「トラキチ、さん……?」
「あ、いや、えっと、違うんです! 立ち聞きするつもりはなかったんですが……少し早く来過ぎてしまって、それで、出直そうか待っていようか迷ってしまって、カサネさんに意見を仰ごうかなと思ったら先客がいらっしゃって、だからつまり、あの……とりあえず、この魚、追っ払ってもらえませんか?」
歩み寄り、モナムーちゃんのエラ付近をぽんぽんと叩くと、モナムーちゃんは瞬き一つしないくりくり目玉を見開いて天井付近へと舞い昇っていきます。可愛いです。
「まだこちらの時間に慣れませんか?」
「えぇ、まぁ……」
この『世界』の時間の流れは、転移者が元いた世界のそれとは異なります。一分も一時間も一日も一年も、まったく違うのです。
それゆえに、元の世界と同じ感覚で時間を計ろうしたり意識して過ごそうとしたりすると、記憶の混在が発生するのと同じように脳が混乱し、想定した時間とはまったくかけ離れた時間に行動してしまうといった事態に陥るのです。今のトラキチさんがそうであるように。
ですが、慣れてしまえばなんら問題はありません。
要は、意識さえしなければよいのです。
『世界』に身を委ね、あるがままを享受することが出来れば、これまでと同じように違和感なく日々を過ごすことが可能となります。
トラキチさんは少し神経質なところがあるので、まだ少し時間を要してしまうとは思われますが……
「早くこちらの『世界』に慣れるといいですね」
「はぁ……頑張ります」
これまで数度、トラキチさんには当相談所へお越しいただきました。
前回の結果を踏まえ、どのような女性がトラキチさんに相応しいのかを検討するために。トラキチさんにもご協力いただくことがいくつかあったのです。
簡単なアンケートやプロフィールの修正などです。
トラキチさんの場合、龍族の婚礼指輪の依頼を受けているという点は十分にアピールポイントになり得ます。龍族と親睦のある職人というのは、それだけでもう十分過ぎる箔が付くのです。
また、トラキチさんの師匠が龍族のお屋敷の銀食器一式を手がけられるという点もアピール大です。それは、将来性の安定を意味するのと同義だからです。
素晴らしい師匠に師事する職人見習い。
トラキチさんは、当相談所においても相当優良な男性相談者であると言えます。
トラキチさんとお見合いをしたいという女性はきっと多くいるでしょう。また、トラキチさんのお見合い相手に選ばれて断る女性は少なくなるはずです。
そのような状況から何度か当相談所へお越しいただき、お相手のランクを上げるか、このままキープするかと、そのようなご相談をさせていただいたのです。
ですが、その度にトラキチさんは約束の時間よりも少し早くやって来られるのです。
ただでさえ遅刻をしてはいけないという信念を持った真面目な性格の方です。そのせいで時間を意識し過ぎるあまり脳がますます混乱し、予定より一時間も早いというのに「遅刻してすみません」と慌ててお見えになった時もありました。
そういう生真面目なのにどこか抜けている行動が、なんともトラキチさんらしいなと思うと同時に、大型犬が飼えるような賃貸物件への引っ越しを検討してしまいそうになります。
もちろん思い留まりますが。
トラキチさんは人間ですので。
たとえ、どれほど可愛かろうとも。
寒い日に、ふやふやになったパンの入ったカボチャのシチューを与えると、きっと間違いなく可愛らしく頬を染めて美味しそうに食べてくれるであろう想像が容易であっても、トラキチさんは人間なのですから。
……残念です。
「それであの、時間がまだ早いんですが……」
「問題ありません。こちらの用件は終わりましたから」
そもそも、オルガードさんの訪問は予定には含まれていませんでした。
優先するべきは予約のあったトラキチさんです。
ということは、お待たせしてしまって申し訳なかったと言うべきでしょうか。
……いえ。予定の時刻はまだでした。申し訳なくはありませんね。
なんにせよ、トラキチさんがおいでになった以上、こちらに仕事を先延ばしにする理由はありません。
であるならば、早速面談に映りましょう。――ハーブティーを、飲みながら。
そこは譲れません。飲みたかったのですから。
「少々、座ってお待ちください。今、ハーブティーをいれてきますので」
それに、ハーブティーは複数で飲む方がリラックス出来るという研究結果も出ておりますし。私の心労も癒されることでしょう。
いつものように「すみません」と謝罪を口にするトラキチさんを座らせて、私は給湯室へ向かいます。
いつものハーブティーをいれて、忘れずにシュガーポットを持って、カウンターブースへと戻ります。
毎回ハーブティーをご馳走するわけではありません。当相談所は喫茶店ではありませんので。
お出しするタイミングは相談員に委ねられています。
今日は、お出しします。
私が飲みたいからです。
これくらいの職権乱用は許容されて然るべきです。
トラキチさんにハーブティーをお出しするのは二度目ですが、忘れてはいませんでした。
トラキチさんはハーブティーに砂糖を入れるということを。
私は、入れませんけれど。
「今日は何色にしようかな」
そんな呟きを漏らして、心持ちうきうきとシュガーポットを覗き込むトラキチさん。味は変わらないと理解しつつ、着色された角砂糖を物色する様はなんとも幼く、そして、そこはかとなくトラキチさんらしく見えました。
「じゃあ、この水色のにします」
「…………」
問いもしないのに、私に向かってそんなことを言って、清涼感のある水色の角砂糖をカップへと落とすトラキチさん。
……因果関係はないものと思われますが、…………今日は、水色です。
無意識のうちに、スカートの裾を押さえてしまいました。
「……トラキチさん、なぜその色を?」
「え? いや、なんとなくこれがいいなぁ、と思いまして」
果たして、本当に因果関係はないのでしょうか。
モナムーちゃんが再び舞い降りてきて、トラキチさんの後頭部を盛大に齧らないかと視線を天井へ向けますが、モナムーちゃんはのんきな顔をして漂っているだけでした。
齧られてしまえばいいのに。
……有耶無耶にしたはずの先日の小さな事故が思い起こされ、なんだか血液が騒ぎ出します。非常に落ち着かず、不快です。
言う必要もないことなのですが、言ってはいけない理由もないことなので念のため、私の尊厳のために、小さな抵抗を試みます。
「たくさんありますから」
「そうですね。色とりどりですよね」
「色とりどりとまでは言っていませんが?」
まるで見てきたかのような口ぶりのトラキチさんに反論すると、トラキチさんはシュガーポットを傾けて、私に中身を見せてきました。
「カラフル、ですよ?」
「…………そうですね」
果たして、この無邪気な表情の裏に悪意は存在していないのでしょうか。
一度ならば偶然とも思えましたが、二度続いたとなると……すごい確率で偶然が続いただけという可能性もないわけではありませんが……しかし……
後日、確かめてみる必要があります。
私は密かに意欲を燃やしました。
ですが、その件は本日の用件とは関係がありません。
気持ちを切り替えてトラキチさんに向き合います。
……その前にハーブティーを一口。
こくり……はぁ。美味しい。
「いい香りですね」
「はい。心が洗われるようです」
ハーブの香りが疲れを癒してくれました。
これでまた、午後も頑張れます。