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第20話 新しい夜(下)

「ちょっと小腹空いてきたかも」


 目を覚ましてしばらくしてから、姉がそう言った。

 ちなみに、この時点では寝落ちする前の記憶がなくなっていた。幸いと言うべきか、騒がせておいて簡単に忘れてしまうのはズルいと言うべきか。


「よく考えたら、昨日楽屋で食べたお弁当以降全然食べてないな。……もう二十四時間以上前か」

「じゃあ小腹じゃなくて大腹空かせておけよ。そんな胃が空っぽの状態で酒がぶ飲みするな」

「なんか軽くつまめるものないかな?」


 姉は俺の発言を無視してキッチンに移動し、冷蔵庫を開ける。


「これと言ってないなぁ」


 今日の夜は全員で揃っておせちを食べる予定で、明日は例年通りなら寿司を注文することになる。

 つまり今日明日は料理をしないので、冷蔵庫の中を年内に片付けてしまったのだろう。


「しかたない、何か作るか」


 おせちを先に食べてしまおう、なんて言い出さなくてよかった。ふらつくくらい酔っていてもその程度の自制心は残っているらしい。


「食材ないけど何を作るつもりなんだ?」

「小麦粉、卵、牛乳がある。それに調味料とかも。これならお菓子ならちょちょいと作れるんじゃない?」

「お菓子作り舐めすぎだろ」

「いやいや、作れるって。ね、初瀬ちゃんもこれだけ材料あったら作れると思うよね?」

「そうですね……小麦粉に卵黄と牛乳を適量混ぜて、油で揚げて砂糖まぶしたらなんかドーナツになるようなイメージはありますね」

「あ、いいね。それ。ドーナツって効率的にデブになりたい人のためのやべぇ食べ物って感じだから普段は避けてるけど、今日くらいは食べていいよね?」

「私も久しぶりに食べたいです。最後に食べたのは……ドーナツのCMを撮影した時でしょうか。ドーナツって罪悪感の擬人化……じゃない。擬食化? あれ、擬じゃなくて、えっと? 罪悪感の物質化? ピッタリの言葉が思いつかない。あっ、権化! 罪悪感の権化! あんなの普段は死んでも食べないけど、お正月ならチャレンジしてもいいかなって」


 姉だけじゃなく、初瀬までぼろくそ言ってやがる。

 たとえプライベートだろうと、ドーナツの会社からCMもらったアイドルが罪悪感の権化とかディスっていいのか?

 さてはこいつ……顔に出ないだけで相当酔ってるな?

 二人してかなり酔ってるとなると、火を使わせるのは危険だ。ましてや油を使うとなるとなおさら危ない。

 止めるべきだが、どちらもやると言ったら簡単には引かないタイプだ。

 おそらく止めてもムダだろう。

 なので俺はこれ以上酒を飲むのはやめて、問題が起きないように後ろで見守ることにしよう。



「初瀬ちゃんはドーナツってどうやって作るか知ってる?」

「生地を油で揚げます」

「生地の作り方は?」

「知りません」

「あたしも知らない。ネットで調べればすぐに出てくるんだろうけど」

「それじゃ撮れ高ないですよね。調べながらやって地味にうまくできちゃうとか、一番つまらないですもん。何も見ないでプロ級のを作るか、三角コーナー級のを作るか。それがプロの仕事ですよ」

「さすが、わかってるね」


 わかってねぇよ。

 これ仕事じゃねぇから。

 撮れ高とか一切気にしなくていいから無難なもの作っておけ。三角コーナー直行を前提に作るんじゃない。

 ……と、俺は後ろから注意したものの、二人が俺を気にしたのはほんの一瞬。

 すぐに視線をどこか別の場所に向け、


「ちょっとスタッフがうるさくてすみません」

「気を取り直して、これから始めていきますね」


 と、カメラ目線? のつもりで誰かに語りかけ始めた。

 どうやらこの人たち、料理番組という体でやるつもりみたいだ。

 打ち合わせなし、その場のノリでなんとなく息が合うのはちょっとすごい。別のグループではあるが、売れっ子同士で最近は共演もそれなりにあるらしいので、その中で培われた連係プレーだろうか?

