「あの、……トイレで、何かありました?」
ミューラさんが変わったのは、トイレに行った直後だ。
何かがあったとしたらそのタイミングに間違いない。……と、思っての質問だったのだが。
「こらっ! 女の人にそんなこと聞いちゃダメでしょ。……もう、エッチなんだから」
叱られてしまった。
それも、比較的優しい大人の女性的対応で。
少しだけ恥ずかしそうに、何度かメガネのポジションを変えてはこちらにチラチラと視線を向ける。
そういう意図はなかったんだけれど……
こうなれば、もっと直球で切り込むか。
「な、なんだか、雰囲気変わりました……よね?」
「えっ、分かる?」
「そりゃあ、もう」
「そうなの。実は、昨日の夜ね、前髪を2ミリカットしたのよ」
そんなところは気付いてませんでしたけど!?
そんな僕の心中など知る由もなく、ミューラさんは嬉しそうにメガネを押し上げて、人好きのしそうな笑顔を浮かべる。
「やるわね、トラキチ君。そういうのに気が付くなんて、お姉さん感心しちゃうな」
「あ、あは……あはは」
どうしてこんなにお姉さんを推すんだろう……
もしかして――と、とある仮説が僕の中に浮かび上がってきた。
カサネさんの話では、ミューラさんは八十年もの間、山奥で母親と二人きりで暮らしていたということだった。
ヤマビコ族は群れを好まず少人数で生活するらしいから、きっと同年代の友人なんかもいなかったのだろう。
だから、ミューラさんは自分の中に様々な人格を形成してしまったのではないか。
寂しさを紛らわせるために、たくさんの人格が誕生したのではないか。
そして、その人格は、何かをきっかけに入れ替わり、ミューラさんの体を操るのではないか。
そんな仮説は、的外れだろうか?
あり得なくはないと、思うのだけれど。
「トラキチ君、お皿貸して。おかわり、よそってあげる」
「いや、僕ばっかりじゃ悪いですから、ミューラさんも……」
「なぁ~に遠慮してるのよ。トラキチ君は、お姉さんに甘えてもいいんだからね」
いや……別にそんなつもりも、そういった願望もないのですが…………というか、ちょっとだけ介護されているような気分になってきているんですが……
「はい。召し上がれ」
嬉しそうな顔で小皿を僕に手渡すミューラさん。
その真意は量れない。
「食べてるだけじゃいけないわね。もし、聞きたいことがあるならなんでも質問して。ただし……エッチなのはダメよ☆」
柔らかいウィンクが飛んでくる。
きっと、もっと近くに座っていたら鼻の頭をちょんっと突かれていただろう。
もしかしたら、姉のいない男性なら、こういう甘々なお姉さんに憧れたりするのかもしれないけれど……実姉がいる身としては、こういうのは違和感しか湧いてこない。
実の姉は、確かに面倒見はよくて僕もいろいろと世話を焼いてもらったりもしたけれど、ここまで芝居がかったものではなかった。
ミューラさんの『姉オーラ』は理想像だけを詰め込んだような……ゲームに出てくる中世の街並みのような、そんな都合のよさを感じてしまう。
当然そこにある自然体の『粗悪さ』のようなものが微塵も感じられないこの違和感。
なんというか……そういうシチュエーションを楽しむお店のお姉さんのようで……ちょっと胸が焼けそうだ。
「ミューラさんのご家族についてお伺いしてもいいですか?」
母と二人暮らしを「していた」ということは、なんらかの理由で今は離れて暮らしているということだ。
だから、この質問はタブーに触れる危険が高い。普段の僕なら絶対に口にはしない。
けれど、お見合いという場でならば、それが比較的自然と聞ける。結婚とは、家と家の繋がりでもあるからだ。
地雷原を裸足で進むように慎重になりつつも、僕は突っ込んだ質問をぶつけた。
「そうねぇ……」
特に不快感や戸惑いを見せることなく、ミューラさんはアゴに人差し指を添えて視線を右上へと向かわせる。
「岩……」
岩!?
「……みたいな人、だったかな」
「えっと、それは……見た目が、ですか?」
「へ? あはは! や~だ、もう。トラキチ君おもしろ~い」
手をぱたぱたと揺らしてミューラさんが笑い出す。
どうやら冗談を言ったと思われたらしい。……けど、この『世界』なら何があってもおかしくはないでしょうに。いますよ、きっと。岩みたいな見た目の人。
「見た目は普通。……私とは、あんまり似てないかもだけど、でも、たぶんちょっと似てるんだろうなぁ。親子だしね」
なんてことはない世間話。そんな雰囲気で母親のことを話してくれる。
料理をしない人だったから自分も料理は得意じゃないとか、長風呂が好きで最長記録は六時間だとか、そんな何気ない話を聞く限り、親子間に確執はなさそうだった。
では、なぜミューラさんの中に複数の人格が生まれたのか……
「じゃあ、今度は私から質問ね」
テーブルの上で指を組んで、ミューラさんが穏やかな笑みを浮かべて僕に問う。
「トラキチ君は、どんな女性が好みなのかな?」
メガネの向こうで、ミューラさんの瞳が静かに揺れる。
微笑んではいるけれど、真剣な表情だ。
だから、僕も真剣に考えてそれに答える。
「一緒にいて楽しい人が好きです。僕は、毎日笑顔があふれているような家庭に憧れているんです。毎朝目を覚ますのが楽しみになるような、そんな温かい家庭に」
それは、偽らざる僕の本音。
夜、一人で眠るのだって寂しくない。だって、目が覚めれば父さんと母さん、それに姉さんがリビングで僕を迎えてくれるから。
いい香りのコーヒーと、こんがり焼けたトーストを用意して。
「そう……。素敵な夢ね」
一瞬、ミューラさんの瞳の色が変わった気がした。
なんというか……うまく言えないのだけれど…………作り物じゃない、素の感情を見たような、そんな気がした。
「私も、そんな家庭を築きたいなぁ…………」
テーブルに肘を乗せ、曲げた指の上にアゴを乗せて、首を傾げながらほんの少しの上目遣いでミューラさんが僕を見つめる。
「……トラキチ君となら、築けるかしら?」
ともすればおねだりのような、微かに潤む瞳に意識を奪われそうになった。
これ以上見つめていると抱きしめてしまうかもしれない。そんな警告めいた感情が僕の脳内に湧き上がり、僕は思わず目を逸らしてしまった。
「それは、そ、双方の努力次第、だと思います」
「努力……」
そう呟くと、ミューラさんはテーブルにもたれかけていた体を起こし、背筋を伸ばして決意めいた表情を見せた。
「そうね。私も頑張るわ。幸せな未来のために」
言うや否や、ミューラさんはすっくと立ち上がり前を見つめたまま再び個室を出て行ってしまった。
……またトイレ? と、いうわけではなさそうな雰囲気だったけれど。
カサネさんの方を窺い見ると、カサネさんも驚いた様子でミューラさんが出て行ったドアをじっと見つめていた。