結局、俺が眠ったのは午前七時を過ぎた頃で、目を覚ました時には、すでに日暮れ近い時間だった。
起きたばかりなのに一日がもう終わろうとしている……元旦がこれでいいのか?
着替えてリビングに出ると、初瀬がうちの両親となにやら話しているところだった。
姉も近くにいるが、髪がぼさぼさでまだ起きたばかりという感じだ。
「あ、火花起きたわね。お母さんたち、これから初詣に行ってくるけどあんたはどうする?」
「行ってらっしゃい」
「誰もついてこないのね。花火や初瀬ちゃんも行かないって。二人とも年内に初詣ロケやったからもういい、って」
「独特な断り方だな……」
「じゃあ三人で留守番よろしく。夜には帰ってくるから、そしたらおせちを食べましょう」
父さんと母さんが出かけ、うちには俺たち三人だけとなった。
「姉は髪を梳かすくらいはしないの?」
「元旦くらい身だしなみも休業させておくれ。その辺のコンビニに行く時でさえ見られることを意識しないといけないのは大変なんだから。今日くらいはいろいろ緩めっぱなしでいたいのよ」
まぁ現役トップと言われるアイドルにも……だからこそ、そういう日は必要か。
「初瀬は割とちゃんとした格好してるな」
余所行きというほどではないが、普段俺の家に遊びに来る時よりは若干良い服を着ている。
最低限だがメイクもしているし。
「さすがにおじゃまさせてもらってる立場で、あんまりだらけるのも良くないと思うから」
「いいじゃん、そんなの気にしないで。自分の実家だと思ってくつろいで、ちょっとくらいなら狼藉働いちゃいなよ」
姉がおかしなことを言い出した。
「いえ、実家でも狼藉は働いてませんけど」
「ん~……狼藉と言えど、正月まで働くのは良くないね」
姉の話がずいぶんとふわふわしている。
熱でもあるのだろうか? 心なしか顔も赤いし……。
いや、違う。
酔っているのだ。
テーブルにウイスキーのボトルとソーダの缶が置かれている。ハイボールを飲んでいるようだ。
「髪も梳かさずに酒か。ファンが見たら泣くぞ」
「男と飲んでるわけじゃなし。年に一度くらい、実家でだらだら飲むくらいは許しなさいよ」
「そういうものかな?」
初瀬に意見を求めると、初瀬は小さく笑う、
「花火さんが実家で一人飲み配信なんてしたら、意外とはファンは喜ぶんじゃないかな」
そういうものか?
まぁトップアイドル二人の意見が一致しているなら、こういうだらけはファン的にはオッケーなのだろう。
「ひーちゃんも一緒に飲もうよ。あれ、二十才の誕生日ってもう過ぎてるよね?」
「弟の誕生日くらい覚えておけ。七月生まれだよ」
「よっしゃ、合法。飲め飲め」
姉は戸棚からグラスを取り出し、そこに氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。
酔っていて加減できないのか、底から指四本くらいの量まで並々と注いだ。
「いきなりそんなに雑に……おや?」
文句を言いながらだがグラスを手にし、口元に運ぶ途中で思わず声が出た。
オーク樽の良い香りがする。友人たちと行ったチェーンの居酒屋や、宅飲みでは経験したことのない高貴な香りだ。
一口含むと、口の中いっぱいに香りと甘味が広がる。しかしアルコールのとげとげしさはない。それどころか優しささえ感じてしまうまろやかな口当たりだ。
「俺が知ってるウイスキーとは全然違う」
「それは良かった。一介の大学生がこんな味を知ってたらお姉ちゃんは心配だよ。こんなの普段から飲むようじゃ、人生を酒のために費やす愚か者だよ」
「やっぱ高いのか?」
「高いね。これくらいかな」
姉は右手を開いて見せた。指五本……。
「一本五千円?」
「単位が違う」
「……五万?」
「違うのはそっちの単位じゃないのよね」
「円じゃなくてドル? え、これ何十万円もするってことか?」
「ビビったでしょ? お姉ちゃんくらい売れてるとこういうのもポンと買えちゃうわけさ」
「いや、たとえどれだけ稼いでてもこれはムダ遣いだろ。こんなのに何十万も払うくらいなら父さんに車買ってやれよ。今の車、俺が小三の時に買ったやつだぞ」
「めったに乗らないんだから買わなくていいのよ。そもそもこのお酒もそこまで高くないし。一本三万円だし」
「指のくだりから全部ウソだったのかよ……なんだったんだ、今の時間。ってか三万円でもすげぇ高いな。そんなのハイボールにするなよ」
こんな話をしていると、横から「ふふっ」という笑い声が聞こえてきた。
頭が痛くなるような会話のなにが初瀬のツボにハマったのだろう?