 本来ならすごいことなのだろうが、今は厄介なスキルだ。


「二人とも生地を作れないってことで、じゃあそれぞれ思い付きで適当にやってみてそれっぽい方の勝ちってことで」

「異議なし!」


 いつの間に勝負になったんだよ、とツッコむ気もだんだん失せてきた。


「あれ、初瀬ってクリスマスに番組でクッキー作ったって言ってなかった? それでいけるんじゃないか?」

「え、クッキーの生地とドーナツの生地って同じ?」

「いや、知らんけど」

「知らないなら口を挟まないでもらいたいなぁ。そうやっていきなり口を挟まされると予定が狂うんだよ」

「予定なんてそもそもないだろ。さっきから全部行き当たりばったりじゃないか」


 いつもの落ち着いた初瀬とは違い、今日の初瀬からはとにかく不安しか感じないのだが……とにかく調理が始まった。

 それぞれボールを手にし、初瀬は小麦粉を入れ、量を計っておいた牛乳を少しずつ加えながらかき混ぜている。

 一方姉は、まずボールに牛乳をどばっと注ぎ、そこに小麦粉を入れてかき混ぜようとしている。だが、牛乳が多いせいでなかなか固まらないで苦労している。

 この様子だけを見れば、初瀬の方がちゃんとやっているように思える。

 だが、何グラムの小麦に対して何ミリリットルの牛乳を入れるのが適切か知らないでやっているので、目分量と何も変わらない。


「だんだんと固まってきましたね。泥みたいにぐちゃぐちゃになってきました。まだあんまり売れてない頃にロケで田んぼに入った時を思い出します。指の間に泥が入ってきて気持ち悪いけど気持ち良いみたいなおかしな感覚でした。今の私の生地はそんな状態ですね」

「ヤバい、全然固まらない。びっちゃびちゃで収拾つかない。絶対牛乳入れすぎた。どれだけ小麦粉入れてももうムリだ。しかたない。少し捨てるか」


 初瀬は食べ物に対して使っちゃいけない表現を使い、姉は流しに作りかけの生地を半分ほど捨て、小麦粉を追加してようやく少しそれっぽくなった。

 姉はともかく、初瀬もこうなってしまうか……酒の力って怖いなぁ。

 二人はその後も適当を続け、生地を丸めて形にする時は、粘土遊びを子どものようにふざけていた。

 そして揚げる段階になるともっとひどかった。


「揚げ物ってどれでやるのかな? この鍋でいいかな」

「それになみなみ油のボトル注ぐと一本使い切っちゃいますよ。もったいない。フライパンでいいです。フライパンでも結構揚げ物できるらしいですよ。やったことないけど」

「お、さすが普段から料理してる系アイドル。それっぽい発言」


 という相談をしてからフライパンに油を注ぎ、数センチの厚みを作ってから火にかける。

 温まってきたところで生地を入れるわけだが、油の層が薄すぎてドーナツ状にすると半分以上浮いてしまう。

 なので二人ともせっかく丸めた生地を潰し、ぺったんこにして油の中に投入した。

 生焼けは怖いという理性は残っていたようで、これでもかと過熱を続け、油から出した時には全体がこげ茶色になっていた。

 ドーナツというより揚げた煎餅と言った方が的確だろう。

 ここに大量に砂糖をまぶす。こげ茶色の表面が雪山のように白く染まる。


「完成しましたね」

「意外とおいしそうじゃない?」


 二人は達成感に満ちた顔をしているが、一切食べようとはしない。


「作ったんだから、ちゃんと食うんだよな?」

「………………ひーちゃんさ、終末糖化産物って知ってる?」

「高温調理でできる老化の原因物質だろ?」


 英語名は“Advanced Glycation End-products”。

 略称は“AGE”。天才的なネーミングだ。


「ひーちゃんくらいの年齢だとまだ気にならないかもしれないけど、お姉ちゃんは四捨五入で三十才になる年が見えて来たので、こういうのはね。老いという自然の摂理に抗うには、日々の管理が大切なのよ」


 理屈っぽいことを言い出したということは、酔いは醒めてきたらしい。

 初瀬はと言うと、


「藤城にはいつもお世話になってるから、たまには手作りお菓子をプレゼントするのもいいかなって」


 こちらも自分が食べないための理由を探し始めた。

 どうやら食べるつもりはないようだ。

 せっかく作ったのだから、とか、食べ物を残すなんてもったいない、なんてこの二人が言わないのはわかっている。

 スタイルの良さは、砂糖の誘惑に対して「ノー」と言える人間の特権だ。


「さて、遊びはここまでにして、そろそろ片付けようか」

「そうですね。おばさんたちもそろそろ帰って来る頃でしょうから、その前に痕跡を全部消去しておかないと。あ、でも、牛乳とか卵が空だとバレるよね……藤城、悪いんだけど、買ってきてもらえるかな?」


