ある日、バイト先のカフェのロッカーの更衣室で着替えている時、初瀬からメッセージが入った。
「――今日はビーフシチューだよ。お楽しみに」
片思いをしている相手からこんな連絡が来たら感動するしかないのだが、さらにビーフシチューだと?
俺の好物のひとつだ。牛肉を使った料理に限定すれば、たぶん一番好きだ。すき焼きよりも上だ。
好きな人×好物=最大級の幸せ。こんなことが幸福が許されていいのだろうか?
「――超楽しみ」
「――バゲットを買ってきてくれるとおいしさ三割増し」
なるほど、バゲットか。
うちのカフェで軽食用に使っているのがあるな。余ったら少し分けてもらえないか店長に聞いてみよう。
初瀬のビーフシチュー、楽しみだなぁ。もうバイトなんか放り出して早く帰りたい。
いかんいかん、仕事はしっかりしないと。仕事をサボって女のところに遊びに行くような男、初瀬はきっとキライだ。
この日、天気が悪くて客足が少ないせいか、バゲットを使った軽食はあまり数が出ていなかった。
閉店までの時間を考えたら、売り切れることはまずありえない。これでバゲットの確保は完了、と。
これでシチューの染み込んだパンを食べられるわけだ。
ふふ、早くもよだれが出てきた。
「藤城くん、なんかご機嫌だねぇ。いいことあった?」
と聞いてきたのは、バイトの先輩の弓削陽菜さん。
たしか俺より二歳ほど年上。
なかなかの美人で、きさくな性格で、割と人気者らしい。たしかに話しやすい人ではある。
今はほとんど客がいなくて、バイト同士でこうして話す余裕がある。
「まぁちょっと」
「当ててみようか。彼女ができたんでしょ?」
「いえ、違いますよ」
「違ったか。でも彼女はいるんでしょ?」
「いませんよ」
「へぇ。あ、わかった。特定の相手とは付き合わないで、あれこれつまみ食いしてるんでしょ? その顔だもんね、わかるわかる」
何もわかっていない。
だが、そういう誤解は慣れているのでいちいち大きなリアクションはしない。
「そんなことしないですよ」
「しないんだ? その顔なのに」
「俺ってそんなに女癖悪そうな顔してます?」
「女癖までは顔じゃわからないけどさ、自然と女が寄って来る顔はしてる。今は彼女がいないとして、これまでに何人くらいと付き合った? 十人くらい?」
「ゼロですけど」
「え? その顔で?」
「だから顔のことは」
「女慣れしてる感じもするのに」
あんたみたいな人に絡まれてれば慣れもするよ。
実際のところ、彼女はおろか、プライベートで一緒に出掛けるような女友達すらいない。
よくうちに来る女友達はいるし、ここ最近は毎日その人の家に行っているけれど。
「飽きるほど女遊びできそうなイケメンがそんなピュアピュアとか……興味ある。ねぇねぇ、今日バイト終わったら、一緒にホテル行かない?」
「なんかすっごいイヤな誘い方ですね。申し訳ありませんが、お断りします」
「なんで? 結構美人でしょ? 体にだって自信あるのよ。遊んで損のない相手だと思うけど」
「いや、恋人はいないけど、好きな人はいるんで」
毅然とそう告げる。
初瀬には言えない気持ちだからこそ、こういう人にははっきり言っておかなければいけない。
しかし、それに対する弓削さんの返しは俺の価値観の外から飛んできた。
「好きな人がいて……だから?」
「だからっ!?」
好きな人がいるから、ってこれ以上ないほどわかりやすい断り方ではないのか?
どこに疑問を持つ要素があるのか?