「あ、ごめんなさい。仲の良い姉弟でいいなぁって。私、一人っ子だから」
「仲良いように見えたか?」
だとしたらずいぶんと節穴だな。
「仲良いでしょ。あたしはひーちゃんのこと大好きだよ~」
「はいはい、そりゃどうもどうも」
「初瀬ちゃんってお酒飲める人? 飲みたいならなんでもどうぞ。これ以外にもいくつか買ってあるから、飲みたいのがあれば言って」
「ありがとうございます。でも、まだあまり飲んだことないんですよ」
「誕生日っていつだっけ?」
「結構前なんですけどね。ほら、ストレス溜まるような出来事があったじゃないですか。なので、酒に溺れないように控えてました」
シャレにならん理由だなぁ。
「あの件はもう溺れるほどの負担になってないでしょ? なら飲もうよ」
「そうですね。でもまったく飲んだことないので、自分がどれくらい飲めるかわからなくてちょっと怖いですね」
「だからうちで飲もうって言ってるの。信頼できる人が近くにいれば安心できるでしょ?」
「そうですね。ここには何といっても花火さんがいますし」
「いやいや、そこはあたしよりひーちゃんの名前を出しておくべきところじゃない?」
「ふふっ、もちろん藤城のことも信頼してますから、一緒に飲んでくれると心強いですよ。でも、どこかで初めてお酒飲んだ時のエピソードを聞かれた時には、花火さんの名前だけを出すことになると思うので」
「あはは、そんなところにまで気を遣って。職業病だね。わかるわかる。ってことで、最初は何から飲もうか? とりあえずあたしらと同じのにしておく?」
姉に任せると初心者にいきなり大量に注いでしまいそうなので、代わりに俺が用意する。
ロックではなく水割りで……味と香りを殺さない程度に薄める。
初瀬は恐る恐るという感じでそれを少しだけ口に含む。
「これがお酒……おいしいかも」
ぱぁっと顔中に笑みが咲いた。
場の空気を察して演じたのではない本音だろう。
本当はまずいと思った方が良いんだろうけど、おいしいと思ってしまったのならしかたない。
「他のも飲んでみたいです」
「ゆっくりな。うまいと思ってもアルコールに弱い体質の可能性もあるから、様子を見ながら次にいこう」
「うん」
そうして初瀬が少しずつ初めての酒を飲む横で、姉は結構なペースでハイボールを作っては飲んでいた。
一回あたり瓶の五パーセントくらい入れてるように見える。
720ミリの瓶で三万円ってことは、一杯あたり千五百円分ものウイスキーを消費してるわけで……正月の贅沢とはいえ、冷静に考えるとぞっとする。
しかも、姉はつまみをほとんど食べない。カロリー過多になるのを恐れているのだろうが、その分酔いが回るのも早い。
初瀬がウイスキーの注がれたグラスを空け、じゃあ今度は定番のビールでも飲ませてみるか……となった頃に、話題を俺たちに向けてきた。
「二人って普段はどういう話してるの?」
「…………」
「…………」
一瞬、俺と初瀬で視線を合わせる。
姉はどこまで何を知っているのだろう?
――どこまで話した?