 こいつら、散々遊んだ挙句、俺には買い物に行かせるのか? ……あまりに虫が良い態度にイラっとしたが、たしかにいつ母さんたちが帰って来てもおかしくない。

 酔いも醒めたようだし、あとは火も刃物も使わないから放っておいても危険はないはずだ。

 なら、ここで片づけをして一緒に怒られるよりは、買い物がてら避難するのは悪くない。

 そのアイディアは完璧に機能した。

 財布を持って外に出たちょうどその時、父さんと母さんと鉢合わせになったのだ。


「火花、どこ行くの?」

「まぁちょっと……一時間くらいで戻る……はず」


 と雑にごまかし、俺は元旦から営業している遠くのスーパーまで買い物に行った。

 俺が帰る前の間、姉と初瀬の身に何があったかは語らないでおく。




 俺の帰宅後、ようやく全員が揃ったのでおせちを食べるということになった。

 その前に新年の挨拶。

 そういうのに慣れている姉……ではなく、父さんが音頭を取る。

 父親としての威厳というわけではないが、収入の面では何年も前から娘の後塵を十歩も二十歩も期しているため、こういうところでそれっぽいことをしたいのだろう。

 まとまりのない父さんの新年の挨拶は姉から「もっとまとめられるでしょ」「尺考えて、尺」「全部カットされるよ、そんなんじゃ」と厳しい指摘を受けながらも三分ほどで終わった。さっきまで怒られていたくせにもうそんな強気な態度をとれるとは、姉の精神力は底知れない。

 それからみんなで乾杯。だが、すでにやらかしている姉と初瀬は酒は飲ませてもらえない。グラスは手にしているが、中に入っているのはただのお茶だ。


「固形物食べるの一日以上ぶり……ああ、体に染みる」


 姉はかまぼこを食べながらしみじみしている。

 初瀬も数の子を食べて、大きく頷いている。

 ちなみに、今年のうちのおせちはどこかのホテルが作ったものだ。

 姉の所属する事務所とのコラボ商品らしい。所属タレントの監修した料理が詰め込まれ、ランダムでグッズが入っているらしい。

 うちのおせちには、よりにもよって姉の写真がプリントされたグッズが入っていた。

 おせちの横には、三角コーナーに捨てられそびれたドーナツのなりそこないが置かれている。

 一切口を付けずに捨てるというのはさすがに許してもらえなかったのだろう。

 まぁ完食しろとも言わないだろうから、最終的にほとんどすべてゴミ箱行きのはず。

 ……その前に、一応少しは食べてやるか。

 もちろん、姉ではなく、初瀬のを食べる。


「思ったより硬いな」


 見た目同様、やはり煎餅のように硬い手触りがする。

 食べやすいサイズに手で割ると、バキッと小気味の良い音がした。どう考えても、ドーナツから出る音ではない。

 嚙むと、口の中でバリバリと音が鳴る。

 小麦から煎餅ってできるんだなぁ、とちょっと感心してしまいそうになる。


「どう、おいしい?」


 初瀬が心配そうに聞いてくる。

 あからさまなウソを言うわけにはいかない。


「これでおいしかったら奇跡だな」

「まぁそうだよね……でも、今回はふざけただけ。レシピを見ながら作ったらちゃんとしたの作れるから。あ、バレンタイン! バレンタインってうちの業界では合法的に賄賂をバラまいていいって日だから、大量に作るつもりなんだよ。藤城にもそれあげる」

「そこってちょうどライブがあって忙しいだろ? ムリしなくていいよ」

「大丈夫大丈夫、気にしないで」

「そっか、じゃあ楽しみにしておく」


 という会話をしていると、うちの家族たちが微笑ましそうな目で俺たちを見ていた。


「なんだよ」

「別に?」


 舌打ちしながら姉を肘で突くと、姉はさらに笑みを濃くしながら身をよじる。

 酔っていた時の記憶がないらしいので、俺たちが友達だと説明したことも忘れられてしまっている。

 つまり、姉はまたしても俺たちが恋人なのではないかと誤解している、ってことになる。

 もういいや、放っておこう。家族限定ならば問題も起こらないだろう。


「二人は楽しそうでいいわね。花火にはなんかおもしろい話ないの?」


 母さんの問いに姉は「別にないよ」とあっさりと返した。


「アイドルって言ったってもういい歳でしょ。同級生の中には結婚してる子もいるでしょ?」

「いるっぽいけど、あたしは別になにも」

「焦りもないの?」

「ないよ。だって、夫婦合わせて十年かかってようやくな額を一年で稼いでるから。二十代のうちに一生分稼げるお仕事してると思えば、焦って他のことに手を出そうとも思わない」


