じっくり時間をかけてコトコト煮込んだビーフシチュー。鍋の蓋を開けただけで、トリップしてしまいそうなほどの良い香りが室内に解き放たれる。
皿に盛られれば見た目が良くなり、さらに美味しそうに感じる。盛り付けだけで印象をアップさせられるのは、初瀬のセンスの良さのおかげだろう。
このまま一気に口の中に流し込みたい衝動に駆られる。
それをなんとか堪えて、サラダと一緒にテーブルに並べる。買ってきたばかりのバゲットをカットし、それを二人の席の間に置いたら今日の晩ご飯がついに出揃った。
「いただきます」
初瀬の家で、二人で向かい合ってそう言ってから食事を始める。
もうすっかりお馴染みになった光景だ。
初瀬が骨折して以降、夕食を共にするのが当たり前になってしまった。
休養中に料理のスキルをアップさせようとしている初瀬は、毎日時間をかけておいしい料理を作っている。
今日の料理はその中でも特に美味しそう。
今日はどうだった? みたいな話をする時間さえも惜しい。早く食べたい。
スプーンを握り、一匙掬って口に運ぶ。
「うまい……」
それ以外の言葉が出てこない。
肉が半分くらいスープに溶けて奥深い味を作り出してるとか、野菜が舌で押し潰せるほど柔らかく煮込まれているとか、いろいろ語ることはできる。
だが、本当にうまいものを食べた時、言葉はあまりに無力だ。万の言葉を尽くしても、その感想を正確に表すことはできない。
夢中でスプーンを動かした。サラダに一度も手をつけることなく、気が付けばシチューの皿は空っぽになっていた。
鍋にはたくさん残っているので、遠慮なくおかわりをもらう。
「そんなにおいしそうに食べてもらえるとがんばって作った甲斐があったなぁ」
心なしか初瀬も嬉しそうだ。
「こんなにうまいシチュ―は初めて食べた。店で売れるレベルだよ」
「店で売るにはコストがかかりすぎてるからムリ」
「そんな高い肉を使ったのか?」
「前に仕事で取材に行かせてもらった山形の会社がね、私のケガを知ってお見舞いとして事務所にお肉を送ってくれたの。それを今朝マネージャーが届けてくれたのよ」
「山形というと……米沢牛というなにやらとても高いお肉があるという噂を聞きますが、まさかそれ?」
「それです。高いって言ってもピンキリなんだろうけど、今回頂いたのは本当にすごいよ」
初瀬は棚の上を指差した。そこには昨日まではなかった箱が置かれている。
輝くような美しい漆塗りの木箱だ。
「まさか、あれに入ってたのか?」
「そう」
「だって、あんな……箱だけで何千円もするだろ?」
「するだろうね」
「そんな箱に収められる牛肉って一体いくら………………そんなのをシチュ―にするって罰当たりじゃないか?」
「自分で買ったら絶対にできない。もらいものだから、冒険してみてもいいかなって」
「……俺はとんでもなく贅沢なものを食べていたのか」
「こんなの二度と作ることはないでしょうね。きっと生涯で最初で最後。味わって食べてね」
「うん……」
言われたのがおかわりした後でよかった。
最初にそんな話を聞いていたら、緊張して素直に味わえなかったかもしれない。
だがすでに一杯目を平らげているから、金額の話を聞いても身構えずに二杯目を食べられる。
「おいしいものを食べて少しは元気出たかな?」
「……何の話だ?」
「さぁ、どうして藤城が元気なかったのか私は知らない。でも、うちに来た時、いつもより少し暗い顔してた。大学かバイト先かで何かあったのかな? それを私に知られないように、ムリしてる感じが出ちゃってた」
「……すごいな。なんでわかったんだ?」
「女の勘は鋭いのよ。それに、いつも会ってる人のことだから、なんとなく気が付くの」
「そっか」
「何があったか聞いてあげてもいいよ」
「あんまりグチを言うのもな」
「私はよくグチを聞いてもらってるから、そう言われると心苦しい。これからも聞いてほしいから、たまには私にグチを話してみない? それならおあいこでしょう?」
「…………」
言わない方がいいんだろうなぁ。
という気はしたが、ここまで言われて話さないのは、逆に良くないようにも思えた。
「今日、バイト先で先輩にホテルに誘われたんだけどさ……」
「ホテル?」
「まぁラブホのことだろうな」
「あらら、大人な話題」
こういう話はイヤがられるだろうか、と話しながら不安になったが、かいつまんでさっきの話をした。
「なるほど。エッチなお誘いより、私のビーフシチューを選んでくれた、ということね」
「平たく言えばそうだな」
「光栄ね。後悔しないくらいはおいしかったかしら?」
「帰ってこない方がずっと後悔したと思う。このシチューが食べられなかったら、一生悔いが残る」
「あははっ、そこまで言ってくれるとうれしいね。でも、もったいなくない? せっかくお誘いしてもらったのに」
「興味ない」