――私は特に何も。
――俺も何も。
という感じのことを視線でやり取りしたが、そういうアイコンタクトを見た姉はより確信を強めたとばかりに笑みを浮かべる。
「二人がとっても“仲良し”なことくらい気付いてるって。どういう関係なの? とはあえて聞かないから、どんな話をしてるかぐらいは教えてよ」
間違いなく、姉は俺たちが付き合っていると誤解していることだろう。
まぁそういう関係だと思われているから、初瀬を連れてくることを許してくれたのだろう。
普通に考えれば、恋愛禁止のアイドルと付き合っているという話より、付き合っていない女の子を正月の間うちに泊めたいんだけど……って話の方がよっぽどおかしい。
まぁそのおかしい方こそが現実なんだけど。
「私と藤城とはただの友達ですよ」
訂正した方がいいかな? と考えている間に、初瀬がはっきりと否定した。
この誤解は初瀬の“理想のアイドル”像とは相容れないものだ。初瀬は姉を尊敬しているので、この誤解を見逃すことはできないのだろう。
ノータイムで否定されたことにちょっと思うところはあるが、まぁしかたない。
むしろここで考える時間を必要とせず、即座に反応できる反射神経を褒めるべきだ。さすがアイドル。
「本当に?」
「家が近いので忙しくない時は結構会ってますけど、特別なことはなにもないです。ただご飯食べたりゲームしたりするだけです」
「良いお友達です、ってやつ?」
「そういう言い訳みたいな言い方ではなくてですね……私はアイドルなので、アイドルである限りは友達以上の関係の異性は作りませんよ」
「お堅いねぇ」
「花火さんまでそういうこと言うんですか?」
「あたしはそういうまじめな子は好きだけどね。でもこの業界、楽屋で彼氏と電話してる子だっているでしょ?」
いくらなんでもわきが甘すぎだろ、そいつ。
そのうち外部に絶対バレるぞ。仲が悪いメンバーからリークされたりとかあるんじゃないか?
「バレなければ恋人がいてもいいとは思いません。裏でも表でもみんなが理想とするアイドルでありたいんです」
「そこまで覚悟があるなら、普段からひーちゃんに会わない方が良くない? たとえ友達でもバレたらヤバいでしょ?」
「……それはそうですけど、やっぱり私にも息抜きする場所は必要ですから」
「だから秘密の友達か。いいねぇ、そういうの。あたしにゃ縁のない話ですけども」
姉がグラス半分ほど残っているハイボールを一気に飲み干す。
「ちょっと飲みすぎじゃないですか、花火さん」
「そう言えばさ、うちってみんな藤城なんだよね。だからさ、ここではひーちゃんのことを火花って呼んでみようか?」
「そういうのいいですから、もうっ」
姉は結構絡み酒なタイプだ。
普段は見えないところでストレスをため込んでいるのかもしれない。
もしかして、初瀬にとっての俺のようなグチを聞いてくれる相手とかいないのだろうか?
「良いお友達です、っていうのは納得してあげる。で、良いお友達っていうのはお泊りとかはするの?」
「お泊りって…………あのですね!」
「なに、今の間。冗談だったんだけど。まさかあるの? え、それってどんな友達?」
その後も姉は俺たちに絡み続けた。
腹が立つことに、姉は場をかき乱すだけかき乱して、しばらくすると眠ってしまった。
「悪いな」
「なにが?」
「うちの家族たちが、俺たちが付き合ってるなんて誤解をしてるみたいだから」
姉が静かにところで、俺が代わりに初瀬に詫びておいた。
「いいよ、そう思われてもおかしくないっていうのはわかってる。まぁ花火さんでさえそう考えていたのはちょっと意外だけど。花火さんほどの人でも私の考え方を理解してくれないんだ、って。まぁその手の話はしたことないんだけどね」
「じゃあしかたないな」
「うん。でも、いいんだ。私の考え方を藤城が理解してくれていれば大丈夫、問題ないから」
何が大丈夫で問題ないのか……それはわからなかったが、聞ける雰囲気ではなかった。
少し含みのある言い方で期待しないわけではなかったが、酒のせいだということにしておこう。
あるいは、こうしてすぐに気にしないふりをするから“大丈夫”ということなのかもしれない。