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第15話 誓いの夜(下)

 つい俺の恋愛観を初瀬に話してしまった夜から数日。

 大学から帰って来た時、マンションの前に車が止まっているのを見つけた。

 運転席から背は百九十センチほど、体重は百五十キロはありそうな大男が降りてきた。

 続いて後部座席のドアが空き、一人の女性が降りてきた。初瀬だ。

 初瀬はその男と一言二言言葉を交わしてからマンションの中に入って行った。




 俺は自宅に戻ると、初瀬に連絡をした。それから少しして、初瀬の家に移動した。

 今日の初瀬には、いつもと違うところがいくつかあった。

 ひとつ目は、メイクをしていることだった。

 初瀬は普段はメイクをしていない。

 いや、出かける時には普通はしているのだが、俺と会う時はしていない。帰宅して、メイクを落としてからうちに来る。

 だから驚いてしまった。ただでさえ美人なのに、その何倍も美しくなっていたから。


「今日はめちゃくちゃ美人だな」


 驚きすぎて、思わずそのまま声になってしまった。


「今日は? 普段は美人じゃないってことかな?」

「そうは言ってない。普段を基準として、今日はそれ以上ってこと」

「ってことにしておいてあげる」

「さっきのデカい人はマネージャー?」

「正解。ケガした日に大量の食糧を持ってきてくれたのもあの人」

「……ソーセージを山のように買ってきた人か」

「イメージ通りでしょ?」

「まぁな。ケガしたのって山でのロケだろ? あの人を山に連れて行ったのか? 拷問だろ」

「少しは痩せろって優しさよ」


 散々なことを言っている。

 だが、別に悪意を持って話しているという顔ではない。

 おそらく、体格をネタにイジってもいい人物という認識になっているのだろう。一度見たら忘れられない見た目をしているから、もしかしたら、ファンの間でも結構有名な名物マネージャーになっているのかもしれない。


「今日は仕事だったのか?」

「うん。こうなりましたので」


 初瀬はそう言うと、右脚を持ち上げてみせた。

 ここにふたつ目の違い。

 昨日まであったギプスがない。


「治ったのか?」

「骨はくっついた。でも、靭帯はまだ完全じゃないって。だからサポーターつけてろって」


 たしかに初瀬の足首にはサポーターが装着されていた。

 しかし、ギプスとは比べ物にならないくらい小さい。上から靴下を履けば完全に隠れてしまう程度。

 そう言えば、車から降りた時も松葉杖などはなかった。ややぎこちない感じはしたが、自力で歩いていた。


「今日は午前中に病院行ってレントゲン撮ったの。骨がくっついてたからギプスは取れた。午後からはダンスレッスンに行ったり、あちこちに復帰の挨拶回りしたり」

「ダンスレッスン?」

「さすがに動いてはいないけどね。みんなの様子を見に行くって感じ」

「約二週間、長かったような、短かったような期間だったな」

「そうだね。明日からはだんだん仕事に戻っていくよ」

「ケガが治ったばかりなんだから、ムリしてまた悪くするなよ?」

「それな。調子に乗らないでちゃんと加減はしないと。まぁ大丈夫でしょ」


 そう言って初瀬は治ったばかりの足首をぶらぶらと動かす。

 笑って話しながらそういうことができているので、動かしても痛みはないのだろう。

 初瀬の回復は喜ばしいことだが、毎日一緒にいられる時間がこれで終わりなのは残念だ。

 とはいえそれはしかたない。

 人は日常の中で生きる生物だ。特別な時間がどれだけ楽しくても、いつかは必ず普通の日々に戻らなければいけない。


「こんなに早く治ったのは藤城のおかげだよ」

「俺の?」

「病は気からって言うけど、ケガだって気分が落ち込んでたら治りが遅くなるからね。早く治ったのは藤城が毎日うちに来てくれたおかげ。ケガして仕事に穴開けて、ずっと一人で家に引きこもってたらどんどん気持ちが沈んでなかなか治らなかったと思う」

「そういうつもりで来ていたわけじゃないんだが、役に立てたなら良かった」

「他にいろいろ用事もあったはずなのに、毎日私のために時間を開けてくれて本当にありがとう。また恩が増えちゃったね」

「また?」

「突然お邪魔して遊んでもらったり、迷惑かけてばっかりで」

「迷惑だと思ったことはないが」

「今回は本当にお世話になったので、今日はちょっと恩返ししたいな、って思ってるんだけど」


 何か世話なんかしたっけ?

 毎日食事をごちそうになっていただけのような……。

 むしろ俺の方が世話されてないか?

 まぁ恩返ししてもらえるなら断らないが。


「で、恩返しって?」

「何がいい?」

「聞いてくるのか……」

「何が喜ばれるのかわからないから、リクエストを聞こうと思ったんだけど。何かしてほしいことある?」


 もちろんある。

 初瀬にしてほしいこと、一緒にしたいことなら、それこそ山のようなリストを作れるほどある。

 とはいえ、いざ聞かれると意外に出てこない。


「………………」

「あれ? 何もリクエストない?」

「あるにはあるんだが……」


 パッと頭に浮かんだのは、「一緒に出掛けたい」みたいな今の俺たちでは絶対に叶えられないお願いばかりだ。

 可能な範囲に限定するともうすでに叶っているものばかり。

 強いて言うなら、これからもたまには初瀬の作ったご飯を食べたいって感じではあるが……わざわざ言うようなことでもない。

 それに、何か物をもらうのも違う気がする。

 物ももらわず、ここでできること……もう何もないじゃないか。

 せいぜい口約束くらいか?

 うんそれならいいかもしれない。


「じゃあお願いって言うか、約束っていうか」

「なに?」

「前に言ってただろ。初瀬が理想とするアイドルってやつ」

「うん」

「それになってほしい」

「言われなくてもなるよ」

「そうだとしても、初瀬の決意に、俺の願いを少しでいいから付け加えてほしい」


 それはつまり、アイドルである限り誰のものにもならないでほしい、ってことの遠回りな言い方だ。隠れたニュアンスはきっと届かないのはわかっている。

 それでも、こういう形でいいから伝えたい。


「何が目的なのかさっぱりなんだけど、うん、いいよ。それが藤城の望みなら。私の決意を固める糊の一部にしてあげる」

「せめて接着剤にしてくれ」

「応援してくれる人の夢と願いを受け取って輝くのがアイドル。藤城の気持ちを受け取って、私はステージに戻っていくよ」

「うん。誰よりも輝く姿を楽しみにしてる。と言っても、俺はたぶんライブには観に行かないけど」

「たまには観に来てほしいんだけど。来たいと思わせられるようなパフォーマンスをしてないってことかなぁ。そこは今後の課題だね」


 という感じで、この日は特に何も受け取ることなく、いつものように食事をして、話をして、適当な時間で解散になった。

 毎日一緒にいられる非日常の時間は終わり、明日からはたまに会うだけの普通の日々が帰って来る。

 しかし、一年前まではこんな日々さえ普通ではなかったのだ。

 だから、今の“非日常”が“日常”になる未来だってあるかもしれない。

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