 姉の考え方は初瀬と似ている。

 というより、姉が初瀬に影響を与えていると考えるべきだろう。


「あたしなら、引退してからのんびり相手を探し始めても余裕でしょ?」

「でも花火は三十才とか三十五才になっても普通にアイドルやっていそうな気がするわ。なんなら同級生の娘でもおかしくない年齢の子とユニット組んでそう」

「それはそれでおもしろいわね……でも、ちょっと痛いかしら?」


 ちょっとどころじゃなく痛いよ、そんなアイドル。


「お母さんは早く孫の顔が見たい? そっちの期待はひーちゃんにするといいわ」

「まぁ火花の方が早そうよね」


 名前こそ出さないが、二人が初瀬のことを念頭に置いているだろうことはわかる。

 変に反応すると、どんな藪蛇になるかわかったものじゃない。

 放置した方が安全だろう。

 一瞬だけ初瀬の方を見ると、同じタイミングで初瀬も俺を見ていた。

 お互いにほんの少しだけ微笑む。


 ――まぁこれくらいの誤解はしかたないな。

 ――うん、しかたないね。


 そのアイコンタクトは他の誰にもバレず、少し騒々しいが和やかな藤城家の正月の夜は過ぎて行った。




 だらだらと食べて、飲んで、正月早々芸能人が逮捕されたなんてニュースを見ていたら、いつの間にか日付が変わっていた。

 それから各自風呂に入って、好きなタイミングで寝る。

 それが藤城家のいつもの正月だ。


「呼んでおいてなんだけど、こんなだらだらした正月でよかったか?」

「うん、すごくリラックスできてるよ」


 風呂上がり、リビングで髪を乾かしながらスマホを眺めていた初瀬に聞くと、そういう答えが返ってきた。

 初瀬はスマホを横に置いて、俺ともう少し話すつもりがある意志を見せてくれた。


「ならよかった。そう言えば、初瀬の家の正月ってどんななんだ?」

「うちはもうちょっとお堅い感じかな」

「新年の抱負とか決める感じ?」

「そう、そんな感じ。あとは、去年の抱負をどれくらい達成できたかの報告も」

「未達だとお年玉減らされたり?」

「そこまではないけど、どうして達成できなかったか? って話になるね。目標が過大だったのか、努力が足りなかったのか。それを踏まえて新年の抱負を改めて設定する」

「なんか会社の会議みたいだな。じゃあ、聞いてみようか。初瀬の今年の抱負は?」

「まずは、ツアーのチケットを完売させる。今までよりもっと大きな会場でライブをする。そして、一年間センターの座を守り抜く」

「目標がはっきりしてるんだな」

「藤城の今年の抱負は?」

「俺か……そうだな」


 初瀬の支えであり続けたい。

 初瀬にもっと信頼してもらえる男になりたい。

 という目標はあるが、これは本人の前で言うことではない。


「四月からは三年生になる。だんだんと就活のことを考えないといけなくなるから、将来についてもっと深く考えないといけなくなるな。できれば目を逸らしたくなることもあるだろうけど、逃げずに考え続ける、ってところかな」

「なるほど、将来か。うん、学生っぽいね」

「そうか?」

「アイドルはね、“今”を生きてるんだよ。とにかく不安定な世界だからこそ、今に集中する。今日を生き延びた者だけに未来があるから、将来のことはそこまで考えない」

「そういえば初瀬の抱負はそこまで遠くを見てるって感じじゃないな。今と地続きの近い未来を見てる感じだ」

「その方が今何をするべきかわかりやすいよ。でも、たまにはずっと将来のことを考えてみたくもなる。五年後、十年後とかの自分はどうしてるんだろう、って。五年後はともかく、十年後はもうアイドルを辞めて芸能界からも消えているはず。一体どんな三十才になっているんだろう? その時のことを考えると、楽しみだけどちょっと怖い」

「何も怖がることはない」


 恐れるような未来が初瀬に待っていたら、その時は必ず俺が助けてみせる。


「そうかな?」 


 初瀬の問いに、俺はゆっくりと頷く。


「あなたがそう言うなら、大丈夫な気がしてくる」


 すると初瀬は安心したような微笑みを浮かべてくれた。

 そう、大丈夫だ。

 君が俺を必要としてくれる限り、俺はずっと傍にいる。

 君の笑みが消えないように。

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