「好きなだけで別に付き合ってるわけじゃないんだからさ、その人に遠慮はいらない。そうでしょ?」
理屈としてはわからなくはない。
だけど、俺にはそこまで割り切れない。割り切りたくもない。
「ピュアボーイにはわからないかもしれないけど、ホテル行くくらい別に深く考えなくてもいいからさ。一回きりの遊び感覚で、ちょこっと行ってみない?」
「いや、そういうの本当にいいんで」
「その好きな子以外は眼中になしってわけか? じゃあさっさとその子を落としに行けばいいのに」
「それができる相手なら苦労はないです」
「ふぅん。相手は彼氏持ち?」
「いえ、いないですね」
「じゃあ話は簡単じゃん。フリーの男と女がいて、しかも藤城くんはイケメン。その恋路は見通し良好、障害なしのイージーモードだよ」
障害ならあるんだよ。
とびきりでかい障害が。
「いろいろと事情があるんですよ。とにかく俺のことは放っておいてください」
「ええ~、もっとこういう話しようよ~。わたし、恋愛事は経験豊富だからアドバイスできると思うよ? なんなら友達呼んであげるから、お姉さんたちにいろいろ相談してみない? どういう子呼ぶ? かわいい系と美人系はどっちが好み?」
「今日は用事があるので」
「後日でいいよ~」
「遠慮しておきます」
「つれないねぇ。警戒させちゃったかな? そんな構えなくていいのにさ。キレイなお姉さんに囲まれるところを想像すると緊張する? 女慣れしてるように見えても、やっぱりピュアなのかな?」
さっさとこの場から逃げ出したかったが、バイト中なので持ち場を離れるわけにもいかない。
お客さんが来ればよかったのだが、こういう時に限って誰も来やしない。
それからしばらくの間、弓削さんから絡まれ続けた。おかげであまり働いていないのに、いつもよりも疲れた……。
バイトが終わり、帰り道。
もらったバゲットが入った袋を持ちながら、むしゃくしゃした気分になっていた。
別に弓削さんに対してだけというわけではない。
学校でも似たようなことを言われることはよくある。
「その顔でどうして彼女がいないんだ?」
と。
誰か紹介してやろうか、と言われることもある。自分から売り込みに来られることもある。
悪意があって言っているわけではないので怒りを抱くのは違うとわかっているが、そのたびにイライラしてしまう。
放っておいてほしい。
別に彼女なんてほしくない。
友達というだけの関係だとしても、初瀬と一緒にいられれば幸せなのだ。
もちろん、初瀬と付き合えたらそれが一番嬉しい。
でも初瀬は、アイドルでいる限り誰とも付き合わないと決めている。
だから俺も、初瀬がアイドルのうちはそれ以上を決して望まない。
初瀬が引退した後に付き合えると決まっているわけではないけれど、それは大きな問題ではない。
今初瀬が歩いているのと同じ道を、離れていてもいいから俺も歩いているというのが大事なのだ。
別々にであっても同じ道を歩いていれば、いつか交わる時が来るかもしれない。そうしたら、そこからは一緒に手を取り合って歩けるかもしれない。
その希望さえあれば、俺は歩き続けられる。
こんなこと誰にも……初瀬にさえ言えない。
めんどくさい人間だな、と我ながら思う。
だけど、そんな俺を、俺は誇りに思っているのだ。
だから。
俺のことは放っておいてほしい。
イヤな気持ちをまだ引きずったまま家についてしまった
……どうしよう。もう少し気持ちを落ち着けてから初瀬に部屋に向かうべきだろうか?
でも、一人でいると一時間経ってもイヤな気持ちを引きずっていそうだ。
もう結構遅い時間なので、これ以上初瀬を待たせるわけにもいかない。
行こう。
イヤなことなんて何もなかった、って顔で行こうじゃないか。
初瀬の部屋のドアを開け、中に入る。
すると、エプロン姿の初瀬が、手を壁につき、ケガをしていない左脚でぴょんと跳びながら出迎えてくれた。
「おかえり」
と、たった一言。
たった一言、その言葉を聞いただけで、俺の心は浄化された。
さっきまで何にいらだっていたのかわからないほどスッキリした気分になった。
一瞬で俺を救ってくれるなんて。
やっぱり他の人なんて考えられない。
初瀬さえ。
初瀬さえいてくれたら、俺は幸せなのだ。
だから俺は、
「ただいま」
胸にあるすべての感情をその言葉に込めた。