ってないでしょ。私が寝てるのと同じ部屋にいていいって言ってるだけ」

「いやいや、十分に過剰なレベルだと思う」

「そうは思わない。大丈夫、藤城は私が本当に嫌がることは絶対にしない人だから」


 ずるい言い方だ。

 これ以上この話を続ければ、不埒な考えを持っていると認めることになってしまう。


「わかった。じゃあ、そういうことにしよう」

「よし、決まり。次は……寝る前にお風呂に入りたいところだけど、さすがに私の湯上り姿を見ると藤城も困るよね?」

「すごく困る……それに風呂に入っても着替えがないだろ」

「そうだよね。藤城の服を借りるとなると……ああ、これはいよいよ大変だ」


 そんなこと言われると、どうしても想像してしまう。

 男用の大きなサイズをぶかぶかに着た初瀬のTシャツ姿を……。首元や袖にスペースがあり、屈んだ際にそこから見えてしまうかもしれない。

 見たいか見たくないかで言えば、もちろん見たい。考えるまでもない。

 だが、たとえ一瞬でも見てしまえば俺の自制心はガッツリ削られるだろう。

 聞くところでは、心理学の世界では自制心はストック制という説が支配的だそうだ。鉄の自制心を持つ人間とは、どんな時でも揺るがない超人などではなく、自制心の在庫が普通の人よりちょっと多いだけの普通の人らしい。なので、何度も何度も自制心を要求されるシチュエーションに遭遇すれば、在庫はどんどん減ってしまい、最終的には誘惑に屈してしまうそうだ。

 誘惑に屈しない最も有効な方法は、自制心の在庫を減らすような誘惑に身を晒さないこと。ダイエットを成功させたいなら、家にお菓子を置かない、そもそもお菓子売り場に近づかない、というのが原則となる。

 今の俺で言えば、初瀬のことを異性として意識するシチュエーションに極力身を置かない、というのが重要ということだ。


「だけど、お風呂に入らないと汚れた服のままで寝ることになっちゃう。一応、今着てるのは部屋着で、仕事が終わって帰って来てから着替えたものだからそこまで汚れてるわけじゃないと思う。でも、これで寝るのは申し訳ない」

「そんな小さなことは気にしなくていい」

「大丈夫だとは思うけど、においがシーツについたりしないかな?」


 そういうことを言われると、初瀬が帰ってから嗅いでしまいそうだ。

 なるべく意識しないでいたいのに……。


「こうして話してる時間も睡眠時間を削ってることになるから、さっさと寝た方が良い」


 これ以上余計なアイディアを出される前に、さっさと寝かせてしまおう。


「そうだね。じゃあ電気消してくれる?」

「うん」

「真っ暗じゃないと寝られないから、小さい電気も消してもらっていい?」

「わかった」


 わずかでも灯りがあるよりは、いっそ真っ暗な方がいい。

 理由は違うが、そこは俺も同じ意見だ。

 初瀬の寝顔が見えてしまえば、それはそれで自制心を削られるからな。

 だが、暗ければ安全というその考えは少し甘かった。


「……いくら藤城とはいえ、男の人が近くにいる暗闇で寝るのは緊張する」


 なんてことを初瀬がつぶやく。

 そうすると、俺も暗闇であることに何か意味を見出したくなってしまう。

 なるべく考えないよう心を無にしようと試みたが、初瀬の寝息が聞こえてくると、そんなささやかな抵抗さえもできなくなる。

 静かな暗闇の中で、聞こえてくるのは静かな寝息だけ。

 他に何もない状況だからこそ、その音は俺の意識を引き付けて離さない。

 ただの呼吸音なのだが、普段とは違う初瀬がそこにいるというのがどうしても気になってしまう。

 手を伸ばせば、どこにだって触れられるのだ。

 この誘惑は反則級だ。

 無論、そんなことはしない。

 俺が何もしないことと信じているからこそ寝ているのだ。その信頼を裏切るわけにはいかない。

 この信頼を裏切れば一生後悔する。

 気持ちには蓋をし続けなければいけない。

 そんなこと頭ではわかっている。

 でも……本能というのはあまりに強い。

 三大欲求のひとつを跳ねのけるというのは、とんでもない精神力が必要だ。

 うちがワンルームでなければ、俺は別の部屋に逃げられるのに。

 この狭い家では逃げ場もない。

 本当に隣の住人が恨めしい。

 ええい、考えていてもしかたない。俺も寝てしまおう。

 とにかく目を閉じて……わかっている。眠れるはずがない。

 なら、せめて今の状況とは全然違うことを考えよう。

 たとえば、昔のことにでも思いを馳せてみるか。

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