「そうなの? 男の人ってエッチなことがとにかく好きなんだと思ってたけど、興味ない人もいるんだ? あれ、性欲がなくなるのって精神的に病んでる兆候って聞いたことがあるけど」
「そういう意味じゃない。性欲がないわけではなく、相手を選びたいってだけ。その先輩はそういう対象じゃないってだけだよ」
「えり好みしたいわけね」
「そんな悪意ある言葉になっちゃう?」
「冗談冗談。誰でもいいわけじゃなくて、好きな人とだけがいいって話でしょ?」
「そうだよ。それをえり好みって言われたらたまらないな」
「ごめんって」
「いろんな人がさ、それは良くないって言うんだよ。恋人がいて一途なら何も言われないんだろうけど、いないのに誘いを片っ端から断るのは良くないって」
「それは割と正論だと思うけど。恋人はいなくても好きな人はいないの?」
「いない」
と、ウソが自然に口から出た。
いると言うわけにはいかない。
言えば、間違いなく気付かれる。
「へぇ、いないんだ?」
「悪いか?」
「ううん、全然悪くないよ。まぁいないのはそれでいいとして、好みのタイプくらいはあるでしょ?」
「まぁな」
「どういう人が好みのタイプ? せっかくだからぜひ聞かせてもらいたい。男の子とこういう話をする機会はなかなかないので」
さて、どう答えよう。
たとえば好きな見た目について語れば、目の前にいる人について話すことになってしまう。
内面について語っても、結局は初瀬の話になってしまう。
かと言って、真っ赤なウソをつきたくない。
なのでどうとでも解釈できる言葉を選ぶしかない。
「好きになった人がタイプ」
「うわ、出た! 死ぬほどつまらない答え。それ以上話を広げられない司会者泣かせの典型的クソ解答。それ言うくらいなら、おっぱいでかいから好き、の方がよっぽどマシだよ」
「なんかトラウマでもあんのかよってレベルの拒否反応されたぞ。わかったわかった。別の答えにするよ」
「まじめな回答でもいいけど、笑っちゃうくらいロマンチックなやつでもいいよ」
「だんだんふざけてきたな……まぁこっちもその方が気楽だけど。…………君の笑顔のために生きていたい、って言いたくなるような人がタイプ」
「おおっ……いいね、それ。好き」
「これならNGくらわない?」
「うん。まぁどんなのが好みがなのか全然わからないし、人によっては笑うと思うけど、私的には合格です。笑顔で元気を与える。それがアイドルなので、そういうこと言われると響きますねぇ」
「気に入っていただいたようでなにより」
なにに合格したのかわからないが。
「そんな人がどこかから現れるのを待ってるの?」
「まぁそうだな」
もう出会ってはいるんだけど。
「ロマンチックというよりバカかなぁ」
「かもな」
実際、俺はバカだろう。
手に入るかどうかわからない女を、これから何年も待とうって考えてるんだから。
「でも、バカで結構。世の中にはバカじゃないとたどり着けない境地があるだろ? たとえば、どっかの誰かさんなんか、自分の理想とするアイドルになるために、生活のほとんどをそれに費やしてるじゃないか。それだって十分にバカだ」
「たしかにそうね。バカって意味では私も人のことは言えないか。……もし、いつまで経っても、そういう理想の人に出会えなかったらどうする?」
「その時はその時だな」
「そっか。じゃあ、その時は私が良い人を紹介してあげよう。現役はさすがにムリだけど、元でいいならかわいいアイドルをたくさん知ってるので、食事くらいならセッティングしてあげる」
「そりゃどうも」
「あまり喜ばないね?」
「アイドルって言われてもな。最近は現役のアイドルと毎日一緒に食事してるし、特別感はないな」
「なるほど、私が藤城の目を肥えさせちゃったか。悪いことしたなぁ。私ほどの人はめったにいないっていうのに」
本当にそうだ。
初瀬なんて最高の女性に出会ってしまったから、他なんかどうでも良くなってしまった。
いくらでも……とは言わないが、ある程度は選べる立場な自覚はある。
だがそんなことできなくなってしまったのは初瀬のせいだ。
責任を取れ、とは言わないが。
「藤城のそういう考え方、もったいないって言う人はいるかもしれない。でも、私は好きだよ。誰かが認めなくても、私は認める」
「初瀬にそう言われるとなんか元気出る。ありがとう」
「いえいえ。みんなを元気にするのがアイドル。目の前の親友さえ救えないならアイドルは名乗れませんので」
「もしかして俺が好むような言葉を言ってただけで本心じゃなかった?」
「さてどうでしょう? なんてごまかしはしない。ちゃんと本心だよ」
ならばこれ以上は何も言うまい。
親友、と言ってもらえたのも本音ならばそれ以上の言葉はない。
それは今の俺たちが築ける最高の関係だろう。
そう思ってもらえている限り、俺はいつまでも初瀬を待ち続けられる。